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4月16日(水)
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また彼女(かのじょ)はそこにいた。
朋也(ともや)「あのさぁ…」
古河(ふるかわ)「あ、おはようございます」
頭(あたま)をぺこりと下(さ)げる。
朋也(ともや)「おはようございます…じゃねえよ」
古河(ふるかわ)「はい?」
朋也(ともや)「言(い)いたいことは色々(いろいろ)あるんだけどさ…」
朋也(ともや)「とりあえず、またここで何(なに)してんのさ」
朋也(ともや)「俺(おれ)は単純(たんじゅん)に寝坊(ねぼう)したんだけど、あんたは違(ちが)うだろ?」
朋也(ともや)「ずっとここにいたんだろ」
古河(ふるかわ)「はい…いました」
朋也(ともや)「それとも、なんだ?
おまえは、ここで生徒(せいと)全員(ぜんいん)に挨拶(あいさつ)しているのか」
朋也(ともや)「しかも、遅刻(ちこく)してくる生徒(せいと)にまでだ」
古河(ふるかわ)「いえ…そんなことはないです」
古河(ふるかわ)「正直(しょうじき)に言(い)ってしまうと…今朝(けさ)挨拶(あいさつ)したのは今(いま)のが初(はじ)めてです」
古河(ふるかわ)「………」
朋也(ともや)「………」
『…浦島太郎(うらしまたろう)の気分(きぶん)を味(あじ)わいました』
昨日(きのう)の言葉(ことば)を思(おも)い出(だ)す。
きっとそれだけじゃない。
誰(だれ)もが進学(しんがく)していくような学校(がっこう)で、2度目(どめ)の三年(さんねん)。
しかも、女(おんな)の子(こ)で…。
周(まわ)りの生徒(せいと)との溝(みぞ)は、俺(おれ)が思(おも)っている以上(いじょう)に深(ふか)いのかもしれない。
朋也(ともや)「はぁ…」
無意味(むいみ)に頭(あたま)を掻(か)く。
朋也(ともや)「…とりあえず、いこうぜ。こんなところに突(つ)っ立(た)っていても、仕方(しかた)がないだろ」
古河(ふるかわ)「でも…ちょっとまだ…」
朋也(ともや)「今日(きょう)の昼(ひる)は何(なに)を食(く)う」
古河(ふるかわ)「それもまだ決(き)めてないです」
朋也(ともや)「カツサンドにしろ。あれうまいから」
古河(ふるかわ)「カツサンドというと…一番(いちばん)の人気商品(にんきしょうひん)だという噂(うわさ)のですか」
朋也(ともや)「噂(うわさ)って…んな大(おお)げさな」
古河(ふるかわ)「でも、買(か)うの難(むずか)しいです。あんパンにしておきます」
古河(ふるかわ)「あんパンなら、いつも余(あま)ってますから」
朋也(ともや)「俺(おれ)が買(か)ってきてやってもいいから」
古河(ふるかわ)「いえ、そんな無理(むり)は言(い)わないです」
朋也(ともや)「無理(むり)って、そんな大(たい)したことじゃないけどさ…」
朋也(ともや)「それに、あんパンよりかはカツサンドのほうが効(き)き目(め)があるんじゃないのか」
古河(ふるかわ)「……?」
少(すこ)し小首(こくび)を捻(ひね)った後(あと)、唐突(とうとつ)に俺(おれ)の言葉(ことば)を理解(りかい)して大(おお)きく頷(うなず)いた。
古河(ふるかわ)「カツサンドだったら、ものすごくがんばって、この坂(さか)のぼれますっ」
古河(ふるかわ)「突(つ)っきって、裏門(うらもん)から出(で)てしまうぐらいですっ」
朋也(ともや)「それは、帰(かえ)ってしまってるじゃないかっ」
古河(ふるかわ)「そ、そうですねっ…」
朋也(ともや)「ほら、カツサンドって言(い)ってみろ」
古河(ふるかわ)「えっと…カツサンド」
朋也(ともや)「よし、いくぞ」
本当(ほんとう)にそんなおまじないで、気(き)が奮(ふる)い立(た)つのかどうかは知(し)らない。
でも、それを合図(あいず)に俺(おれ)は彼女(かのじょ)の背中(せなか)を押(お)した。
慌(あわ)てて、自分(じぶん)の足(あし)で坂(さか)を登(のぼ)り出(だ)す。
一歩一歩(いっぽいっぽ)、着実(ちゃくじつ)に。
朋也(ともや)「ふわぁ…」
すでに進学(しんがく)する気(き)もない俺(おれ)にとって、授業(じゅぎょう)ほど無意味(むいみ)なものはなかった。
朋也(ともや)(春原(すのはら)もいないし…退屈(たいくつ)だ…)
ただ居(い)て、話(はなし)を聞(き)き流(なが)しているだけ。教科(きょうか)が替(か)わろうが、やることは同(おな)じだった。
やめておく
他(ほか)に楽(たの)しいことがあるわけでもなし…。
適当(てきとう)に過(す)ごすか…。
………。
四時間目(よじかんめ)を終(お)え、昼休(ひるやす)みに。
2時間(じかん)ぶんの授業(じゅぎょう)しか受(う)けていないにも関(かか)わらず、十分(じゅうぶん)だるい。
朝(あさ)から四時間(よじかん)も授業(じゅぎょう)を受(う)けて、平然(へいぜん)としている奴(やつ)らが信(しん)じられない。
春原(すのはら)「岡崎(おかざき)、昼飯(ひるめし)食(く)いにいこうぜっ」
朋也(ともや)「おまえ、ずっと居(い)たみたいに言(い)うな。今(いま)、来(き)たところだろ」
春原(すのはら)「腹減(はらへ)ったから、来(き)たのさっ」
朋也(ともや)「素敵(すてき)なスクールライフだな」
春原(すのはら)「昼飯(ひるめし)も出(で)れば、ずっと寮(りょう)に居(い)るんだけどねっ」
朋也(ともや)「おまえの存在(そんざい)が、あの寮(りょう)のカビな」
そういや昼飯(ひるめし)で思(おも)い出(だ)す。
朋也(ともや)(約束(やくそく)してたな…カツサンド買(か)ってきてやるって)
朋也(ともや)(しかも、カツサンドはすぐ売(う)れ切(き)れちまうぞ…)
走って買いにいく
朋也(ともや)「春原(すのはら)、おまえはひとりで勝手(かって)に食(く)ってろ!」
俺(おれ)は走(はし)り出(だ)す。
春原(すのはら)「んだよ、おいっ」
俺(おれ)は走(はし)って、学食(がくしょく)に向(む)かう。
学食(がくしょく)のパン売場(うりば)はすでにぶ厚(あつ)い人垣(ひとがき)が出来(でき)ていた。
朋也(ともや)(くそ…遅(おそ)かったか…)
今更(いまさら)、あの人混(ひとご)みの中(なか)に割(わ)って入(はい)っていく気(き)も起(お)きない…。
朋也(ともや)(また、あんパンでもいいかな、あいつ…)
──カツサンドだったら、ものすごくがんばって、この坂(さか)のぼれます。
──突(つ)っきって、裏門(うらもん)から出(で)てしまうぐらいです。
カツサンドを糧(かて)に、あいつは今朝(けさ)、頑張(がんば)ったんだよな…。
朋也(ともや)「ちっ…いくか」
俺(おれ)は人混(ひとご)みの中(なか)に、果敢(かかん)に突(つ)っ込(こ)んだ。
朋也(ともや)「どけっ、てめぇっ!」
生徒(せいと)「ぐあぁっ」
朋也(ともや)「暑苦(あつくる)しいっ!」
生徒(せいと)「うおぁっ!?」
朋也(ともや)「…うらあぁぁっ!」
抜(ぬ)けた先(さき)、ただひとつ残(のこ)っていたカツサンドをひっ掴(つか)む。
朋也(ともや)「これ、くださいっ」
売(う)り子(こ)「160円(えん)ね」
朋也(ともや)「はぁ…はぁ…」
息(いき)も絶(た)え絶(だ)えに俺(おれ)は、人混(ひとご)みから抜(ぬ)け出(で)てくる。
手(て)には、握(にぎ)りすぎてしわしわになったカツサンド。
朋也(ともや)(あ…自分(じぶん)のぶん、忘(わす)れた…)
脱力(だつりょく)し、うなだれる。
朋也(ともや)(何(なに)やってんだ…俺(おれ)…)
朋也(ともや)(これ…食(く)うか…)
朋也(ともや)(しわしわになってるし…)
そうすることにして、顔(かお)を上(あ)げる。
その先(さき)…学食(がくしょく)の入(い)り口(ぐち)に、控(ひか)えめに立(た)つ女生徒(じょせいと)がいた。
じっと…この喧噪(けんそう)が引(ひ)くのを待(ま)っていた。
朋也(ともや)(そりゃあ…あんパンしかなくなる)
俺(おれ)は寄(よ)っていった。
目(め)の前(まえ)に立(た)とうとも、彼女(かのじょ)は俺(おれ)に気(き)づかない。
顔見知(かおみし)りに会(あ)うことなんて、まったく思(おも)ってもみない、というふうに。
朋也(ともや)「よぅ」
古河(ふるかわ)「えっ…わっ」
驚(おどろ)いて、数歩(すうほ)下(さ)がった。
古河(ふるかわ)「あ…岡崎(おかざき)さんっ」
古河(ふるかわ)「岡崎(おかざき)さんも、いらしたんですねっ」
朋也(ともや)「ああ」
古河(ふるかわ)「パンですかっ」
朋也(ともや)「ああ」
古河(ふるかわ)「そうですか、パン、とてもいいと思(おも)いますっ」
朋也(ともや)「おまえは?」
古河(ふるかわ)「わたしですかっ」
何(なに)か、わざと明(あか)るく振(ふ)る舞(ま)っているように見(み)えた。
こんな俺(おれ)でも、自分(じぶん)のいいところを見(み)せたいとばかりに。
古河(ふるかわ)「わたしは、その…例(れい)のカツサンドというものを買(か)ってみようかと思(おも)ったんですが…」
人混(ひとご)みに目(め)を移(うつ)す。
古河(ふるかわ)「やっぱり、無理(むり)みたいです…」
朋也(ともや)「頑張(がんば)ってみたのか?」
古河(ふるかわ)「はいっ、一番(いちばん)早(はや)く教室(きょうしつ)を出(で)ました」
古河(ふるかわ)「でも、授業(じゅぎょう)が終(お)わるのが遅(おそ)かったもので…」
古河(ふるかわ)「すでに、こんな状況(じょうきょう)でした」
朋也(ともや)「まぁな…授業(じゅぎょう)が早(はや)めに終(お)わるぐらいでないと、女(おんな)にはカツサンドは無理(むり)だろうからな…」
古河(ふるかわ)「ちょっと残念(ざんねん)です」
朋也(ともや)「………」
朋也(ともや)「あのさ…」
古河(ふるかわ)「はい」
朋也(ともや)「こんなんでもいいか?」
目(め)の前(まえ)にカツサンドを突(つ)きつけてみた。
古河(ふるかわ)「えっ…これ、カツサンドですかっ」
朋也(ともや)「ああ」
古河(ふるかわ)「買(か)ってきてくださったんですか」
朋也(ともや)「こんなんだけど」
古河(ふるかわ)「ありがとうございますっ」
頭(あたま)を下(さ)げた後(あと)、受(う)け取(と)る。
古河(ふるかわ)「すごいです、これがいつだって一番(いちばん)に売(う)り切(き)れるというカツサンドですかっ」
朋也(ともや)「ああ」
古河(ふるかわ)「本当(ほんとう)にありがとうございますっ」
しわしわになってることなんて、まったく気(き)にしていないようだった。
古河(ふるかわ)「おいくらでしたか」
朋也(ともや)「160円(えん)」
古河(ふるかわ)「それでは…はい」
可愛(かわい)らしい財布(さいふ)を取(と)り出(だ)して、俺(おれ)の手(て)に小銭(こぜに)を載(の)せた。
朋也(ともや)「………」
古河(ふるかわ)「どうしましたか?」
それを受(う)け取(と)っても、立(た)ちつくしている俺(おれ)を見(み)て、そう訊(き)いた。
朋也(ともや)「自分(じぶん)のぶん、まだ買(か)ってねぇ」
古河(ふるかわ)「えっ…」
古河(ふるかわ)「だったら、これは岡崎(おかざき)さんが食(た)べてください」
朋也(ともや)「いや、いいって。人混(ひとご)みが引(ひ)くの待(ま)つから」
古河(ふるかわ)「それだと、あんパンしか残(のこ)らないです」
古河(ふるかわ)「代(か)わりにわたしが買(か)ってきます」
朋也(ともや)「えぇ?」
古河(ふるかわ)「どんなのがいいですか?」
朋也(ともや)「ええと…惣菜系(そうざいけい)のパン」
古河(ふるかわ)「コロッケパンとか、焼(や)きそばパンですねっ」
朋也(ともや)「ああ」
古河(ふるかわ)「それでは、いってきますっ」
俺(おれ)をその場(ば)に残(のこ)し、古河(ふるかわ)は列(れつ)の最後尾(さいこうび)についた。
………。
全然(ぜんぜん)、前(まえ)に突(つ)っ込(こ)んでいく気配(けはい)がない。
古河(ふるかわ)「すみません…あんパンになってしまいました…」
俺(おれ)は思(おも)わず苦笑(くしょう)してしまう。
朋也(ともや)「いや、あんパンでいいよ」
古河(ふるかわ)「わたしの、カツサンドと…」
朋也(ともや)「いいって。俺(おれ)、カツサンドは食(く)い飽(あ)きてるからさ」
古河(ふるかわ)「あんパンは、あまり食(た)べないですか?」
朋也(ともや)「ああ、ぜんぜん食(く)わないね」
朋也(ともや)「あんパンかぁ…むちゃくちゃ久(ひさ)しぶりだなぁ」
古河(ふるかわ)「なら、久(ひさ)しぶりに食(た)べてみてください」
古河(ふるかわ)「おいしいです」
…甘(あま)いの、苦手(にがて)なんだけどな。
その後(あと)、中庭(なかにわ)に場所(ばしょ)を移(うつ)して、俺(おれ)たちは昼食(ちゅうしょく)とした。
朋也(ともや)「俺(おれ)も同(おな)じだよ」
朋也(ともや)「遅刻(ちこく)ばっかしてる」
朋也(ともや)「不良(ふりょう)なんだ」
古河(ふるかわ)「…え?」
朋也(ともや)「校内(こうない)じゃ有名(ゆうめい)なんだ。夜遊(よあそ)びが過(す)ぎて、遅刻(ちこく)の常習犯(じょうしゅうはん)」
朋也(ともや)「今日(きょう)はたまたま遅刻(ちこく)しなかったけどさ…」
朋也(ともや)「けど、おかげで、かなり眠(ねむ)いよ」
朋也(ともや)「今(いま)も、かなり眠(ねむ)いよ」
ふぁあ、とあくびをしてみせる。
古河(ふるかわ)「本当(ほんとう)ですか?」
朋也(ともや)「本当(ほんとう)だよ。夕(ゆう)べも家(いえ)に帰(かえ)ったの、深夜(しんや)の4時(じ)だ」
古河(ふるかわ)「タバコとか…吸(す)ってるんですか」
朋也(ともや)「いや、タバコは吸(す)わない不良(ふりょう)なんだ」
古河(ふるかわ)「なら、良(よ)かったです。わたし、タバコの煙(けむり)、ダメですから」
古河(ふるかわ)「うちのお父(とう)さんは、すごくタバコ吸(す)うんです」
古河(ふるかわ)「お父(とう)さんの部屋(へや)、入(はい)れないです。タバコ臭(くさ)くて」
朋也(ともや)「そう…」
古河(ふるかわ)「服(ふく)とかにもたくさん匂(にお)いついてて、すぐ洗(あら)わないといけないし」
古河(ふるかわ)「大変(たいへん)なんです…えへへ」
初(はじ)めて、彼女(かのじょ)の笑顔(えがお)を見(み)た気(き)がする。
いつも家(いえ)の中(なか)では、こうして笑(わら)っているのだろう。
この子(こ)には、家族(かぞく)だけでも優(やさ)しい。
それを知(し)って、ほっとした。
朋也(ともや)「なぁ、これからどうする」
古河(ふるかわ)「はい?
なんのことですか?」
朋也(ともや)「いや、演劇部(えんげきぶ)…あんなになっちまっててさ…」
古河(ふるかわ)「物置(ものおき)でしたね」
朋也(ともや)「廃部(はいぶ)なんだ。噂(うわさ)に聞(き)いたことがある。後(あと)になって、思(おも)い出(だ)したんだ」
こんなこと隠(かく)していたって仕方(しかた)がない。そうはっきりと告(つ)げた。
古河(ふるかわ)「廃部(はいぶ)…ということは、もう、この学校(がっこう)には演劇部(えんげきぶ)がないんでしょうか」
朋也(ともや)「ああ。ない」
こいつの、この学校(がっこう)での最後(さいご)の希望(きぼう)も…。
古河(ふるかわ)「仕方(しかた)ないです…」
古河(ふるかわ)「誰(だれ)も悪(わる)くないですから」
朋也(ともや)「だな…誰(だれ)も悪(わる)くない。運(うん)が悪(わる)かっただけだ」
古河(ふるかわ)「そうですね」
案外(あんがい)、冷静(れいせい)に受(う)け止(と)めたようだった。
古河(ふるかわ)「カツサンドっ」
朋也(ともや)「いや、おまえ、今(いま)、食(く)ってるじゃん」
古河(ふるかわ)「あ、そうでした」
古河(ふるかわ)「………」
…思(おも)いっきり、堪(た)えているようだった。
友達(ともだち)もいなくて、憧(あこが)れていた部活動(ぶかつどう)も廃部(はいぶ)ときたら、当然(とうぜん)かもしれなかった。
古河(ふるかわ)「あ、誰(だれ)か見(み)てます、こっち」
彼女(かのじょ)が校舎(こうしゃ)の窓(まど)を見上(みあ)げていた。
朋也(ともや)「そうだな」
古河(ふるかわ)「わたしたち、邪魔(じゃま)じゃないでしょうか」
朋也(ともや)「まさか。俺(おれ)たちはずっと、ここにいたんだぜ?」
古河(ふるかわ)「そう…ですよね」
朋也(ともや)「手(て)でも、振(ふ)ってみろよ」
古河(ふるかわ)「えっ?」
朋也(ともや)「手(て)、振(ふ)るんだよ。にこやかに」
朋也(ともや)「そうしたら、一緒(いっしょ)に話(はな)したりする、きっかけになるかもしれないじゃないか」
古河(ふるかわ)「わたし、ひとりですか?」
朋也(ともや)「俺(おれ)がやってどうするんだよ。向(む)こうは、女(おんな)だぜ?」
古河(ふるかわ)「やってもいいと思(おも)いますけど…」
朋也(ともや)「そんなのまるでナンパだろ。ひとりでやるんだ。ほら」
手(て)を持(も)ち上(あ)げてやる。
古河(ふるかわ)「えっと…にこやかにでしたっけ」
朋也(ともや)「そう。笑顔(えがお)でな」
古河(ふるかわ)「えっと…えへへ」
笑(わら)いながらぱたぱたと手(て)を振(ふ)る。
すっ、と窓(まど)の人影(ひとかげ)が消(き)えた。
古河(ふるかわ)「あは…」
笑顔(えがお)が凍(こお)る。
古河(ふるかわ)「カツサンドっ」
朋也(ともや)「いや、だから、食(く)ってるじゃん」
古河(ふるかわ)「あ、そうでした」
もぐもぐ…
古河(ふるかわ)「おもしろいですよね、岡崎(おかざき)さんは」
朋也(ともや)「おまえだろ…」
古河(ふるかわ)「わたしはおもしろくないです」
古河(ふるかわ)「ぜんぜん」
ずっと、空(そら)を見上(みあ)げていたふたり。
いつか、こいつのために誰(だれ)かが降(お)りてくる日(ひ)がくるのだろうか。
古河(ふるかわ)「もし、できるなら…」
古河(ふるかわ)から口(くち)を開(ひら)いていた。
古河(ふるかわ)「演劇部(えんげきぶ)をまた、作(つく)りたいです」
俺(おれ)は嬉(うれ)しく思(おも)った。
出会(であ)った時(とき)の彼女(かのじょ)が、そこまで前向(まえむ)きな発言(はつげん)ができただろうか。
朋也(ともや)「できるさ。簡単(かんたん)なことだ」
古河(ふるかわ)「本当(ほんとう)ですか?」
朋也(ともや)「ああ。あんたにやる気(き)さえあれば」
古河(ふるかわ)「でも、大変(たいへん)なことだと思(おも)います」
古河(ふるかわ)「だから、できれば…」
古河(ふるかわ)「岡崎(おかざき)さん、部長(ぶちょう)になってください」
………。
朋也(ともや)「カツ丼(どん)」
古河(ふるかわ)「はい?」
朋也(ともや)「いや、俺(おれ)は学食(がくしょく)のカツ丼(どん)が好(す)きだなぁーって」
古河(ふるかわ)「?」
朋也(ともや)「とにかく、だ。部長(ぶちょう)はあんただろ。俺(おれ)は演劇(えんげき)なんかに興味(きょうみ)ないしな」
古河(ふるかわ)「…そうですか。残念(ざんねん)です」
朋也(ともや)「だからって、やめるって言(い)うなよ?」
古河(ふるかわ)「でも、ひとりきりは寂(さび)しいです」
朋也(ともや)「部員集(ぶいんあつ)めればいいじゃないか」
古河(ふるかわ)「………」
悩(なや)んでいるようだ。
というより、引(ひ)き返(かえ)せなくなったことを後悔(こうかい)しているような…。
少(すこ)し可哀想(かわいそう)だった。
手伝う
朋也(ともや)「でもな」
だから俺(おれ)は言(い)った。
朋也(ともや)「入部(にゅうぶ)はしないけど、部員集(ぶいんあつ)めるぐらいなら、俺(おれ)も手伝(てつだ)うから」
古河(ふるかわ)「………」
彼女(かのじょ)の目(め)が開(ひら)く。そして俺(おれ)を見(み)た。
古河(ふるかわ)「本当(ほんとう)ですか?」
朋也(ともや)「ああ、約束(やくそく)する」
朋也(ともや)「あんたが立派(りっぱ)な部長(ぶちょう)になるまでは、俺(おれ)も力(ちから)を尽(つ)くすから」
古河(ふるかわ)「なら…」
古河(ふるかわ)「がんばってみます」
朋也(ともや)「よし」
俺(おれ)は何(なに)を喜(よろこ)んでいたのだろうか。
これからの時間(じかん)を、そんなものに費(つい)やすことを約束(やくそく)して。
みんな、受験(じゅけん)に向(む)けて勉学(べんがく)に励(はげ)もうとするこんな時期(じき)に。
いや…
朋也(ともや)「俺(おれ)もこっち側(がわ)の人間(にんげん)なんだよな…」
そんな奴(やつ)らを斜(はす)に見(み)て、いつだって傍観者(ぼうかんしゃ)でいて…
古河(ふるかわ)「何(なに)か言(い)いましたか?」
朋也(ともや)「いや…。全生徒(ぜんせいと)の半数(はんすう)ぐらいが演劇部(えんげきぶ)になるといいな」
古河(ふるかわ)「多(おお)すぎです」
朋也(ともや)「そっか。ま、目標(もくひょう)は高(たか)いほうがいいからな。それぐらいのつもりでいこうぜ」
古河(ふるかわ)「ええ、多(おお)すぎですけど、わかりました」
朋也(ともや)「頑張(がんば)れよ、古河(ふるかわ)さん」
初(はじ)めてそう名(な)を呼(よ)んだ。
古河(ふるかわ)「はいっ」
………。
午後(ごご)の授業(じゅぎょう)、そしてHRと終(お)わり、掃除当番(そうじとうばん)以外(いがい)は帰宅(きたく)していく。
春原(すのはら)「あのさ、岡崎(おかざき)」
春原(すのはら)が自分(じぶん)の机(つくえ)の上(うえ)に座(すわ)り、こっちを向(む)いていた。
春原(すのはら)「なんか、おもしろいことやってる?」
朋也(ともや)「はぁ?」
春原(すのはら)「今日(きょう)の昼休(ひるやす)みも、昨日(きのう)の帰(かえ)りも、おまえ、一目散(いちもくさん)に走(はし)っていったよな?」
春原(すのはら)「僕(ぼく)も混(ま)ぜろって」
朋也(ともや)「んな面白(おもしろ)いことがあったら、俺(おれ)が教(おし)えてほしいぐらいだ」
春原(すのはら)「なんにもないの?」
朋也(ともや)「なんにもねぇよ」
朋也(ともや)「最近(さいきん)腹(はら)の調子(ちょうし)が悪(わる)いだけだ」
朋也(ともや)「それぐらい察(さっ)しろ」
春原(すのはら)「なんだ、それだけだったのか…」
朋也(ともや)「ああ」
春原(すのはら)「つまんねぇの」
春原(すのはら)「じゃ、今日(きょう)はどっか寄(よ)ってこうぜ?」
朋也(ともや)「おまえは俺(おれ)の話(はなし)を聞(き)いてなかったのか」
春原(すのはら)「え?」
朋也(ともや)「調子悪(ちょうしわる)いって言(い)ってんだろ」
朋也(ともや)「じゃあな」
空(から)っぽの鞄(かばん)を掴(つか)んで、俺(おれ)は席(せき)を離(はな)れた。
演劇部(えんげきぶ)の部室前(ぶしつまえ)。
朋也(ともや)(ああ、また来(き)ちまったよ…)
俺(おれ)はそんなにも責任(せきにん)を感(かん)じているのだろうか。
学生(がくせい)の義務(ぎむ)さえ、放棄(ほうき)してしまっているのに。
小(ちい)さな足音(あしおと)が聞(き)こえてきて、俺(おれ)は振(ふ)り返(かえ)る。
古河(ふるかわ)が半(なか)ば駆(か)けるようにして、こっちに向(む)かってきていた。
古河(ふるかわ)「岡崎(おかざき)さんっ」
嬉(うれ)しそうに、そう俺(おれ)の名(な)を呼(よ)んで、横(よこ)に並(なら)んだ。
古河(ふるかわ)「びっくりしました…」
古河(ふるかわ)「誰(だれ)か居(い)るって思(おも)ったら、岡崎(おかざき)さんでした」
朋也(ともや)「ああ、俺(おれ)で悪(わる)かったな」
古河(ふるかわ)「違(ちが)います、違(ちが)う人(ひと)を期待(きたい)してたわけじゃないです」
古河(ふるかわ)「岡崎(おかざき)さんでよかったです」
古河(ふるかわ)「知(し)ってる人(ひと)が待(ま)ってくれてるなんて、思(おも)わなかったですから…」
古河(ふるかわ)「すごくうれしくて…走(はし)ってきてしまいましたっ」
そうか…。
こんな愛想(あいそ)のない野暮(やぼ)ったい男(おとこ)でも、こいつにとっては、唯一(ゆいいつ)話(はなし)ができる人間(にんげん)だったのだ。
古河(ふるかわ)「あの、今(いま)から、何(なに)かしますかっ」
朋也(ともや)「そうだな…」
俺(おれ)はドアを開(ひら)く。
床(ゆか)一面(いちめん)に広(ひろ)がるダンボールや備品(びひん)。
朋也(ともや)「とりあえず、掃除(そうじ)だな…」
古河(ふるかわ)「ですよね」
古河(ふるかわ)「まず、物(もの)をどかさないといけないです…」
朋也(ともや)「だな」
俺(おれ)たちは物(もの)を別(べつ)の空(あ)き教室(きょうしつ)に運(はこ)び、また別(べつ)の教室(きょうしつ)から持(も)ってきた掃除(そうじ)用具(ようぐ)で掃除(そうじ)を始(はじ)めた。
はたきで埃(ほこり)を落(お)とし、箒(ほうき)で掃(は)き集(あつ)め、そして雑巾掛(ぞうきんが)けをした。
西日(にしび)が差(さ)し始(はじ)める頃(ころ)、ようやく部室(ぶしつ)として使(つか)えるほどに片(かた)づいた。
朋也(ともや)「こんなもんでいいかな」
古河(ふるかわ)「はいっ」
古河(ふるかわ)が目(め)を輝(かがや)かせて室内(しつない)を見渡(みわた)す。
古河(ふるかわ)「できました…わたしたちの部室(ぶしつ)です」
朋也(ともや)「わたしたち?」
朋也(ともや)「俺(おれ)、部員(ぶいん)じゃないんだけど」
古河(ふるかわ)「え…?」
一転(いってん)して、泣(な)きそうな顔(がお)になる。
しかし、これだけははっきりとさせておかなければいけない。
朋也(ともや)「俺(おれ)は部員(ぶいん)を集(あつ)める手伝(てつだ)いをするだけだぞ」
古河(ふるかわ)「演劇(えんげき)、楽(たの)しいです」
朋也(ともや)「演劇(えんげき)に興味(きょうみ)なんてない」
古河(ふるかわ)「本当(ほんとう)に…その…ないんですか」
朋也(ともや)「ああ。悪(わる)いけど」
古河(ふるかわ)「………」
…落(お)ち込(こ)んでいる。
朋也(ともや)(興味(きょうみ)ある素振(そぶ)りすら、見(み)せてないはずなんだけどな…)
朋也(ともや)「あのさ、古河(ふるかわ)」
古河(ふるかわ)「はい」
朋也(ともや)「すぐ、人(ひと)なんて集(あつ)まる。俺(おれ)に任(まか)せておけ」
古河(ふるかわ)「いえ、そういう問題(もんだい)じゃなくて…」
古河(ふるかわ)「岡崎(おかざき)さんに居(い)てほしいと思(おも)っただけです」
古河(ふるかわ)「何人(なんにん)集(あつ)まろうと、です」
朋也(ともや)「いや…そう言(い)ってもらえるのは嬉(うれ)しいんだけどさ…」
朋也(ともや)「…まあ、その件(けん)に関(かん)しては考(かんが)えておくよ」
そう曖昧(あいまい)に締(し)めくくる。
古河(ふるかわ)「はい。お願(ねが)いします」
そう…俺(おれ)の役割(やくわり)は、部員(ぶいん)が集(あつ)まるまでだ。
そうすれば、こいつも、学校(がっこう)で話(はな)せる人間(にんげん)がたくさんできて…
俺(おれ)にすがる必要(ひつよう)なんてなくなるに違(ちが)いない。
世話(せわ)を焼(や)くのも、それまでだった。
ふたりで、もう下校生徒(げこうせいと)もまばらな坂(さか)を下(くだ)る。
少(すこ)しだけ帰(かえ)りたくなかった。
いや…かなり、か。
朋也(ともや)「腹減(はらへ)ったな」
古河(ふるかわ)「はい、空(す)きました」
朋也(ともや)「飯(めし)、食(く)いたいな」
古河(ふるかわ)「食(た)べたいです」
朋也(ともや)「どっかで、食(く)ってくか」
そう誘(さそ)ってみた。
古河(ふるかわ)「外食(がいしょく)ですか?」
朋也(ともや)「そう。不良(ふりょう)っぽいだろ」
古河(ふるかわ)「でも、わたしは家(いえ)に帰(かえ)ってご飯(はん)作(つく)るお手伝(てつだ)いしないとダメなんです」
朋也(ともや)「そんなのいいだろ」
古河(ふるかわ)「お母(かあ)さんだけに任(まか)せておけないですから」
そう言(い)って笑(わら)う。全然(ぜんぜん)苦(く)に思(おも)っていないようだ。
その様子(ようす)からも、彼女(かのじょ)の家庭(かてい)が暖(あたた)かなものであることが窺(うかが)えた。
古河(ふるかわ)「岡崎(おかざき)さんは、家(いえ)でご飯(はん)、食(た)べないんですか?」
朋也(ともや)「帰(かえ)っても、何(なに)もないからな」
古河(ふるかわ)「………」
しばし沈黙(ちんもく)。
古河(ふるかわ)「えっと、そのっ…」
何(なに)か言(い)いつくろおうとする。その前(まえ)に俺(おれ)は教(おし)えることにする。
朋也(ともや)「親父(おやじ)は元気(げんき)だよ。母親(ははおや)のほうは、いないけどさ」
古河(ふるかわ)「じゃあ…その、お父(とう)さんと晩(ばん)ご飯(はん)食(た)べないんですか?」
朋也(ともや)「ああ。喧嘩(けんか)してるんだ、ずっと」
わかりやすくするため、そういうことにしておく。
きっと今(いま)の酷(ひど)さなんて、誰(だれ)にも伝(つた)わらない。
俺(おれ)にしかわからない。
古河(ふるかわ)「何(なに)か、あったんですか?」
朋也(ともや)「ああ。色々(いろいろ)あった」
もう取(と)り返(かえ)しのつかないほど色々(いろいろ)と。
古河(ふるかわ)「………」
彼女(かのじょ)は黙(だま)り込(こ)む。気(き)まずい方向(ほうこう)へと話(はなし)が進(すす)んでいることを気(き)にしているようだった。
朋也(ともや)「ま、父子家庭(ふしかてい)ってのはそんなもんだ」
朋也(ともや)「男(おとこ)ふたりが顔(かお)を突(つ)き合(あ)わせて仲良(なかよ)くやってたら、逆(ぎゃく)に気持(きも)ち悪(わる)いだろ」
フォローのつもりでそう付(つ)け加(くわ)える。
古河(ふるかわ)「そうですか」
古河(ふるかわ)「でも、どこかで…」
彼女(かのじょ)は胸(むね)の前(まえ)で両手(りょうて)を重(かさ)ねて…
古河(ふるかわ)「喧嘩(けんか)していても、どこかで、通(つう)じ合(あ)っていればいいです」
そうまとめた。
朋也(ともや)「そうだな」
息(いき)をつく。
俺(おれ)は不思議(ふしぎ)に思(おも)った。どうしてここまで、自分(じぶん)の家(いえ)の事情(じじょう)など話(はな)してしまったのか。
古河(ふるかわ)「あの、もし迷惑(めいわく)でなければ…」
古河(ふるかわ)「晩(ばん)ご飯(はん)、ご招待(しょうたい)します」
あるいは、その言葉(ことば)を俺(おれ)は待(ま)っていたのかもしれない。
ただ、家(いえ)から遠(とお)ざかりたくて。
朋也(ともや)「いいのか?」
古河(ふるかわ)「構(かま)わないです。わたしの友達(ともだち)って言(い)えば、快(こころよ)く迎(むか)えてくれます。これには自信(じしん)あります」
朋也(ともや)「そっか」
本当(ほんとう)に、幸(しあわ)せな家庭(かてい)なのだろう。
そんな場所(ばしょ)に無粋(ぶすい)な俺(おれ)などが割(わ)って入(はい)ることに気兼(きが)ねはしたが、それ以上(いじょう)に家(いえ)に帰(かえ)ることがためらわれた。
だから、俺(おれ)は遠慮(えんりょ)もせずご相伴(しょうばん)に預(あず)かることにした。
古河(ふるかわ)「ここから真(ま)っ直(す)ぐいくと、公園(こうえん)があって、その正面(しょうめん)にパン屋(や)があります」
朋也(ともや)「うん」
古河(ふるかわ)「そのパン屋(や)が家(うち)です」
朋也(ともや)「わかったよ」
古河(ふるかわ)「それでは、家(うち)で待(ま)っててください。すぐわたしも戻(もど)りますので」
朋也(ともや)「ああ。じゃあな」
古河(ふるかわ)「はい」
と背中(せなか)を向(む)けた彼女(かのじょ)の後(うし)ろ襟(えり)を掴(つか)む。
朋也(ともや)「待(ま)て待(ま)て、どうしてこんなところで一度(いちど)別(わか)れるんだよっ」
古河(ふるかわ)「え?
ダメでしょうか」
朋也(ともや)「ダメもなにも、おまえがいなけりゃ、俺(おれ)は身元(みもと)が怪(あや)しい自称(じしょう)おまえの友達(ともだち)でしかないだろ」
古河(ふるかわ)「大丈夫(だいじょうぶ)です。制服(せいふく)着(き)てますから」
朋也(ともや)「そんな問題(もんだい)じゃないっ」
朋也(ともや)「快(こころよ)く通(とお)されて、会(あ)ったこともないおまえの家族(かぞく)と俺(おれ)がテレビ見(み)ながら団欒(だんらん)してたほうが不気味(ぶきみ)だろっ」
古河(ふるかわ)「だから、自信(じしん)あるんです」
古河(ふるかわ)「うちの家族(かぞく)は、そういうこと気(き)にしないです。不気味(ぶきみ)じゃないです。とても自然(しぜん)に接(せっ)してくれます」
朋也(ともや)「そらぁすげえな…」
どんな家族(かぞく)だ。想像(そうぞう)もつかねぇ…。
天(てん)を仰(あお)ぐ。
朋也(ともや)「しまった」
目線(めせん)を戻(もど)したとき、彼女(かのじょ)はすでに遠(とお)くにいて、こっちに向(む)けて手(て)を振(ふ)っていた。
古河(ふるかわ)「公園(こうえん)までいったらわかりますのでっ」
そう言(い)って、立(た)ち去(さ)った。
ひとり残(のこ)される俺(おれ)。
朋也(ともや)(あいつ…世間知(せけんし)らずだよな…)
そのことを痛感(つうかん)する。
朋也(ともや)「今日(きょう)も弁当(べんとう)買(か)って、春原(すのはら)の部屋(べや)か…」
呟(つぶや)いて踵(きびす)を返(かえ)す。
朋也(ともや)「………」
が、そこで足(あし)を止(と)める。
…ここで俺(おれ)がいなくなったとしたら、あいつはどうするだろうか。
朋也(ともや)(きっと探(さが)すだろうな…)
面倒(めんどう)なことになったものだ。
朋也(ともや)「はぁ…」
なんだか無性(むしょう)に腹(ばら)が立(た)ってきた。
ちょっとした気(き)まぐれから面倒(めんどう)を抱(かか)え込(こ)んでしまった自分(じぶん)に。
何(なに)もしなければ、何(なに)も起(お)きずに済(す)んでいたのに…。
朋也(ともや)(ああーっ、くそっ…)
頭(あたま)の中(なか)で、何(なに)かが吹(ふ)っきれた(あるいはキレた)。
そう…あいつの言(い)ったことを行動(こうどう)に移(うつ)せばいいのだ。
極(きわ)めて自然(しぜん)に。
そうすれば、すべては自然(しぜん)の流(なが)れで起(お)きた出来事(できごと)。
今日(きょう)は何(なん)の後悔(こうかい)もない一日(いちにち)になる。
あいつの家(いえ)で晩飯(ばんめし)を食(く)って、家路(いえじ)についた。それだけとなる。
朋也(ともや)(そうしてやる…)
俺(おれ)は『不自然(ふしぜん)』を強引(ごういん)に『自然(しぜん)』に変(か)えるために、もう一度(いちど)踵(きびす)を返(かえ)して歩(ある)き始(はじ)めた。
朋也(ともや)「ここか」
公園(こうえん)のすぐ正面(しょうめん)。一軒(いっけん)のパン屋(や)があった。
『古河(ふるかわ)パン』と看板(かんばん)にある。
朋也(ともや)(すっげー地味(じみ)な店(みせ)…)
ガラス戸(ど)は半分(はんぶん)閉(と)じられていたが、中(なか)からは煌々(こうこう)とした明(あ)かりが漏(も)れている。
まだ営業中(えいぎょうちゅう)のようだった。
にしても、入(はい)りづらい佇(たたず)まいである。常連客(じょうれんきゃく)以外(いがい)が、訪(おとず)れることがあるのだろうか?
俺(おれ)がパンを求(もと)める客(きゃく)であったなら、遠(とお)くても別(べつ)のパン屋(や)を探(さが)すだろう。
でも今(いま)は、古河(ふるかわ)に招待(しょうたい)されて来(き)たのだから、ここに入(はい)るしかない。
戸(と)の敷居(しきい)を跨(また)いで、中(なか)に踏(ふ)み入(い)る。
朋也(ともや)「………」
誰(だれ)もいなかった。
朋也(ともや)「ちーっす」
声(こえ)をかける。
朋也(ともや)「………」
それでも、返事(へんじ)はなかった。
朋也(ともや)(結局(けっきょく)、留守(るす)なのかよ…)
朋也(ともや)(だとしたら、取(と)られ放題(ほうだい)だぞ…)
俺(おれ)は棚(たな)に並(なら)べられたパンに目(め)を向(む)ける。
朋也(ともや)(かなり残(のこ)ってるな。どうするんだろ、これ…)
こんなに遅(おそ)い時間(じかん)だというのに、トレイには大量(たいりょう)のパンが並(なら)べられていた。
見(み)た目(め)はうまそうだ。
朋也(ともや)「よし、味見(あじみ)してやるか」
その中(なか)のひとつを手(て)に取(と)る。
だが、口(くち)に運(はこ)ぶ途中(とちゅう)で、違和感(いわかん)に気(き)づき、手(て)を止(と)める。
朋也(ともや)(何(なに)か入(はい)ってるぞ、これ…)
声(こえ)「こんばんはっ」
いきなり背後(はいご)で声(こえ)。
驚(おどろ)いて振(ふ)り返(かえ)ると、ひとりの女性(じょせい)がすぐ近(ちか)くに立(た)っていた。
エプロンをしているところを見(み)ると、きっと店員(てんいん)なのだろう。
古河(ふるかわ)の母親(ははおや)なのだろうか。にしては、若(わか)く見(み)えた。
古河(ふるかわ)·母(はは)「それ、今週(こんしゅう)の新商品(しんしょうひん)なんです。食(た)べてみてください」
朋也(ともや)「代金(だいきん)は?」
古河(ふるかわ)·母(はは)「結構(けっこう)ですよ。余(あま)り物(もの)ですから」
朋也(ともや)「そりゃ、ラッキー」
古河(ふるかわ)·母(はは)「それ、コンセプトは『なごみ』です」
朋也(ともや)「あん?
これ食(く)うと、なごむの?」
古河(ふるかわ)·母(はは)「はい。とってもなごむと思(おも)いますよっ」
朋也(ともや)「………」
よくわからなかったが、食(た)べてみることにする。
ぱきっ!
…ボリボリ。
古河(ふるかわ)·母(はは)「おせんべいが入(はい)ってるんですよ。すごいですよね。アイデアの勝利(しょうり)ですよね」
敗北(はいぼく)していた。
古河(ふるかわ)·母(はは)「名付(なづ)けて…おせんべいパンです」
まんまだった。
古河(ふるかわ)·母(はは)「お子(ご)さまから、ご年輩(ねんぱい)の方(かた)まで幅広(はばひろ)く愛(あい)されそうですよね」
幅広(はばひろ)く嫌(いや)がられそうだった。
古河(ふるかわ)·母(はは)「………」
俺(おれ)が黙(だま)っていることに、不安(ふあん)を覚(おぼ)えたのだろう。
古河(ふるかわ)·母(はは)「あの…ダメでしょうか?」
恐(おそ)る恐(おそ)るそう訊(き)いた。
朋也(ともや)「ああ。ずばり言(い)おう。こんなもの誰(だれ)も買(か)わない」
古河(ふるかわ)·母(はは)「な…何(なに)が悪(わる)いんでしょう…ネーミングでしょうか」
古河(ふるかわ)·母(はは)「ネーミングに関(かん)しては自信(じしん)ないです」
古河(ふるかわ)·母(はは)「えっと、どうしましょう…」
古河(ふるかわ)·母(はは)「ボリボリいうから…ボリボリパンとかっ…」
古河(ふるかわ)·母(はは)「パキパキパンのほうがいいですか?」
朋也(ともや)「あの、ちょっといい?」
古河(ふるかわ)·母(はは)「はい、なんでしょう」
朋也(ともや)「問題(もんだい)はそれ以前(いぜん)にあると思(おも)うんだけど」
古河(ふるかわ)·母(はは)「はい?」
朋也(ともや)「そもそも、パンの中(なか)にせんべいなんてものを入(い)れる発想(はっそう)自体(じたい)が間違(まちが)ってるってことだ」
古河(ふるかわ)·母(はは)「でも…おいしいですよね?」
朋也(ともや)「まずいから言(い)ってるんだけど」
古河(ふるかわ)·母(はは)「………」
ぶわっと目(め)に涙(なみだ)を浮(う)かべた後(あと)…
だっ!
背中(せなか)を向(む)けて、走(はし)り去(さ)った。
朋也(ともや)「ガキかよ、おいっ!」
………。
誰(だれ)もいなくなった店内(てんない)。
俺(おれ)がひとり、呆然(ぼうぜん)と立(た)ち尽(つ)くす。
朋也(ともや)(この親(おや)にして、この子(こ)あり、かよ…)
そんな言葉(ことば)を思(おも)い出(だ)さずにはいられない。
一体(いったい)どんな家庭環境(かていかんきょう)なのだろう、この家(いえ)は。
…徐々(じょじょ)に不安(ふあん)になってくる。
せめて、父親(ちちおや)だけはまともであってほしいと願(ねが)う。
声(こえ)「おいおい、なんてことしてくれんだよ、てめぇ」
殺気(さっき)だった声(こえ)がした。
振(ふ)り返(かえ)ると、今度(こんど)は目(め)つきの悪(わる)い男(おとこ)が立(た)っていた。
まさか…こいつが古河(ふるかわ)の父親(ちちおや)なのだろうか。
母親(ははおや)と同(おな)じで若(わか)い。まるで更正(こうせい)しそこなったまま大人(おとな)になった不良(ふりょう)、という感(かん)じだ。
古河(ふるかわ)·父(ちち)「おめぇなぁ、うまいうまいって食(く)ってりゃいいんだよ」
古河(ふるかわ)·父(ちち)「それが義理(ぎり)だろ、人情(にんじょう)だろ」
初対面(しょたいめん)で、そんなものない。
古河(ふるかわ)·父(ちち)「真実(しんじつ)ってのはいつも過酷(かこく)なもんだからなぁ」
古河(ふるかわ)·父(ちち)「てめぇ、それをまんま突(つ)きつけちゃあ、可哀想(かわいそう)だろ」
古河(ふるかわ)·父(ちち)「おまえだって、突然(とつぜん)自分(じぶん)の親(おや)から、実(じつ)はあなたは橋(はし)の下(した)で拾(ひろ)った子供(こども)なの、なんて告白(こくはく)されてみろ」
古河(ふるかわ)·父(ちち)「ちったぁ、ブルーになるだろ。な」
古河(ふるかわ)·父(ちち)「だから、あいつのパンはうまいって言(い)っておけ」
古河(ふるかわ)·父(ちち)「おい、返事(へんじ)はどうした」
朋也(ともや)「………」
古河(ふるかわ)·父(ちち)「客(きゃく)だからといって、他人(たにん)ヅラさせねぇぞ」
古河(ふるかわ)·父(ちち)「ここら一帯(いったい)の住民(じゅうみん)はあいつのパンをうまいと言(い)って食(く)う」
古河(ふるかわ)·父(ちち)「これは暗黙(あんもく)の了解(りょうかい)だ。掟(おきて)だ。法律(ほうりつ)だ」
理不尽(りふじん)だ。
古河(ふるかわ)·父(ちち)「守(まも)れよ」
古河(ふるかわ)·父(ちち)「じゃねえと、しばくぞ、こら」
とんでもない家(いえ)に来(き)てしまったと、俺(おれ)は思(おも)う。
古河(ふるかわ)·父(ちち)「かーっ、今日(きょう)もよく余(あま)ってんな」
男(おとこ)が店内(てんない)を見回(みまわ)して、ぼやいた。
そして俺(おれ)の目(め)の前(まえ)で、次々(つぎつぎ)とトレイに積(つ)まれたパンをビニール袋(ふくろ)に詰(つ)めていく。
古河(ふるかわ)·父(ちち)「なんじゃこらぁっ…」
古河(ふるかわ)·父(ちち)「ひとつしか売(う)れてないじゃねぇか、早苗(さなえ)のせんべえパンは」
そのひとつは俺(おれ)の手(て)の中(なか)だ。
古河(ふるかわ)·父(ちち)「…こいつは磯貝(いそがい)さん家(うち)行(い)きだなぁ」
隣近所(となりきんじょ)にお裾分(すそわ)けして回(まわ)るのだろうか。迷惑(めいわく)な話(はなし)だった。
古河(ふるかわ)·父(ちち)「かーっ、こいつも売(う)れてねぇなぁ!」
朋也(ともや)(今(いま)のうちに、逃(に)げるべきだな…)
俺(おれ)はそっと踵(きびす)を返(かえ)し、店(みせ)を後(あと)にしようとした。
古河(ふるかわ)·父(ちち)「あ、てめぇ、その制服(せいふく)、ウチの子(こ)と同(おな)じ学校(がっこう)のじゃねえ?」
…気(き)づかれた。
古河(ふるかわ)·父(ちち)「おい、待(ま)てって」
朋也(ともや)「そうだよ、何(なに)かあんのか」
古河(ふるかわ)·父(ちち)「てめぇ、渚(なぎさ)の友達(ともだち)?」
朋也(ともや)「ああ。文句(もんく)あんのか」
古河(ふるかわ)·父(ちち)「ちっ…それを早(はや)く言(い)えっ」
古河(ふるかわ)·父(ちち)「おい、早苗(さなえ)っ!
今夜(こんや)は盛大(せいだい)にいくぜっ!」
近(ちか)づいてきて、わっし、と肩(かた)を掴(つか)まれる。
朋也(ともや)「帰(かえ)るんだよ、俺(おれ)はっ!」
そして、ずるずると引(ひ)きずられていく。
…ものすごい力(ちから)で。
抵抗(ていこう)の余地(よち)はなかった。
テーブルの上(うえ)には所狭(ところせま)しと、余(あま)り物(もの)のパンが並(なら)べられていた。
早苗(さなえ)「すみません。渚(なぎさ)のお友達(ともだち)だったなんて」
早苗(さなえ)「あは…恥(は)ずかしいです。そうとわかってたら、あんな姿(すがた)、見(み)せなかったんですけど…」
客(きゃく)には見(み)せまくっているらしい。
古河(ふるかわ)·父(ちち)「はっは!
気(き)にすんな、早苗(さなえ)。こいつは少(すこ)しイカれてるんだ」
早苗(さなえ)「お客(きゃく)さんにそんなこと言(い)ってはいけません」
まったくだ。
古河(ふるかわ)·父(ちち)「まぁ、なんにしてもめでたい。こんなに早(はや)く渚(なぎさ)が友達(ともだち)連(つ)れてくるなんてなぁっ」
早苗(さなえ)「それも男(おとこ)の子(こ)ですよ、秋生(あきお)さん」
秋生(あきお)「なぁにぃ!?
男(おとこ)だとぉ!?」
今(いま)、気(き)づいたのか。
早苗(さなえ)「もしかしたら、ボーイフレンドかもしれませんね」
秋生(あきお)「かぁっ、こんな優男(やさおとこ)に渚(なぎさ)を渡(わた)せるかっ、帰(かえ)れ、帰(かえ)れっ!」
朋也(ともや)「じゃ、帰(かえ)ります」
秋生(あきお)「こらぁっ、それでも男(おとこ)かっ!
男(おとこ)なら、力(ちから)づくでも奪(うば)っていくもんだろうがぁ!」
秋生(あきお)「といっても、渡(わた)さんがなっ!」
朋也(ともや)「どっちだよ…」
早苗(さなえ)「さぁ、たぁんと召(め)し上(あ)がってくださいねっ」
古河母(ふるかわはは)が、にこにこと微笑(ほほえ)みながらパンを薦(すす)めてくる。
早苗(さなえ)「こっちのパンは、人気(にんき)あるんですよ。とてもおいしいと思(おも)います」
きらん、と古河父(ふるかわちち)の眼光(がんこう)が俺(おれ)を射(い)る。
…暗黙(あんもく)の了解(りょうかい)。掟(おきて)。法律(ほうりつ)。
嫌(いや)な家(いえ)だ…。
声(こえ)「ただいまかえりましたー」
秋生(あきお)「おっ」
秋生(あきお)「お姫様(ひめさま)のお帰(かえ)りだ」
ようやく古河(ふるかわ)が帰(かえ)ってきたようだった。
助(たす)かった…のか?
古河(ふるかわ)「やっぱりもう仲良(なかよ)しになってます」
秋生(あきお)「おぅ、任(まか)せておけ、娘(むすめ)よ」
早苗(さなえ)「渚(なぎさ)の友達(ともだち)を退屈(たいくつ)させるなんてことはしませんっ」
ぐっ、と拳(こぶし)を付(つ)き合(あ)わせる三人(さんにん)。
俺(おれ)はぼぉ~っと、アホのようにその光景(こうけい)を見(み)ていた。
秋生(あきお)「どうした、アホづらしやがって」
朋也(ともや)「いや、この家族(かぞく)には関(かか)わらないべきなんだろうなぁ、と思(おも)って」
秋生(あきお)「はっは!
すでにこの通(とお)り、ちょっとキツめのギャグも言(い)い合(あ)える仲(なか)だぜ」
古河(ふるかわ)「よかったです」
古河(ふるかわ)は心底(しんそこ)喜(よろこ)んでいるようだった。
これが家族(かぞく)なんだろう…そう思(おも)った。
古河(ふるかわ)「今日(きょう)の晩(ばん)ご飯(はん)は、パンですか?」
秋生(あきお)「いや、これはお祝(いわ)いだからな。こいつに持(も)って帰(かえ)らせりゃいい」
古河(ふるかわ)「じゃあ、材料(ざいりょう)買(か)ってきましたから、作(つく)ります」
早苗(さなえ)「ふたりで仲良(なかよ)く待(ま)っててくださいねっ」
古河(ふるかわ)の後(あと)を古河母(ふるかわはは)が追(お)った。
秋生(あきお)「………」
古河父(ふるかわちち)とふたりきりになる…。
秋生(あきお)「夕飯(ゆうはん)はまともなもんがでる。安心(あんしん)しろ」
朋也(ともや)「………」
…逃(に)げ損(そこ)ねたようだった。
古河(ふるかわ)「いいお肉(にく)があったので、トンカツにしました」
古河(ふるかわ)「トンカツ、手抜(てぬ)きっぽいですけど、おいしいですから」
古河(ふるかわ)「こうやって、千切(せんぎ)りのキャベツいっぱい付(つ)け合(あ)わせて、一緒(いっしょ)にソースかけて」
これが本来(ほんらい)の古河(ふるかわ)の姿(すがた)。
よく喋(しゃべ)っていた。
こんな家族(かぞく)でもいるだけで、これだけ変(か)わるのだ。
俺(おれ)は、彼女(かのじょ)が本来(ほんらい)持(も)つ明(あか)るさの半分(はんぶん)も引(ひ)き出(だ)せていないだろう。
無性(むしょう)に腹(はら)が立(た)つ。
…こんな家族(かぞく)に負(ま)けている自分(じぶん)が。
朋也(ともや)(つっても、会(あ)ったばかりだもんな…)
朋也(ともや)(まだまだこれからか…)
朋也(ともや)(…って、なに対抗意識(たいこういしき)を燃(も)やしてるんだよ、俺(おれ)は)
秋生(あきお)「うめぇなぁ」
古河(ふるかわ)「本当(ほんとう)ですか?
よかったです」
秋生(あきお)「な、若造(わかぞう)もそう思(おも)うだろ」
早苗(さなえ)「そういえば、お名前(なまえ)聞(き)いてなかったですね」
古河(ふるかわ)「岡崎(おかざき)さんです。岡崎朋也(おかざきともや)さん」
秋生(あきお)「かぁっ、みみっちぃ名前(なまえ)だな、おい」
秋生(あきお)「岡崎銀河(おかざきぎんが)とかにしとけ。スケールでかいだろ」
早苗(さなえ)「いいですねっ。銀河(ぎんが)さん、てお呼(よ)びしていいですか?」
朋也(ともや)「いいわけないだろっ、俺(おれ)の名(な)は、朋也(ともや)だ」
秋生(あきお)「そうしたら、あれだ。名字(みょうじ)を大宇宙(だいうちゅう)にしろ。大宇宙朋也(だいうちゅうともや)だ。こらまたでけぇだろ」
早苗(さなえ)「いいですねっ。大宇宙(だいうちゅう)さんと呼(よ)んでいいですか?」
朋也(ともや)「俺(おれ)の名(な)は岡崎(おかざき)だ…」
秋生(あきお)「いちいちケチつける奴(やつ)だな。早苗(さなえ)、いい案(あん)ないのか」
早苗(さなえ)「うーん…コズミック朋也(ともや)というのはどうでしょう」
秋生(あきお)「がーはっはっは!
それ、最高(さいこう)だっ」
早苗(さなえ)「コズミックさんと呼(よ)んでもいいですか?」
朋也(ともや)「岡崎(おかざき)だっての…」
秋生(あきお)「なぁ、コズミック。渚(なぎさ)の学校(がっこう)での生活(せいかつ)ぶりはどうだ」
朋也(ともや)「岡崎(おかざき)だ…」
古河(ふるかわ)「えへへ」
冗談(じょうだん)だとわかっているのだろう、終始(しゅうし)、古河(ふるかわ)は笑(わら)っていた。
それは本当(ほんとう)に幸(しあわ)せそうで…
秋生(あきお)「な、コスモっ」
朋也(ともや)「変(か)わってるし…」
俺(おれ)はそんな家族(かぞく)の姿(すがた)をじっと見(み)ていた。
古河(ふるかわ)「こんなに遅(おそ)くなっちゃいましたけど…良(よ)かったですか」
朋也(ともや)「………」
古河(ふるかわ)「岡崎(おかざき)さん?」
朋也(ともや)「…なんか不思議(ふしぎ)だった」
古河(ふるかわ)「え?
なにがです?」
朋也(ともや)「こんな家族(かぞく)もいるんだなって。すんげぇ仲(なか)いいよな」
古河(ふるかわ)「そうですか?」
本人(ほんにん)は至(いた)って普通(ふつう)だと思(おも)っているようだった。
しばらくその中(なか)に居(い)た俺(おれ)は、居心地(いごこち)の悪(わる)さと同時(どうじ)に、何(なに)かもどかしい恥(は)ずかしさを覚(おぼ)えていた。
あの感覚(かんかく)はなんだったのだろうか。
いきなり場違(ばちが)いな場所(ばしょ)に放(ほう)り込(こ)まれて…子供扱(こどもあつか)いをされて…
俺(おれ)は一体(いったい)何(なに)を感(かん)じていたのだろうか。
古河(ふるかわ)の家族(かぞく)と過(す)ごしていた今(いま)さっきまでの時間(じかん)。
それが別(べつ)の世界(せかい)の出来事(できごと)のように思(おも)われるような、あまりに違(ちが)いすぎる空気(くうき)。
気分(きぶん)が重(おも)くなる。
ただ、静(しず)かに眠(ねむ)りたい。
朋也(ともや)(それだけなのにな…)
居間(いま)。
その片隅(かたすみ)で親父(おやじ)は背(せ)を丸(まる)めて、座(すわ)り込(こ)んでいた。
同時(どうじ)に激(はげ)しい憤(いきどお)りに苛(さいな)まされる。
朋也(ともや)「なぁ、親父(おやじ)。寝(ね)るなら、横(よこ)になったほうがいい」
やり場(ば)のない怒(いか)りを抑(おさ)えて、そう静(しず)かに言(い)った。
親父(おやじ)「………」
返事(へんじ)はない。
眠(ねむ)っているのか、それともただ聞(き)く耳(みみ)を持(も)たないだけか…。
その違(ちが)いは俺(おれ)にもよくわからなくなっていた。
朋也(ともや)「なぁ、父(とう)さん」
呼(よ)び方(かた)を変(か)えてみた。
親父(おやじ)「………」
ゆっくりと頭(あたま)を上(あ)げて、薄(うす)く目(め)を開(あ)けた。
そして、俺(おれ)のほうを見(み)る。
その視界(しかい)に俺(おれ)の顔(かお)はどう映(うつ)っているのだろうか…。
ちゃんと息子(むすこ)としての顔(かお)で…
親父(おやじ)「これは…これは…」
親父(おやじ)「また朋也(ともや)くんに迷惑(めいわく)をかけてしまったかな…」
目(め)の前(まえ)の景色(けしき)が、一瞬(いっしゅん)真(ま)っ赤(か)になった。
朋也(ともや)「………」
そして俺(おれ)はいつものように、その場(ば)を後(あと)にする。
背中(せなか)からは、すがるような声(こえ)が自分(じぶん)の名(な)を呼(よ)び続(つづ)けていた。
…くん付(づ)けで。
こんなところに来(き)て、俺(おれ)はどうしようというのだろう…
どうしたくて、ここまで歩(ある)いてきたのだろう…
懐(なつ)かしい感(かん)じがした。
ずっと昔(むかし)、知(し)った優(やさ)しさ。
そんなもの…俺(おれ)は知(し)らないはずなのに。
それでも、懐(なつ)かしいと感(かん)じていた。
今(いま)さっきまで、すぐそばでそれを見(み)ていた。
子供扱(こどもあつか)いされて…俺(おれ)は子供(こども)に戻(もど)って…
それをもどかしいばかりに、感(かん)じていたんだ。
………。
「もし、よろしければ…」
すぐ後(うし)ろで声(こえ)がした。
俺(おれ)は振(ふ)り返(かえ)る。
そこには…ひとりの少女(しょうじょ)がいた。
気高(きだか)くも、無垢(むく)な。
古河(ふるかわ)「あなたを…」
言葉(ことば)を紡(つむ)ぐ。
古河(ふるかわ)「あなたを、お連(つ)れしましょうか」
ゆっくりと目(め)を閉(と)じ…
古河(ふるかわ)「この町(まち)の願(ねが)いが叶(かな)う場所(ばしょ)に」
そう告(つ)げていた。
小(ちい)さな…異世界(いせかい)からの使者(ししゃ)が。
張(は)りつめる空気(くうき)の中(なか)で。
一番(いちばん)、その入(い)り口(ぐち)に近(ちか)い場所(ばしょ)で。
朋也(ともや)「あ…」
俺(おれ)は声(こえ)を振(ふ)り絞(しぼ)る。金縛(かなしば)りにあったような、その体(からだ)で。
朋也(ともや)「ああ…」
震(ふる)える声(こえ)で…答(こた)えていた。
彼女(かのじょ)が目(め)を開(ひら)く。
そして…
古河(ふるかわ)「こんなところで、なにしてるんですか」
いつもの顔(かお)に戻(もど)っていた。
ただただ無垢(むく)な。
朋也(ともや)「………」
朋也(ともや)「いや…別(べつ)に」
古河(ふるかわ)「不思議(ふしぎ)です。さっき家(いえ)に帰(かえ)りました」
朋也(ともや)「そうだな…」
古河(ふるかわ)「家(いえ)にご用(よう)ですか?」
朋也(ともや)「いや、別(べつ)に…」
もう俺(おれ)は冷静(れいせい)だった。
朋也(ともや)「ただ帰(かえ)るには時間(じかん)が早(はや)すぎたからさ…」
古河(ふるかわ)「だって、もうこんな時間(じかん)…」
古河(ふるかわ)「あ、不良(ふりょう)さんでしたね。岡崎(おかざき)さんは」
朋也(ともや)「ああ。不良(ふりょう)なんだ」
古河(ふるかわ)「大変(たいへん)そうです、不良(ふりょう)」
朋也(ともや)「好(す)きでやってるからいいんだよ」
古河(ふるかわ)「でも、暇(ひま)そうです」
朋也(ともや)「古河(ふるかわ)のほうこそ何(なに)してたんだよ。また買(か)い出(だ)しか?」
古河(ふるかわ)「いえ」
きっぱりと否定(ひてい)して、答(こた)える。
古河(ふるかわ)「演劇(えんげき)の練習(れんしゅう)です」
なるほど、と納得(なっとく)する。
古河(ふるかわ)「いつも、夜(よる)の公園(こうえん)で、練習(れんしゅう)してるんです」
朋也(ともや)「こんなに遅(おそ)くに…危(あぶ)なくないか?」
古河(ふるかわ)「今日(きょう)はちょっと遅(おそ)かったです。いつもはもっと早(はや)いです。だから大丈夫(だいじょうぶ)です」
古河(ふるかわ)「それで、戻(もど)ってきたら、岡崎(おかざき)さんがいましたから、ちょっと演技(えんぎ)見(み)てもらいました」
朋也(ともや)「そっか…」
古河(ふるかわ)「何(なに)か感想(かんそう)もらえるとうれしいです」
朋也(ともや)「そうだな…」
もしあれが演技(えんぎ)なのであれば…褒(ほ)めるに値(あたい)するものなのだろう。
でも、褒(ほ)め言葉(ことば)が見(み)つからない。
朋也(ともや)「早(はや)く帰(かえ)れよ」
古河(ふるかわ)「………」
古河(ふるかわ)「…明日(あした)は学校休(がっこうやす)むと思(おも)います」
朋也(ともや)「ばか、冗談(じょうだん)だ。真(ま)に受(う)けて、勝手(かって)にうちひしがれるんじゃない」
古河(ふるかわ)「岡崎(おかざき)さん、冗談(じょうだん)がきついです」
古河(ふるかわ)「涙(なみだ)出(で)てきました」
目(め)の端(はし)を指(ゆび)で拭(ぬぐ)い始(はじ)める。
幼(おさな)い子供(こども)のようだった。
古河(ふるかわ)「岡崎(おかざき)さん、まだ帰(かえ)らずにどこかいくんですか?」
朋也(ともや)「ああ、そのつもりだけど」
古河(ふるかわ)「明日(あした)、また遅刻(ちこく)します」
朋也(ともや)「かもな…」
朋也(ともや)「でも、いいだろ。不良(ふりょう)なんだから」
古河(ふるかわ)「それは、本当(ほんとう)にそうなんですか」
古河(ふるかわ)「今(いま)も信(しん)じられないです」
古河(ふるかわ)「岡崎(おかざき)さん、ぜんぜん不良(ふりょう)のひとっぽくないです」
朋也(ともや)「中(なか)にはそういう不良(ふりょう)もいるんだ」
古河(ふるかわ)「お父(とう)さんと喧嘩(けんか)してるって、そう言(い)いました」
朋也(ともや)「ああ、言(い)った」
古河(ふるかわ)「それと関係(かんけい)ないですか」
古河(ふるかわ)「お父(とう)さんと顔(かお)を合(あ)わせると喧嘩(けんか)になるから、お父(とう)さんが寝静(ねしず)まるまで外(そと)を歩(ある)いて…」
古河(ふるかわ)「それで遅刻(ちこく)多(おお)くなって、みんなから不良(ふりょう)って噂(うわさ)されるようになって…」
古河(ふるかわ)「違(ちが)いますか」
なんて鋭(するど)いのだろう。
あるいは、安易(あんい)に想像(そうぞう)がつくほど、俺(おれ)は身(み)の上(うえ)を話(はな)してしまっていたのか。
朋也(ともや)「違(ちが)うよ」
俺(おれ)は肯定(こうてい)しなかった。こいつの前(まえ)では、悩(なや)みのない不良(ふりょう)でいたかった。
古河(ふるかわ)「本当(ほんとう)に、違(ちが)いますか?」
朋也(ともや)「まだお互(たが)いのことよく知(し)らないってのに…よくそんな想像(そうぞう)ができるもんだな」
古河(ふるかわ)「できます。そうさせるのは…岡崎(おかざき)さん自身(じしん)ですから」
古河(ふるかわ)「きっと何(なに)か理由(りゆう)があるんだって、そう…」
古河(ふるかわ)「そう、思(おも)いました」
朋也(ともや)「………」
朋也(ともや)「もし、そうだとしたら…」
朋也(ともや)「あんたはどうするつもりなんだ」
訊(き)いてみた。
古河(ふるかわ)「岡崎(おかざき)さんは…わたしを勇気(ゆうき)づけてくれた人(ひと)ですから…」
古河(ふるかわ)「だからわたしも力(ちから)になりたいです」
古河(ふるかわ)「勇気(ゆうき)をあげたいです」
朋也(ともや)「父親(ちちおや)に立(た)ち向(む)かう、か…?」
古河(ふるかわ)「それはダメです。立(た)ち向(む)かったりしたら…分(わ)かり合(あ)わないと」
朋也(ともや)「どうやって」
古河(ふるかわ)「それは…」
古河(ふるかわ)「とても、時間(じかん)のかかることです」
朋也(ともや)「だろうな。長(なが)い時間(じかん)がいるんだろうな」
朋也(ともや)「俺(おれ)たちは、子供(こども)だから」
俺(おれ)は遠(とお)くを見(み)た。屋根(やね)の上(うえ)に月明(つきあ)かりを受(う)けて鈍(にぶ)く光(ひかり)る夜(よる)の雲(くも)があった。
古河(ふるかわ)「もしよければ…わたしの家(いえ)にきますか」
古河(ふるかわ)がそう切(き)り出(だ)していた。
それは、短(みじか)い時間(じかん)で一生懸命(いっしょうけんめい)考(かんが)えた末(すえ)の提案(ていあん)なのだろう。
古河(ふるかわ)「少(すこ)し距離(きょり)を置(お)いて、お互(たが)いのこと、考(かんが)えるといいと思(おも)います」
古河(ふるかわ)「おふたりは家族(かぞく)です…だから、距離(きょり)を置(お)けば、絶対(ぜったい)に寂(さび)しくなるはずです」
古河(ふるかわ)「そうすれば、相手(あいて)を好(す)きだったこと思(おも)い出(だ)して…」
古河(ふるかわ)「次(つぎ)会(あ)ったときには、ゆっくりと話(はな)し合(あ)うことができると思(おも)います」
古河(ふるかわ)「それに、ちゃんと夜(よる)になったら寝(ね)られて、学校(がっこう)も遅刻(ちこく)しないで済(す)みます」
古河(ふるかわ)「一石二鳥(いっせきにちょう)です」
頑張(がんば)って、たくさん喋(しゃべ)っていた。
古河(ふるかわ)「どうでしょうか、岡崎(おかざき)さん」
古河(ふるかわ)「岡崎(おかざき)さんは、そうしたいですか」
そうしたい
朋也(ともや)「ああ、そうだな…」
朋也(ともや)「そうできたら、いいな」
古河(ふるかわ)「はい。そうしましょう」
朋也(ともや)「馬鹿(ばか)…」
朋也(ともや)「おまえは人(ひと)を簡単(かんたん)に信用(しんよう)しすぎだ」
俺(おれ)は背中(せなか)を向(む)ける。
古河(ふるかわ)「岡崎(おかざき)さんは、こんなわたしに声(こえ)をかけてくれたひとですからっ…」
張(は)りつめた声(こえ)。
古河(ふるかわ)「一緒(いっしょ)に演劇部(えんげきぶ)の部員(ぶいん)、集(あつ)めてくれるって、言(い)ってくれたひとですから…」
古河(ふるかわ)「それだけで、わたしには十分(じゅうぶん)、いいひとです」
俺(おれ)は歩(ある)き始(はじ)めていた。
もう、続(つづ)きの声(こえ)は聞(き)こえてこなかった。
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