岩崎知弘简介:
いわさきちひろ(1918年12月15日 - 1974年8月8日、女性)は、日本の画家・絵本作家である。本名は松本知弘(まつもと・ちひろ、旧姓岩崎)。初期作品には、岩崎ちひろ、岩崎千尋名義で発表されたものが存在する。福井県武生市(現在の越前市)生まれ。夫は日本共産党の元国会議員松本善明。左利き。 「子どもの平和としあわせ」を生涯のテーマとし、現在も女性を中心に幅広い層から支持を得ている。
岩崎知弘(1918年12月15日~1974年8月8日,女)日本画家、绘本作家。本名松本知弘(旧姓岩崎)早期作品中,有以岩崎ちひろ、岩崎千寻为名发表的作品。出生于福井县武生市(现越前市),丈夫为日本共产党原国会议员松本善明。左撇子(译注:这是八卦么,八卦么)。
终其一生创作的主题为“孩子的和平与幸福”,现在也以女性为中心,得到广大阶层的支持。
活発な少女時代 活跃的少女时代
1918年、雪の降る師走の朝にちひろは三姉妹の長女として生まれた。岩崎家は当時としては非常に恵まれた家庭であり、ラジオや蓄音機、オルガンなどのモダンな品々があった。父・正勝はカメラも所有しており、当時の写真が数多く残っている。子供向けの本も多くあったが、それらはちひろの気に入るものではなかった。しかし、ある時隣の家で絵雑誌「コドモノクニ」を見かけ、当時人気のあった岡本帰一、武井武雄、初山滋らの絵に強く心を惹かれた。ちひろは幼少から絵を描くのが得意で、小学校の学芸会ではたびたび席画(舞台上で即興で絵を描くこと)を行うほどだった。
岩崎知弘出生于1918年阴历12月,一个雪花纷飞的早晨,是姐妹三个中的老大。岩崎家在当时来说,算是相当优渥的家庭,能置备收音机、录音机、手风琴之类的现代用品。父亲正胜还有一台照相机,当时所拍的照片还有不少留存着。家里儿童书也相当多,但岩崎知弘却并不太喜欢。不过有一次,她在邻居家看到了画刊《儿童国》,当时很有人气的冈本归一、武井武雄、初山滋的画,深深吸引住了岩崎知弘的心。知弘从小画画就很拿手,小学文艺表演会时,就屡屡上台表演即兴绘画。
【译注:《儿童国》1922年1月至1944年3月,东京社出版的儿童杂志,以童话、音乐等为中心,大开本彩色印刷,创刊时期正值日本大正时期现代化思潮,杂志注重艺术性和创意,并被认为超越了儿童向的范畴,成为新艺术综合类杂志。二战期间因为印刷用纸紧张而休刊。总共发行了265册】 ちひろの入学した東京府立第六高等女学校(現在の東京都立三田高等学校)は、生徒の個性を重んじ、試験もなく、成績表も希望者に配布されるのみだったという。ここでもちひろは絵がうまいと評判だった。その一方で運動神経にも優れ、スキーに水泳、登山などをこなした。距離を選択することのできる適応遠足では最長のコースを歩くのが常だった。
岩崎知弘就读的东京府立第六女子高中(现东京都立三田高中),注重学生的个性培养,没有考试,成绩单也是想要的人才给配发。知弘的画作在这里也得到了极高的评价。除此以外,她的运动神经也很出色,滑冰、游泳、登山等都很擅长。适应性远足也是常选择最远的距离。 女学校二年(14歳)の三学期、母・文江はちひろの絵の才能をみとめ、岡田三郎助の門をたたいた。ちひろはそこでデッサンや油絵を学び、朱葉会の展覧会で入賞を果たした。ちひろは女学校を卒業したのち、岡田の教えていた美術学校に進むことを望んだが、両親の反対にあって第六高女補習科に進んだ。18歳になるとコロンビア洋裁学院に入学し、その一方で小田周洋に師事して書道を習い始めた。ここでもちひろはその才能を発揮し、小田の代理として教えることもあったという。
女校2年级(14岁)第3学期,母亲文江认可了知弘的绘画才能,让她投入冈田三郎助门下。知弘在那里学习了素描、油画等,并成功入选朱叶会的展览会。知弘从女校毕业后,虽然希望能进入冈田任教的美术学校,但因父母的反对,进入了第六女子高中补习班。18岁时,进入哥伦比亚西式缝纫学校,此外,开始师从小田周洋学习书法。在这里,知弘也发挥出了她的才能,并曾作为小田的代理授过课。
【译注:冈田三郎助(1869-1939)明治~昭和时代活跃的画家,擅长女子肖像,代表作有《持花的裸女》、《妇人像》、《荻》等 第3学期:日本的学校普遍实行3学期制】
朱叶会成立于1918年,是由女画家的社团,社名朱叶会为与谢野晶子所取,致力于女性画家的培育。】
望まない結婚と終戦 不美满的婚姻和战后初期
1939年(20歳)4月、長女だったちひろは両親の薦めで、好きになれない相手とやむなく結婚することになった。6月には夫の勤務地である満州・大連に渡ったが、結婚生活はうまくいかず、翌年、夫の自殺により帰国することになった。帰国したちひろは中谷泰に師事し、再び油絵を学び始めた。
1939年(20岁)4月,作为长女,知弘不得不因父母之命而与自己不喜欢的人结婚。6月前往丈夫的驻地大连,婚姻生活并不美满。第二年,因丈夫自杀回国。回国后,知弘师从中谷泰,再度开始学习油画。
1944年(25歳)には女子開拓団に同行して再び満州・勃利に渡るが、戦況悪化のため同年帰国した。翌年には空襲で家を焼かれ、母の実家である長野県松本市に疎開し、ここで終戦を迎えた。ちひろはこの時初めて戦争の実態を知り、自分の無知を痛感する。終戦の翌日から約一か月間の間にここで書かれた日記『草穂』が現在も残っている。「国破れて山河有り」(杜甫)と記されたスケッチから始まるこの日記には、こうした戦争に対する苦悩に加え、数々のスケッチや自画像、武者小路実篤の小説『幸福者』からの抜粋や、「いまは熱病のよう」とまで書かれた宮沢賢治への思いなどが綴られている。
1944年,随女子拓荒团再度前往勃利县(译注:位于黑龙江七台河市),但因战局恶化,于同年回国。第二年,家中遭空袭而烧毁,疏散到了母亲的娘家长野县松本市,并在那里迎来战争的结束。知弘此时才开始了解战争的实际情况,并痛感自己的无知。战争结束第二天起,约一个月的时间内,在这里写的日记《草穗》,至今仍留存着。这本以杜甫“国破山河在”的诗句素描为起始的日记里,间杂着多幅充满对战争的苦恼的素描、自画像,武者小路实笃的小说《幸福者》的摘要, 甚至还写有“我像是发烧了”这样的,向宫泽贤治倾诉倾慕之情的句子。
【译注:武者小路实笃,日本近代著名作家,白桦派代表作家之一】
善明との出会いと画家への決意 和善明的相会以及成为画家的决心 1946年(27歳)1月、宮沢賢治のヒューマニズム思想に強い共感を抱いていたちひろは、日本共産党の演説に深く感銘し、勉強会に参加したのち入党した。5月には党宣伝部の芸術学校で学ぶため、両親に相談することなく上京した。東京では人民新聞社の記者として働き、また丸木俊に師事してデッサンを学んだ。この頃から数々の絵の仕事を手がけるようになり、紙芝居『お母さんの話』をきっかけに画家として身を立てる決心をした。
1946年(27岁)1月,对宫泽贤治的人道主义思想抱持着强烈认同感的知弘,深为日本共产党的演讲所动,在参加了共产党的学习会之后,加入了日本共产党。5月,为到共产党宣传部的艺术学校学习,未与父母商量就前往东京。在东京,岩崎知弘以人民新闻社记者的身份工作,又师从丸木俊学习素描。从那时开始,知弘有意亲手做了许多绘画的工作,以连环画剧《母亲的话》为契机,决心以画家安身立命。 画家としての多忙な日々を送っていたちひろだが、1949年(30歳)の夏、共産党支部会議で演説する青年松本善明と出会う。彼らは党員として顔を合わせるうちに好意を抱くようになり、ある時ちひろが言った何気ない言葉から、二人は結婚する決心をした。翌年1月21日、レーニンの命日を選び、彼らは二人きりのつつましい結婚式を挙げた。ちひろは31歳、善明は23歳だった。結婚にあたって二人が交わした誓約書が残っている。そこには、共産党員としての熱い情熱と、お互いの立場、特に画家として生きようとするちひろの立場を尊重しようとする姿勢とが記されている。
身为画家,过着繁忙的每一天的知弘,1949年(30岁)夏,却与在共产党支部会议上发表演讲的青年松本善明相遇了。他们以党员的身份见面后互生好感,因为某次知弘的一句无心之言,两人决定结婚。第二年的1月21日,列宁逝世纪念日那天,她们举行了一场没有别人参加的简单婚礼。那年知弘31岁,善明23岁。两人结婚时所递交的证书至今留存着。两个人的婚姻历程记载了,共产党员炙热的激情、相同的立场,特别是善明尊重知弘想以画家身份生活的态度。 この年の夏、ちひろは長男・猛を出産する。しかし経済的余裕のなかった二人は、ちひろの両親の勧めにより、やむを得ず猛を両親のもとに預けることにした。1952年(33歳)、練馬区下石神井の妹・世史子一家の隣に家を建て、ようやく親子そろった生活を送ることができるようになった。
这一年夏天,知弘生下了长子松本猛。不过经济上并不宽裕的两人,在知弘双亲的劝说下,将生病的猛寄放在了双亲身边。1952年(33岁),在练马区下石神井,妹妹时史子一家隔壁建了新家。这样终于能够过上合家团圆的生活了。 1959年、松川事件の弁護団に属していたちひろ夫妻が外出中にお手伝い婦として働いていた女性が誘拐され、松本家のことを事細かに聞かれた。最中女性は窓から飛び降りて逃げ出した。この女性は53年から松本家で住み込みとして働いていた孤児。 その後まもなく病死し、対応にあたった医師も怪死している。週刊誌の取材にいわさきちひろが答えている。その後、しばらくは夫婦とも外出するたびに尾行を受けたと語っていた。
1959年,身属松川事件辩护团的知弘夫妇,其外出时前来帮忙家事的保姆被诱拐,松本家的情况被详尽地探听。未几,该女子跳窗逃离。她是从1953年起就在松本家帮忙家事的孤儿,其后不久便病死了,连主治医生也觉得死因离奇。岩崎知弘接受了周刊的采访。之后一段时间,夫妻两人一起外出时,总是被尾随要求谈话。
童画家としての活躍 作为儿童画家的经历 「子どものしあわせ」
孩子的幸福
当初のちひろは油彩画も多く手がけており、仕事は広告ポスターや新聞・雑誌のカットや表紙絵などが主だった。この頃ちひろの絵には少女趣味だ、かわいらしすぎるなどの批判があり、ちひろ自身もそのことに悩んでいた。しかし1963年(44歳)、雑誌「子どものしあわせ」の表紙絵を担当することになったことがその後の作品に大きく影響を与える。「子どもを題材にしていればどのように描いてもいい」という依頼に、ちひろはこれまでの迷いを捨て、自分の感性に素直に描いていく決意をした。また1962年の作品『子ども』を最後に油彩画をやめ、以降はもっぱら水彩画に専念することにした。「子どものしあわせ」はちひろにとって実験の場でもあり、そこで培った技法は絵本などの作品にも多く取り入れられている。当初は二色もしくは三色刷りだったが、1969年にカラー印刷になると、ちひろの代表作となるものがこの雑誌で多く描かれるようになった。この仕事は1974年に55歳で亡くなるまで続けられ、ちひろのライフワークともいえるものであった。
最初的知弘,也手绘了许多油画,工作也是以广告宣传画、新闻杂志的插图、封面画之类为主。那时候,知弘的画洋溢着少女情趣,也被批评过“可爱过头了”,知弘自己也对此感到烦恼。不过,1963年(44岁),知弘担任了杂志《孩子的幸福》封面画作者,对其后的作品造成极大影响。靠着“创作儿童题材的话,怎么样描绘都可以”,知弘走出了迷惘,决心坦诚地按照自己的感性创作。1962年的《孩子》是她最后的油画作品,之后就一心一意地创作水彩画。《孩子的幸福》对知弘来说算是创作的实验园地,从其他的绘本作品中也吸取了许多绘画技巧。杂志最初采用的是双色或者三色印刷,自1969年引进彩色印刷后,知弘的代表性作品开始通过该杂志,被大量创作出来。这份工作一直持续到1974年,55岁的知弘逝世时为止,也称得上是知弘毕生的事业了。
アンデルセンと二度の旅行 安徒生和两次旅行 画家を志すきっかけとなった紙芝居『お母さんの話』をはじめ、ちひろはアンデルセンに深い思い入れをもっており、当初から多くの作品を手がけていた。1963年(44歳)6月に世界婦人会議の日本代表団として渡ったソビエトでは異国の風景を数多くスケッチし、アンデルセンへの思いを新たにした。さらに1966年(47歳)、アンデルセンの生まれ育ったオーデンセを訪れたいとの思いを募らせていたちひろは、「美術家のヨーロッパ気まま旅行」に母・文江とともに参加し、その念願を果たした。この時ちひろはアンデルセンの生家を訪れ、ヨーロッパ各地で大量のスケッチを残した。二度の海外旅行で得た経験は同年に出版された『絵のない絵本』に生かされた。
以成为立志做画家的契机的连环画剧《母亲的话》为起始,知弘对安徒生做了深入的思考,一开始就手绘了许多作品。1963年(44岁)6月随世界妇女大会日本代表团前往苏联,在那里画了许多异国风景的素描,并对安徒生产生了新的想法。1966年(47岁)想去养育安徒生的奥登赛镇访问,知弘和目前文江参加了“画家的欧洲随性之旅”,实现了这个愿望。这期间,知弘访问了安徒生故居,在欧洲各地留下了大量的素描。两次海外旅行获得的经验,很好地反映在了同年出版的《没有画的画册》中。 絵で展開する絵本
用画面说话的绘本 当時の日本では、絵本というものは文が主体であり、絵はあくまで従、文章あってのものにすぎないと考えられていた。至光社の武市八十雄は欧米の絵本作家からそうした苦言を受け、ちひろに声をかけた。二人はこうして新しい絵本、「絵で展開する絵本」の制作に取り組んだ。そして1968年『あめのひのおるすばん』が出版されると、それ以降ほぼ毎年のように新しい絵本を制作した。中でも1972年の『ことりのくるひ』はボローニャ国際児童図書展でグラフィック賞を受賞した。
在当时的日本,绘本之类的书被认为是以文字为主体的,插图只是从属性质,是为文字而存在的。至光社的武市八十雄接受了欧美绘本作家的忠告,跟知弘打了招呼。两个人于是组成了创作“用画面说话的绘本”,这样新形式的绘本的组合。接着,1968年《雨天的看门人》出版,之后大致每年都会这样创作出新的绘本。其中1972年的《小鸟的明天》获博洛尼亚国际儿童图书展插画奖。