プロローグ
あたしは小屋のベンチに座り、春の陽気に向けて伸びをした。足下では、二匹の野良猫 がパンチを繰り出し合い、じゃれ合っている。自殺監視という目的とは裏腹になんとも長閑(のどか)な風景だ。
暇だったので、お気に入りの音楽を聴きながら、携帯のニュースサイトに目を移す。
たくさんの猫を飼い、近隣住民とトラブルを起こしている老女が話題だ。『猫の長(おさ)』を 自称しているらしく、この手のサイトでは最近よく見かける。保健所がなんとかしようと 動き出すらしいが、その猫たちはどうなってしまうのだろうか。保健所と聞くと、いい結果は待っていない気がして可哀想(かわいそう)だ。
やれやれ、とずれかけていた眼鏡のブリッジを押してフィットさせ、監視に戻ろうとし たところで、携帯が震える。
画面には「じっちゃん」の文字。
イヤホンを外して、応答ボタンをタップして電話に出る。
「ばっきー、退屈で堪(たま)らんやろ」
祖父は幼少期、関西を転々として過ごしていたそうで、基本的には関西弁だ。あたしの ことをばっきーと呼ぶ。
猫の戦いは片方が相手に乗っかり、ワンサイドゲームになっている。
「だから電話してきてくれたの?」
「せや」
「あたしなら大丈夫」
よく自分が他人にどう思われているかを心配するひとも居るが、あたしに関しては、常 に物事をフラットに考えていて、よく言えば冷静だし、悪くいえば感情が一定の無個性な 人間だ。
「たまの休みなんだからちゃんと休んでよ」
「言うてもな、じっちゃんも暇で堪らんのやわ」
だったら、監視をあたしが代わる意味なかったやないかい、とツッコミたくなるが、祖 父思いのあたしは自重しておく。
劣勢だった猫のパンチがカウンターで入り、上下が入れ替わっていた。もしかしたら、 代わりばんこになるルールがあるのかもしれない。
「テレビを観るとか、本を読むとか、いろいろあるでしょ。じっちゃんの好きな哲学書 は?」
「ほとんど読んでしもた。次はなに読んだらええと思う?」
「元プロ野球監督の書いた采配の本とかどう?」
「どこに向かわす気や」
「知らんがな」
こっちまで関西弁になってしまう。
そんな会話をしている最中、ひとりで歩いている女性が眼鏡のフレームの外からレンズ の中にインしてきた。あんなに遊ぶことに夢中だった野良猫たちが、まるで、「こいつは マズイことになったぞ」と一瞬目配せを交わした後、サバンナの大型肉食獣から逃げるような速さで居なくなる。
薄手のシンプルなブラウスにくすんだ紫のパンツという春っぽい格好。ただ、バッグを持っていないのが不自然だ。
ここ塔神坊(とうじんぼう )は、いわゆる自殺の名所だ。各所に自殺を思いとどまらせるための句碑や看板を設置して防ぐ努力をしているし、公衆電話には十円硬貨を常備して誰かに相談ができるようになっている。その女性はそれらを無視して、がんがん突き進んでいく。
観光客ならこれまで何度も見てきた。連れの姿もなく、明らかにおかしい。
「じっちゃん、ごめん。怪しいひとを見つけたから一回切るね」
低い声で囁(ささや)くように伝えて通話を切り、その後を追う。
働きづめの祖父に休暇を取って欲しくて、自分から代わりを引き受けたのだから、これぐらいのことはしなくては。小さい頃から、頼まれたことは何事も最後までしっかりやり遂げてきた自信もそれを手伝った。
舗装された石畳の先は、もう道なんてない。ただの岩肌だ。
女性はその岩に足をかけ、勢いよく登っていく。
あたしだってそんな奥まで行ってみた ことはない。
岩肌とはこんなに歩きづらいものだったのかと、驚く。女性は慣れているのか、あるい は運動神経がいいのか、戸惑うことなく登っていく。全然追いつけない。
あと数歩で海に落ちる。そんな切り立った崖を前にしていた。だが登る足は止まらない。
止めなくては、と思った。声をかけなくては。
それが祖父の代わりに今日ここに居たあたしの役目だ。
「死んでは駄目です」
あたしはこれ以上ないぐらい必死な声をあげた。
女性は足を止め、うんざりだとばかりに襟足の辺りを激しく掻(か)きながらこちらを怪訝(けげん)そうになぜ?と問うような面持ちで振り返った。二十代にも見えたし、三十代と言われても不思議ではない容姿。ただ、端正な顔に綺麗(きれい)な黒髪、モテるだろうな、と思った。いや、こんな時になに不謹慎なことを考えているんだ。
思いとどまらせる決定的な言葉を続けなければ。頭をフル回転させて、煙が上がりそうな勢いで考える。
「今、死にたいと思っているだけかもしれないじゃないですか」
とにかく刹那的にだけは死んで欲しくない。そういう自殺者は多い。だからそう伝えてみた。
表情は一切変わらない。その待ちの姿勢は、あたしを試しているようでもあった。そう考えると、心を動かしてみせろよ、と挑発されている気にもなってきた。
「親が悲しみますよ」
我が子に先立たれることほど不幸なことはないはずだ。
女性は、首の凝りをほぐすように一周回した。寒気を覚える。カーディガンぐらい纏(まと)ってきたらよかったと思うほど。
なんだ、この打っても響かない、あるいは暖簾(のれん)に腕押しの手応えの無さは。
「育ててもらった恩がありますよね?」
畳みかける。これも当然のことだ。人間は生まれてから、ひとりで生きてはこられな い。あたしも品行方正な人間に育ててくれた両親にはとても感謝している。 それでも相手はそんな言葉聞き飽きたと言わんばかりに大きなあくびをしている。
同じ人間とは思えない。反応がいちいち予想外で、まるで全く異なる教育を受けて育っ てきたかのような、そもそも言葉が通じていないような断絶感を覚える。
だが、そのまま閉ざされはしなかった。ようやくあたしに投げかける言葉を見つけ出したのか、喉の辺りが動く。
「そもそもお前は何者だ。その若さで私を説得するに足る人間なのか?」
魔力でも宿っているのでは?と思うほど、威圧的な目で見下ろしてくる。
自分がそれほど価値のある人間だとは思っていない。でも、今は怯(ひる)むことなく名乗らな ければ。
「あたしは……」
声が擦れてしまう。ごくりと唾を飲んで、喉を潤してから言い直す。
「あたしは!自殺を思いとどまらせる役目のヘルプで入っている!」
上手(うま)く一息で言えず、息を吸い込む。
「時椿(ときつばき )と申します!」
すると、相手は「は?」と、くしゃみでもする寸前のような気の抜けた顔になった。
そして、そこで時が止まってしまったように、ただ風に吹かれるままになっていた。
なんだ、この間は。何か自己紹介を補足すべきだろうか、と考えた始めたところで、
「と き つ ば き?」
あたしの苗字(みょうじ)を一文字ずつ、反芻(はんすう)するように音にした。
「はい……珍しいですけど、そうです」
そう答えると、相手は口を手で閉じて、背中を折った。具合でも悪くなって戻しそうな のか、と心配する。
堪えきれず出てきたのは、うわっはっはという盛大な笑い声だった。それは漫画に出てくる絵ぐらい見事で、爆笑の標本として美術室に飾っておきたいぐらいだった。
「いや、ここ最近で一番笑った」
美しい目尻に涙まで浮かべているではないか。
「え……なんでです?」
どこに笑う要素があったのだろう。こっちはずっと真剣だ。
「だって、相撲取りのようではないか。にぃしぃーー、ときつばぁきぃーーみたいな」
まさか、そんな理由だったとは。
そしてなんて、おどけた声を出すのだろう。
「そんな名前の関取いなかったか?」
「居ません!」
なんて失礼なひとなんだろう。と思うあたしもお相撲さんに失礼だな。
でも……笑顔を見せてくれた。自殺を思いとどまってくれるかもしれない。
相手は桜色のハンカチを取り出し、涙を拭っていた。それをお尻のポケットに仕舞うと、仕切り直しだとばかりに背筋を伸ばして胸を張った。
「その面白い苗字に免じて答えてやろう。私は世界の外側を知りに行きたいんだ」
世界の外側……?学校で習っただろうか?世界史で?理科で?いや、初めて聞く言葉だ。
「なんですか、それは?」
「死んだ後に待つ世界だよ」
やばいひとかもしれない。そもそも死のうとしていたのだから、それぐらい全然ありえるのだけど。
「いや、死んだらそこでお仕舞いですよ。何も待っていません」
「ほう。お前は見てきたというのか」
そんな絡まれ方をされても、と面倒臭さを感じる。お仕舞い、という言葉を聞いていなかったのだろうか。
「見てません。見られません。文字通り、その命はお仕舞いになるんです」
「なんだ。知らないのではないか。だから、私は知りに行くのだよ」
そう言って、背中を向ける。まるでそれがこの崖の向こうにあると言わんばかりに。
「落ちたら死ぬだけです!」
必死に近づこうとするが、尖(とが )った岩の上でバランスを崩す。全然距離が詰まらない。
だが、懸命な声が届いたのか、もう一度振り返ってくれる。
なんの感慨も覚えていないような冷たい目で。ドラマのワンシーンを演じているような美しさで。詳しくないけど、クーデレというものがあるらしい。クールとデレが合わさった言葉だが、今はそのクールをひたすら演じているようにだ。この後、デレなど待っているとも思えない。一辺倒なクールキャラの可能性だってある。そう思わされるぐらい、目に宿る意志はまっすぐで、振り返るだけの所作も素早く、切れ味があった。
「そもそも私はこの世に産み落とされることなんて頼んでいないぞ?」