芳野(よしの)「ずっと、昔(むかし)…」
芳野(よしの)「この町(まち)には、出来(でき)の悪(わる)い少年(しょうねん)がいた」
芳野(よしの)「親(おや)がいなかったから、小(ちい)さい頃(ころ)から、悪(わる)いことを覚(おぼ)えて…好(す)き勝手(かって)に生(い)きていたんだ」
芳野(よしの)「無謀(むぼう)なくらいが、心地(ここち)よかった」
芳野(よしの)「十三(じゅうさん)の時(とき)、少年(しょうねん)は音楽(おんがく)と出会(であ)った」
芳野(よしの)「その時代(じだい)はバンドブームで…少年(しょうねん)の仲間(なかま)が興味(きょうみ)を持(も)って始(はじ)めていたんだ」
芳野(よしの)「少年(しょうねん)も他人(たにん)のギターを奪(うば)い取(と)って、弾(はじ)き始(はじ)めた」
芳野(よしの)「いろんな洋楽(ようがく)をコピーした」
芳野(よしの)「歌(うた)うことも好(す)きになった」
芳野(よしの)「他人(たにん)のライブに乱入(らんにゅう)しては、メインボーカルをかっさらったりした」
芳野(よしの)「この時(とき)も、無謀(むぼう)なことが心地(ここち)よかった」
芳野(よしの)「でも、それはもう悪(わる)いことじゃなくなっていた」
芳野(よしの)「そう…それがロックだったんだ」
芳野(よしの)「叫(さけ)ぼうが、壊(こわ)そうが、人(ひと)の波(なみ)に飛(と)び込(こ)もうが…」
芳野(よしの)「少年(しょうねん)の無謀(むぼう)は、そこではすべて許(ゆる)されたんだ」
芳野(よしの)「それにすがって生(い)きていれば、少年(しょうねん)はもう後(うし)ろ指(ゆび)をさされず生(い)きていけた」
芳野(よしの)「そりゃあ、たまにははめを外(はず)すこともある」
芳野(よしの)「けど、周(まわ)りは笑(わら)っていられたんだ」
芳野(よしの)「高校(こうこう)に入(はい)って、皆(みんな)が進学(しんがく)のことを考(かんが)え始(はじ)めていた頃(ころ)も、少年(しょうねん)は音楽漬(おんがくづ)けだった」
芳野(よしの)「このまま、音楽(おんがく)で食(く)っていこう。そう彼(かれ)は思(おも)っていた」
芳野(よしの)「それ以外(いがい)考(かんが)えられなかった」
芳野(よしの)「音楽以外(おんがくいがい)じゃ、少年(しょうねん)は道(みち)を踏(ふ)み外(はず)してしまうからだ」
芳野(よしの)「彼(かれ)が踏(ふ)み外(はず)したつもりはなくても…世間(せけん)はそれを咎(とが)める」
芳野(よしの)「それは間違(まちが)ったことなんだと、正(ただ)される」
芳野(よしの)「誰(だれ)かが笑(わら)えなくなるんだ」
芳野(よしの)「だから、二年(にねん)の終(お)わりには、少年(しょうねん)はそう決(き)めた」
芳野(よしの)「三年(さんねん)に上(あ)がった時(とき)、出会(であ)いがあった」
芳野(よしの)「相手(あいて)は新任(しんにん)の女性教師(じょせいきょうし)だ」
芳野(よしの)「少年(しょうねん)が空(あ)き教室(きょうしつ)で、人目(ひとめ)はばからずギターを弾(ひ)いて歌(うた)っていると、迷子(まいご)のように入(はい)ってきたんだ」
芳野(よしの)「拍手(はくしゅ)をくれた。上手(じょうず)だと言(い)ってくれた」
芳野(よしの)「歌(うた)は、ラブソングだった」
芳野(よしの)「恥(は)ずかしいばかりの内容(ないよう)だったけど…」
芳野(よしの)「彼女(かのじょ)は真摯(しんし)に歌詞(かし)の意味(いみ)を読(よ)みとってくれた」
芳野(よしの)「その後(あと)も、歌(うた)のことをふたりで話(はな)し続(つづ)けた」
芳野(よしの)「そして、校内放送(こうないほうそう)で呼(よ)び出(だ)されて初(はじ)めて、その女性(じょせい)は自分(じぶん)が移動教室(いどうきょうしつ)の最中(さいちゅう)だったことに気(き)づいたんだ」
芳野(よしの)「聡明(そうめ)なようでいて、抜(ぬ)けた人(ひと)だった」
芳野(よしの)「それからも、少年(しょうねん)と女性教師(じょせいきょうし)は何度(なんど)か話(はな)すことがあった」
芳野(よしの)「クラスの女連中(おんなれんちゅう)は、音楽(おんがく)なんかで食(く)っていけるわけがないと彼(かれ)を笑(わら)った」
芳野(よしの)「けど、彼女(かのじょ)だけは違(ちが)ったんだ」
『…ずっと続(つづ)けていれば、叶(かな)うから、諦(あきら)めないでね』
芳野(よしの)「そう両手(りょうて)を握(にぎ)りしめて、言(い)ってくれた」
芳野(よしの)「彼(かれ)は恋(こい)に落(お)ちていたんだ、その人(ひと)に」
芳野(よしの)「そんなに話(はな)す機会(きかい)はなかったが、でも、話(はな)し始(はじ)めれば長(なが)くなり…」
芳野(よしの)「口(くち)べたな彼(かれ)でも、たくさん言(い)いたいことを話(はな)せた…」
芳野(よしの)「その女性(じょせい)は彼(かれ)のいいところを、引(ひ)き出(だ)してくれる人(ひと)だったんだ」
芳野(よしの)「別(わか)れの日(ひ)、彼(かれ)は女性教師(じょせいきょうし)に告(つ)げた」
芳野(よしの)「絶対(ぜったい)にプロになって、有名(ゆうめい)になるから、と」
芳野(よしの)「そうしたら…俺(おれ)と付(つ)き合(あ)って下(くだ)さいって」
芳野(よしの)「彼女(かのじょ)は、迷(まよ)いもせずに、頷(うなず)いてくれた」
芳野(よしの)「はなからプロになるなんて無理(むり)だろうと思(おも)っていたのか…」
芳野(よしの)「それでも、少年(しょうねん)にとっては良(よ)かった」
芳野(よしの)「すがるだけだった音楽(おんがく)が、目標(もくひょう)になったのだから」
芳野(よしの)「絶対(ぜったい)にこれで食(く)っていくと信(しん)じて…」
芳野(よしの)「卒業後(そつぎょうご)、少年(しょうねん)は町(まち)を離(はな)れて、上京(じょうきょう)した」
芳野(よしの)「………」
芳野(よしの)「…退屈(たいくつ)か?」
朋也(ともや)「いえ、早(はや)く続(つづ)きが聞(き)きたいです」
芳野(よしの)「………」
芳野(よしの)「…そんな急(せ)いて聞(き)くようないい話(はなし)じゃないがな」
言(い)って、続(つづ)きを話(はな)し始(はじ)めた。
芳野(よしの)「彼(かれ)はオーディションを受(う)けた」
芳野(よしの)「優勝(ゆうしょう)こそはしなかったものの…審査員(しんさいん)の特別賞(とくべつしょう)をもらって、そのままデビューへと繋(つな)がった」
芳野(よしの)「こんな簡単(かんたん)なものだったのかと拍子抜(ひょうしぬ)けするほどだった」
芳野(よしの)「でも、夢(ゆめ)が叶(かな)った瞬間(しゅんかん)だ」
芳野(よしの)「彼(かれ)は自分(じぶん)を否定(ひてい)してきた連中(れんちゅう)にざまぁみろって思(おも)った」
芳野(よしの)「そして…これで、もう自分(じぶん)は、音楽(おんがく)から引(ひ)き離(はな)されずに済(す)む…」
芳野(よしの)「そう思(おも)って、少年(しょうねん)はほっとした…」
芳野(よしの)「それからは、がむしゃらだった」
芳野(よしの)「何(なに)もかもがむしゃらだった」
芳野(よしの)「力(ちから)を抜(ぬ)くとか、器用(きよう)にこなすとか、そういうことが苦手(にがて)だった」
芳野(よしの)「だから、歌(うた)いたいものを、全力(ぜんりょく)で歌(うた)った」
芳野(よしの)「時(とき)には、吐(は)き出(だ)すように歌(うた)った」
芳野(よしの)「嗚咽(おえつ)のように歌(うた)った」
芳野(よしの)「醜(みにく)いものも歌(うた)った」
芳野(よしの)「醜(みにく)いものだからこそ、より一層(いっそう)、力強(ちからづよ)く歌(うた)った」
芳野(よしの)「そうしたら、それは、綺麗(きれい)に見(み)えた」
芳野(よしの)「生(い)きる、ということが瑞々(みずみず)しく見(み)えた」
芳野(よしの)「生(い)きること、それが一番(いちばん)、醜(みにく)いことだったからだ…」
芳野(よしの)「そして、ものすごい力(ちから)を生(う)んだ」
芳野(よしの)「ライブ会場(かいじょう)で、ひとつとなったとき…」
芳野(よしの)「あるいは新譜(しんぷ)が発売(はつばい)されて、それを全国(ぜんこく)のファンが一斉(いっせい)に聞(き)いたとき…」
芳野(よしの)「その日(ひ)から、しばらくは強(つよ)く生(い)きているだけの…力(ちから)を生(う)んだ」
芳野(よしの)「それが、共感(きょうかん)というものだ」
芳野(よしの)「歌(うた)は共感(きょうかん)し、人(ひと)の生(い)きる力(ちから)となる」
芳野(よしの)「それがすべてにはならないが、間違(まちが)いなく、助(たす)けになる」
芳野(よしの)「それを実感(じっかん)した」
芳野(よしの)「音楽(おんがく)に出会(であ)うまでは人(ひと)を傷(きず)つけて、自分(じぶん)まで傷(きず)つけるようなロクでもない奴(やつ)がだ…」
芳野(よしの)「他人(たにん)のことなんて、考(かんが)えもしなかった奴(やつ)がだ…」
芳野(よしの)「少年(しょうねん)は自分(じぶん)の生(い)きる理由(りゆう)を見(み)つけ、それを全(まっと)うしようと心(こころ)に誓(ちか)った」
芳野(よしの)「しかし…何(なに)もかもうまくいっていたのは、そこまでだった」
芳野(よしの)「ある時(とき)、彼(かれ)の元(もと)にテレビ番組(ばんぐみ)の企画(きかく)が持(も)ち込(こ)まれた」
芳野(よしの)「それは彼(かれ)がファンの元(もと)を巡(めぐ)る、というドキュメンタリーものだった」
芳野(よしの)「それもただのファンじゃない」
芳野(よしの)「彼(かれ)の音楽(おんがく)を聴(き)いて救(すく)われた…そして今(いま)もなお逆境(ぎゃっきょう)に立(た)っている奴(やつ)らだ」
芳野(よしの)「テレビ出演(しゅつえん)は頑(かたく)なに断(ことわ)り続(つづ)けていた彼(かれ)だったが…」
芳野(よしの)「ディレクターの真摯(しんし)な姿勢(しせい)もくみ取(と)れたし…」
芳野(よしの)「なにより、実際(じっさい)そんなファンたちとふれ合(あ)うことは、今後(こんご)の自分(じぶん)のためにもなると考(かんが)えたんだ」
芳野(よしの)「そして、撮影(さつえい)が始(はじ)まった」
芳野(よしの)「手紙(てがみ)とかでは、色(いろ)んな声(こえ)を聞(き)いたりはしていたが…」
芳野(よしの)「目(め)の前(まえ)にした光景(こうけい)は、あまりに壮絶(そうぜつ)だった」
芳野(よしの)「想像以上(そうぞういじょう)だった」
芳野(よしの)「体(からだ)や生活(せいかつ)がボロボロな奴(やつ)らと彼(かれ)は出会(であ)った…」
芳野(よしの)「本当(ほんとう)に、自分(じぶん)の歌(うた)をより所(どころ)とし、すがってくれていることを感(かん)じた」
芳野(よしの)「そして、その時(とき)になって、彼(かれ)は気(き)づいた」
芳野(よしの)「自分(じぶん)の言葉(ことば)は…もう自分(じぶん)ひとりのものじゃなくなっていることに」
芳野(よしの)「しかし…」
芳野(よしの)「彼(かれ)にはさっぱり理解(りかい)できなかった」
芳野(よしの)「どうして、自分(じぶん)の曲(きょく)は、彼(かれ)らの心(こころ)の救(すく)いとなり得(え)たのか」
芳野(よしの)「そして、今後(こんご)も、支(ささ)えとして求(もと)められている」
芳野(よしの)「それに応(こた)え続(つづ)けるにはどうすればいいのか…」
芳野(よしの)「そもそも彼(かれ)がやってきた音楽(おんがく)とは、自分(じぶん)のための音楽(おんがく)だったんだ」
芳野(よしの)「自分(じぶん)のやることが咎(とが)められない場所(ばしょ)、それが音楽(おんがく)の世界(せかい)だっただけだ」
芳野(よしの)「他人(たにん)のためになんて、やった覚(おぼ)えなど一度(いちど)もなかった」
芳野(よしの)「けど、その企画(きかく)のせいで、彼(かれ)は意識(いしき)せずにはいられなくなった」
芳野(よしの)「体(からだ)にハンデがある奴(やつ)…」
芳野(よしの)「親(おや)のせいで、とんでもない苦労(くろう)をして暮(く)らしてる奴(やつ)…」
芳野(よしの)「精神(せいしん)が弱(よわ)くて、今(いま)にも壊(こわ)れてしまいそうな奴(やつ)…」
芳野(よしの)「それは、ほんの一部(いちぶ)で…」
芳野(よしの)「まだ会(あ)ったこともない何千(なんぜん)、何万(なんまん)もの、そうした奴(やつ)らが彼(かれ)の音楽(おんがく)に救(すく)いを求(もと)めていて…」
芳野(よしの)「そして彼(かれ)は、そんな奴(やつ)らのために、音楽(おんがく)を作(つく)っていかなくてはならないのだということを…認識(にんしき)させられた」
芳野(よしの)「撮影(さつえい)の最後(さいご)には、エンディング用(よう)にアコギ一本(いっぽん)で持(も)ち歌(うた)を歌(うた)うことになっていた」
芳野(よしの)「しかし、手(て)が震(ふる)えてまともに弾(ひ)けなかった」
芳野(よしの)「番組(ばんぐみ)のエンディングは彼(かれ)が歩(ある)く映像(えいぞう)を背景(はいけい)に、CDを流(なが)すだけに差(さ)し替(か)えられた」
芳野(よしの)「そして…」
芳野(よしの)「撮影(さつえい)が終(お)わってからは、彼(かれ)はこれまで通(どお)りには曲(きょく)が作(つく)れなくなっていた」
芳野(よしの)「今(いま)まで歌(うた)っていた曲(きょく)ですら、素面(しらふ)では歌(うた)えなくなった」
芳野(よしの)「現実(げんじつ)を知(し)った彼(かれ)は、昔(むかし)の自分(じぶん)はなんと浅(あさ)はかな曲(きょく)を作(つく)っていたものかと、あざ笑(わら)っていたんだ」
芳野(よしの)「現実(げんじつ)なんて、もっともっと壮絶(そうぜつ)なんだと」
芳野(よしの)「おまえが知(し)ってるのは上辺(うわべ)でしかない。格好(かっこう)を付(つ)けてるだけだったんだとな」
芳野(よしの)「彼(かれ)は悩(なや)み続(つづ)けた」
芳野(よしの)「歌(うた)も歌(うた)えない。曲作(きょくづく)りも進(すす)まない」
芳野(よしの)「所属事務所(しょぞくじむしょ)から、しばらくの休養(きゅうよう)を言(い)い渡(わた)された」
芳野(よしの)「デビューしてから、がむしゃらにレコーディングとライブを繰(く)り返(かえ)していたし…」
芳野(よしの)「彼(かれ)が疲(つか)れていると思(おも)われても仕方(しかた)がないことだった」
芳野(よしの)「彼(かれ)は久々(ひさびさ)の休暇(きゅうか)を満喫(まんきつ)することもなく、怠惰(たいだ)に過(す)ごしていた…」
芳野(よしの)「半年(はんとし)が過(す)ぎた頃(ころ)だった」
芳野(よしの)「番組(ばんぐみ)の企画(きかく)で会(あ)った奴(やつ)のひとりが…」
芳野(よしの)「罪(つみ)を犯(おか)した」
芳野(よしの)「取(と)り返(かえ)しのつかないような大(おお)きな罪(つみ)だ」
芳野(よしの)「見覚(みおぼ)えのある顔(かお)が…テレビに映(うつ)っていた」
芳野(よしの)「彼(かれ)は、自分(じぶん)のせいだと思(おも)った」
芳野(よしの)「自分(じぶん)が立(た)ち止(ど)まってしまったせいだ、と」
芳野(よしの)「…進(すす)まなければならない」
芳野(よしの)「自分(じぶん)を必要(ひつよう)としてくれてる奴(やつ)らのために、自分(じぶん)は進(すす)み続(つづ)けていかなくてはならない」
芳野(よしの)「そう思(おも)った彼(かれ)は、ギターを掴(つか)んで…」
芳野(よしの)「また歌(うた)い始(はじ)めた」
芳野(よしの)「恐(おそ)らくその時(とき)から…彼(かれ)は暴走(ぼうそう)していたんだ」
芳野(よしの)「現実(げんじつ)と歌(うた)っていることの区別(くべつ)がつかなくなった」
芳野(よしの)「理想論(りそうろん)で生(い)きるようになった」
芳野(よしの)「みんなの必要(ひつよう)とするものは、それなんだと決(き)めつけて…」
芳野(よしの)「どうしてこんなことを歌(うた)っているのか、自分(じぶん)でさえよくわからなかった」
芳野(よしの)「自分(じぶん)の疑念(ぎねん)を振(ふ)り払(はら)って…歌(うた)い続(つづ)けた」
芳野(よしの)「それは、戦(たたか)いだった」
芳野(よしの)「でも、戦(たたか)い続(つづ)けるほどに、敵(てき)は増(ふ)えていくんだ」
芳野(よしの)「彼(かれ)は吠(ほ)え続(つづ)けた。糾弾(きゅうだん)し続(つづ)けた」
芳野(よしの)「自分(じぶん)が生(う)み続(つづ)ける敵(てき)に向(む)けて…」
芳野(よしの)「やがて、理想(りそう)や綺麗事(きれいごと)じゃ、太刀打(たちう)ちできなくなった」
芳野(よしの)「そいつらを薙(な)ぎ払(はら)うには、もう、現実(げんじつ)を叩(たた)きつけるしかなかった」
芳野(よしの)「その時(とき)の、彼(かれ)の向(む)き合(あ)う現実(げんじつ)ほど、痛々(いたいた)しいものはなかったからだ」
芳野(よしの)「結果(けっか)、歌(うた)は、理想(りそう)を逸脱(いつだつ)し、生臭(なまぐさ)いものとなっていった」
芳野(よしの)「与(あた)えられるものは希望(きぼう)や勇気(ゆうき)ではなく、現実(げんじつ)の苦汁(くじゅう)だけとなっていた」
芳野(よしの)「そして、彼(かれ)はラブソングさえも歌(うた)えなくなってしまっていた」
芳野(よしの)「醜(みにく)すぎたんだ」
芳野(よしの)「歌(うた)う前(まえ)に、吐(は)き気(け)がした」
芳野(よしの)「すべて偽善(ぎぜん)だ」
芳野(よしの)「自分(じぶん)は虚像(きょぞう)だ」
芳野(よしの)「もう、自己(じこ)さえ確立(かくりつ)されちゃいない」
芳野(よしの)「詩(し)が、支離滅裂(しりめつれつ)になった」
芳野(よしの)「二行目(にぎょうめ)にさしかかると、すでに一行目(いちぎょうめ)と矛盾(むじゅん)していた」
芳野(よしの)「仕舞(しまい)いには、生(い)きたいなら、死(し)ね、と歌(うた)っていた」
芳野(よしの)「異常(いじょう)だ」
芳野(よしの)「後(あと)は…虚像(きょぞう)は崩壊(ほうかい)するだけだった」
芳野(よしの)「彼(かれ)は、自分(じぶん)の歌(うた)いたい歌(うた)だけを歌(うた)っているべきだったんだ」
芳野(よしの)「誰(だれ)かを救(すく)うために歌(うた)っては駄目(だめ)だったんだ」
芳野(よしの)「間違(まちが)いなく崩壊(ほうかい)する」
芳野(よしの)「彼(かれ)が、弱(よわ)すぎたのがいけないのだろうか」
芳野(よしの)「違(ちが)う。強(つよ)すぎれば、それこそ偽善(ぎぜん)だ」
芳野(よしの)「吐(は)き気(け)がした…」
芳野(よしの)「常(つね)に矛盾(むじゅん)してるんだ…」
芳野(よしの)「けど、その矛盾(むじゅん)を覆(おお)い隠(かく)さなければいけなかった」
芳野(よしの)「矛盾(むじゅん)の中(なか)にいて、矛盾(むじゅん)に気(き)づかない振(ふ)りをしなければならなかった」
芳野(よしの)「彼(かれ)は音楽(おんがく)を失(うしな)うことが恐(こわ)かったからだ」
芳野(よしの)「音楽(おんがく)は彼(かれ)がすがりついていられる唯一(ゆいいつ)のものだった」
芳野(よしの)「それを守(まも)るために彼(かれ)は、薬(くすり)に手(て)を出(だ)した」
芳野(よしの)「もう、矛盾(むじゅん)だらけだ」
芳野(よしの)「後(うし)ろ指(ゆび)をさされないためにすがっていた音楽(おんがく)…」
芳野(よしの)「それを守(まも)るために、彼(かれ)は後(うし)ろ指(ゆび)をさされる行為(こうい)にまで手(て)を染(そ)めて…」
芳野(よしの)「でも、それすら、その時(とき)は気(き)づかなかった」
芳野(よしの)「彼(かれ)は、すべての矛盾(むじゅん)を覆(おお)い隠(かく)すことに、成功(せいこう)してしまったからだ」
芳野(よしの)「薬(くすり)を続(つづ)けながら、歌(うた)を歌(うた)い続(つづ)けた」
芳野(よしの)「ら行(ぎょう)がうまく歌(うた)えなくても、そのままレコーディングした」
芳野(よしの)「夜(よる)には自分(じぶん)の足(あし)で、薬(くすり)を買(か)い求(もと)めた」
芳野(よしの)「安心(あんしん)しきっていた」
芳野(よしの)「でも、すぐ足(あし)がついた」
芳野(よしの)「罪(つみ)に問(と)われ、彼(かれ)は牢獄(ろうごく)に閉(と)じこめられた」
芳野(よしの)「気(き)が付(つ)いた時(とき)には、病院(びょういん)の白(しろ)いベッドの上(うえ)で、薬漬(くすりづ)けにされていた」
芳野(よしの)「徹底的(てっていてき)に、精神(せいしん)と体(からだ)を洗(あら)い流(なが)された…」
芳野(よしの)「そして、病院(びょういん)を出(で)た時(とき)…」
芳野(よしの)「彼(かれ)の居場所(いばしょ)はどこにもなくなっていた」
芳野(よしの)「彼(かれ)の顔(かお)は誰(だれ)でも知(し)っていた」
芳野(よしの)「教祖(きょうそ)になり損(そこ)ねた、狂気(きょうき)のロッカーとして」
芳野(よしの)「誰(だれ)もが、彼(かれ)を指(ゆび)さしてひそひそ話(はなし)をした」
芳野(よしの)「過(あやま)ちを犯(おか)してしまった人間(にんげん)の末路(ばつろ)だった」
芳野(よしの)「彼(かれ)はどこに帰(かえ)ればいいのか」
芳野(よしの)「過(あやま)ちを犯(おか)してしまった、その体(からだ)で」
芳野(よしの)「体(からだ)は洗(あら)い流(なが)せても、その罪(つみ)は一生(いっしょう)彼(かれ)についてまわる」
芳野(よしの)「誰(だれ)もが知(し)る顔(かお)と共(とも)に」
芳野(よしの)「音楽(おんがく)を失(うしな)い、親(おや)もいなければ…もうすがるものもなかった」
芳野(よしの)「もともと駄目(だめ)な人間(にんげん)だった彼(かれ)だ」
芳野(よしの)「唯一(ゆいいつ)の支(ささ)えを失(うしな)ったら…」
芳野(よしの)「後(あと)は歯止(はど)めもなく、堕(お)ちていくだけだ」
芳野(よしの)「浮浪者(ふろうしゃ)のような暮(く)らしが始(はじ)まった」
芳野(よしの)「罪(つみ)を重(かさ)ねるようなこともした」
芳野(よしの)「するしかなかった」
芳野(よしの)「生(い)きていくことが、こんなにも醜(みにく)いなら、いっそ生(い)きることもやめたくなった」
芳野(よしの)「毎日(まいにち)が、絶望(ぜつぼう)の淵(ふち)だった」
芳野(よしの)「そんな暮(く)らしの中(なか)で、彼(かれ)は一度(いちど)だけ願(ねが)った…」
芳野(よしの)「田舎(いなか)に帰(かえ)りたい、と…」
芳野(よしの)「一番楽(いちばんたの)しかった頃(ころ)に、一瞬(いっしゅん)だけでも戻(もど)れるなら…」
芳野(よしの)「それだけで、いい…」
芳野(よしの)「ただ、それだけのために…」
芳野(よしの)「彼(かれ)は生(う)まれ過(す)ごした、故郷(こきょう)に帰(かえ)ってきた」
芳野(よしの)「そこで…」
芳野(よしの)「彼(かれ)は再会(さいかい)を果(は)たすことになる」
芳野(よしの)「バスから下(お)りて…」
芳野(よしの)「何(なに)も持(も)たずに、夢遊病者(むゆうびょうしゃ)のように歩(ある)く彼(かれ)の先(さき)に…」
芳野(よしの)「あの日(ひ)の女性教師(じょせいきょうし)がいた」
芳野(よしの)「まったくの偶然(ぐうぜん)だった」
芳野(よしの)「そしてそれは…彼(かれ)にとって、これ以上(いじょう)ない仕打(しう)ちだった」
芳野(よしの)「なんて、むごいことをするのか…」
芳野(よしの)「そこまでして、自分(じぶん)は苦(くる)しめられなければならないのか…」
芳野(よしの)「夢(ゆめ)を誓(ちか)った相手(あいて)を前(まえ)に…」
芳野(よしの)「罪(つみ)を犯(おか)して、夢破(ゆめやぶ)れ…すべてを失(うしな)った人間(にんげん)として、現(あらわ)れなければならなかったのか…」
芳野(よしの)「この町(まち)は、俺(おれ)を憎(にく)んでいるのか…」
芳野(よしの)「俺(おれ)の罪(つみ)は、そこまで重(おも)いのか…」
芳野(よしの)「俺(おれ)の精神(せいしん)を粉々(こなごな)にうち砕(くだ)いて…」
芳野(よしの)「もう、終(お)わらせてしまいたいのか…」
芳野(よしの)「そう思(おも)った…」
芳野(よしの)「けど…」
芳野(よしの)「その人(ひと)は、穏(おだ)やかに笑(わら)ったままでいた…」
芳野(よしの)「そして、こう彼(かれ)に訊(き)いた…」
「まだ…音楽(おんがく)は続(つづ)けてる?」
「…ずっと続(つづ)けていれば、叶(かな)うから、諦(あきら)めないでね」
芳野(よしの)「その言葉(ことば)を聞(き)いて…」
芳野(よしの)「彼(かれ)は泣(な)いた」
芳野(よしの)「涙(なみだ)が後(あと)から後(あと)から溢(あふ)れてきて…止(と)まらなかった…」
芳野(よしの)「嗚咽(おえつ)を漏(も)らしながら、子供(こども)のように泣(な)き続(つづ)けた…」
芳野(よしの)「この町(まち)は…今(いま)も、昔(むかし)のままで…」
芳野(よしの)「そして、彼(かれ)が夢(ゆめ)を追(お)っていた頃(ころ)のままだったんだ…」
芳野(よしの)「少年(しょうねん)だった時(とき)のままだったんだ」
芳野(よしの)「優(やさ)しかった…」
芳野(よしの)「最初(さいしょ)から、こうしていればよかったんだ…」
芳野(よしの)「ずっと、この町(まち)にいればよかったんだ…」
芳野(よしの)「ずっと、この人(ひと)を好(す)きで居続(いつづ)ければよかったんだ…」
芳野(よしの)「そして、ずっと…この人(ひと)のためだけにラブソングを歌(うた)い続(つづ)ければよかったんだ…」
芳野(よしの)「誰(だれ)のためでもなく…」
芳野(よしの)「好(す)きな人(ひと)のためだけに…」
………。
芳野(よしの)さんは、顔(かお)を伏(ふ)せていた。
その表情(ひょうじょう)は前髪(まえがみ)が邪魔(じゃま)でよくわからなかった。
芳野(よしの)「………」
芳野(よしの)「…腹(はら)」
朋也(ともや)「え?」
芳野(よしの)「腹(はら)、減(へ)ったな」
そう言(い)って顔(かお)を上(あ)げた。
何(なに)も変(か)わらない、いつもの芳野(よしの)さんだった。
さらに続けを聞く朋也(ともや)「その後(あと)…」
朋也(ともや)「大(おお)きくなった少年(しょうねん)と、女性教師(じょせいきょうし)はどうなったんすか」
芳野(よしの)「ああ…」
芳野(よしの)「今(いま)も彼(かれ)のそばにいてくれてるよ」
なら、よかった。
この人(ひと)は…今(いま)も歌(うた)い続(つづ)けているのだろう。
そう思(おも)った。
芳野(よしの)「そういや、おまえが通(かよ)ってた高校(こうこう)って坂(さか)の上(うえ)の進学校(しんがくこう)だったよな…」
車(くるま)に乗(の)り込(こ)んだところで、ふと思(おも)い出(だ)したように、芳野(よしの)さんが訊(き)いてきた。
朋也(ともや)「ええ」
芳野(よしの)「その女性(じょせい)は…そこで教師(きょうし)をやってたんじゃなかったっけか…」
朋也(ともや)「えっ、マジっすかっ、じゃ、俺(おれ)、会(あ)ってるっす」
芳野(よしの)「いや、会(あ)ってないか…おまえ、去年(きょねん)の春(はる)に卒業(そつぎょう)したんだっけ?」
朋也(ともや)「ええ」
芳野(よしの)「じゃ、入(い)れ違(ちが)いだな。おまえが入学(にゅうがく)すると同時(どうじ)に辞(や)めている」
朋也(ともや)「なんだ…」
朋也(ともや)「でも、一応(いちおう)、名前(なまえ)、聞(き)いてもいいですか」
芳野(よしの)「ん?
ああ…」
芳野(よしの)「伊吹(いぶき)って名前(なまえ)だ。知(し)らないだろ?」
知(し)らないと言(い)おうとして、途中(とちゅう)で口(くち)をつぐむ。
伊吹(いぶき)…
それは、確(たし)か、古河(ふるかわ)パンで出会(であ)った、あの先生(せんせい)ではなかったか。
渚(なぎさ)の担任(たんにん)だったという…。
朋也(ともや)「知(し)ってます」
芳野(よしの)「なにっ?
おまえ、まさか…ダブッてんのか」
朋也(ともや)「いや、俺(おれ)じゃなく…」
朋也(ともや)「俺(おれ)の彼女(かのじょ)が…」
芳野(よしの)「えぇ?」
芳野(よしの)「でも、まだ学生(がくせい)なんだろ?
三年(さんねん)だとしても、おまえとタメじゃないか」
朋也(ともや)「いえ、そいつ、二回(にかい)ダブッてるんで…」
なんて、ペラペラと喋(しゃべ)ってることが渚(なぎさ)にバレたら、また、怒(おこ)られそうだが。
芳野(よしの)「マジか…」
俺(おれ)と接点(せってん)がないと確信(かくしん)して、口(くち)を滑(なめ)らせてしまったことを後悔(こうかい)しているようだった。
帰(かえ)ったら、渚(なぎさ)に教(おし)えてやろう。
朋也(ともや)「あのさ、伊吹(いぶき)って先生(せんせい)知(し)ってるか?」
晩(ばん)ご飯(はん)の席(せき)で、早速(さっそく)俺(おれ)は訊(き)いてみた。
渚(なぎさ)「はい。バスケの練習(れんしゅう)の日(ひ)に、朋也(ともや)くんも、ウチで会(あ)いました」
渚(なぎさ)「その伊吹先生(いぶきせんせい)がどうかしましたか」
朋也(ともや)「聞(き)いて、驚(おどろ)け」
朋也(ともや)「実(じつ)は、仕事場(しごとば)の直属(ちょくぞく)の先輩(せんぱい)が、その伊吹先生(いぶきせんせい)の彼氏(かれし)なんだよ」
渚(なぎさ)「えっ、それは驚(おどろ)きました」
朋也(ともや)「しかも、その先輩(せんぱい)…昔(むかし)はすげぇ売(う)れてたプロミュージシャンだったんだよ」
渚(なぎさ)「それは、すごいですっ」
朋也(ともや)「ああ、でも、その先輩(せんぱい)…芳野(よしの)さんには、いろんなことがあったんだ」
渚(なぎさ)「はい…」
朋也(ともや)「いろんなものを失(うしな)い、そして唯一(ゆいいつ)の支(ささ)えも失(うしな)った…」
朋也(ともや)「最後(さいご)にこの町(まち)に帰(かえ)ってきて…そして、優(やさ)しい言葉(ことば)をかけてくれたのが、その伊吹先生(いぶきせんせい)だったってわけだ」
朋也(ともや)「それは、芳野(よしの)さんの、新(あたら)しい支(ささ)えだったんだ」
渚(なぎさ)「やっぱり、伊吹先生(いぶきせんせい)はすごいです…」
渚(なぎさ)「本当(ほんとう)にすごい先生(せんせい)です」
朋也(ともや)「ちなみに、俺(おれ)にとって、その存在(そんざい)はおまえだけどな」
渚(なぎさ)「え…」
朋也(ともや)「だからきっと、おまえも同(おな)じぐらいすごいよ」
渚(なぎさ)「あ…ありがとうございますっ」
朋也(ともや)「礼(れい)を言(い)うのはこっちだって」
その後(あと)、芳野(よしの)さんのCDを荷物(にもつ)の中(なか)から掘(ほ)り起(お)こしてきて、渚(なぎさ)とふたりで聴(き)いた。
渚(なぎさ)「この声(こえ)、聞(き)いたことあります」
朋也(ともや)「やっぱ有名(ゆうめい)だったんだな」
渚(なぎさ)「はい。とても、素敵(すてき)な声(こえ)なので、忘(わす)れるわけないです」
渚(なぎさ)「曲(きょく)も、とてもいいです」
渚(なぎさ)には騒々(そうぞう)しすぎる音楽(おんがく)かと思(おも)ったが、気(き)に入(い)ってもらえたようだった。
芳野(よしの)さんの作(つく)る曲(きょく)は、音(おと)がハードでも、メロディ自体(じたい)はとても親(した)しみやすく、そして哀愁(あいしゅう)に満(み)ちていた。
そういう部分(ぶぶん)が、渚(なぎさ)の琴線(きんせん)にも触(ふ)れたのだろう。
朋也(ともや)「でも、このCDを出(だ)した時(とき)って、芳野(よしの)さん、今(いま)の俺(おれ)より若(わか)いんだぜ」
渚(なぎさ)「本当(ほんとう)ですかっ、それはすごいです…」
朋也(ともや)「ああ…」
迷(まよ)いのない純粋(じゅんすい)な声(こえ)。
自分(じぶん)の歌(うた)を、CDの芳野(よしの)さんは歌(うた)っていた。
他人(たにん)のためじゃないからこそ、それはより真(ま)っ直(す)ぐに届(とど)いた。
俺(おれ)はじっと天井(てんじょう)を見(み)つめながら、今日(きょう)聞(き)いた話(はなし)を思(おも)い返(かえ)していた。
俺(おれ)なんかが味(あじ)わったことのないような、栄光(えいこう)と挫折(ざせつ)。
現実(げんじつ)は、俺(おれ)が今(いま)想像(そうぞう)しているよりも、もっと壮絶(そうぜつ)だったに違(ちが)いない。
俺(おれ)は生(い)きていることは無意味(むいみ)だと思(おも)ったことはあったけど…それを終(お)わらせたいと思(おも)ったことはなかったから。
翌朝(よくあさ)。
渚(なぎさ)「あの、今日(きょう)、このCDをお借(か)りしていいですかっ」
芳野(よしの)さんのCDを手(て)に、支度(したく)をする俺(おれ)に訊(き)いてきた。
朋也(ともや)「学校(がっこう)に持(も)っていくのか?
おまえにしては、勇気(ゆうき)あるな」
朋也(ともや)「よし、授業中(じゅぎょうちゅう)にがんがん聴(き)いてやれ」
渚(なぎさ)「そんなことしたらダメですっ、授業(じゅぎょう)はちゃんと先生(せんせい)の話(はなし)を聞(き)きます」
渚(なぎさ)「CDをお借(か)りするのは、帰(かえ)ってきてからです」
渚(なぎさ)「伊吹先生(いぶきせんせい)にこれを持(も)って、会(あ)いに行(い)こうかと思(おも)いまして…」
渚(なぎさ)「その…本当(ほんとう)は、卒業(そつぎょう)するまでは、こっちから会(あ)いに行(い)くことはしたくなかったんですけど…」
渚(なぎさ)「でも、これを聴(き)いたら…是非(ぜひ)とも感想(かんそう)を伝(つた)えたくなってしまいました…」
朋也(ともや)「本人(ほんにん)に、じゃなくて?」
渚(なぎさ)「はい…本人(ほんにん)さん…芳野(よしの)さんは、朋也(ともや)くん言(い)ってました」
渚(なぎさ)「大変(たいへん)なことがたくさんあったって…」
渚(なぎさ)「もしかしたら、あまり触(ふ)れられたくないことかもしれないです」
渚(なぎさ)「そういうことも伊吹先生(いぶきせんせい)に聞(き)けば、わかると思(おも)いますし…」
渚(なぎさ)「もちろん、詳(くわ)しい話(はなし)は聞(き)かないですけど…」
俺(おれ)にだってようやく打(う)ち明(あ)けてくれた昔(むかし)の話(はなし)だ。
初(はじ)めて会(あ)った人間(にんげん)にいきなり曲(きょく)の感想(かんそう)を言(い)われても、好意的(こういてき)に受(う)け取(と)ってもらえるはずがなかった。
朋也(ともや)「そうか…そうだな」
朋也(ともや)「そうしろよ」
だから、俺(おれ)はそう答(こた)えていた。
渚(なぎさ)「はい、ではお借(か)りします」
そういや、明後日(あさって)は休(やす)みだ。
明後日まで待って、一緒に行く伊吹先生(いぶきせんせい)に会(あ)いにいく日(ひ)。
俺(おれ)たちはまず、渚(なぎさ)の実家(じっか)に立(た)ち寄(よ)っていた。
それは、伊吹先生(いぶきせんせい)へのおみやげとしてパンを買(か)うためだった。
渚(なぎさ)「ただいまです」
早苗(さなえ)「おかえりなさい」
早苗(さなえ)さんが、店番(みせばん)をしていた。
早苗(さなえ)「朋也(ともや)さん、こんにちはっ」
朋也(ともや)「ちっす」
渚(なぎさ)「お母(かあ)さんっ」
早苗(さなえ)「はい、なんですか」
渚(なぎさ)「パンをいただきにきましたっ」
早苗(さなえ)「はいっ。好(す)きなだけ持(も)っていってくださいね」
渚(なぎさ)「いえ、自分(じぶん)のお金(かね)で買(か)います」
早苗(さなえ)「どうせ余(あま)ってしまうんですから、お金(かね)なんていらないですよっ」
渚(なぎさ)「いえ、そういうわけにはいかないですっ」
早苗(さなえ)「いらないですよっ」
両者(りょうしゃ)、一歩(いっぽ)も引(ひ)かない。
朋也(ともや)「じゃ…俺(おれ)、払(はら)うよ」
ふたりに驚(おどろ)かれる。なんだか面白(おもしろ)い。
朋也(ともや)「俺(おれ)、働(はたら)いてるから、大丈夫(だいじょうぶ)っすよ」
渚(なぎさ)「そんな、朋也(ともや)くん、悪(わる)いです」
早苗(さなえ)「そうですよ、朋也(ともや)さん。苦(くる)しい時(とき)は、お互(たが)い様(さま)です」
朋也(ともや)「いや、俺(おれ)が食(く)うんじゃないっす…」
渚(なぎさ)「伊吹先生(いぶきせんせい)に会(あ)いにいくって、昨日(きのう)、電話(でんわ)で話(はな)しました」
早苗(さなえ)「はい、そうでしたねっ」
本当(ほんとう)に覚(おぼ)えてたんかい。
渚(なぎさ)「先生(せんせい)、家(いえ)にいなかったですから、お母(かあ)さんにかけたんです」
早苗(さなえ)「はい。伊吹先生(いぶきせんせい)には、渚(なぎさ)が行(い)くこと、ちゃんと連絡(れんらく)しておきましたよ」
早苗(さなえ)「ですから、家(いえ)で待(ま)ってくれています」
渚(なぎさ)「忙(いそが)しくなかったんでしょうか…」
早苗(さなえ)「大丈夫(だいじょうぶ)ですよ。心配(しんぱい)しないでお邪魔(じゃま)してきてください」
渚(なぎさ)「はい、そうします」
渚(なぎさ)「たくさん、パンを持(も)って」
渚(なぎさ)「先生(せんせい)、うちのパン、大好(だいす)きでしたので」
朋也(ともや)「他人(たにん)にあげるものだから、もらい物(もの)ってのはよくないっしょ」
早苗(さなえ)「そうですね。わかりました」
早苗(さなえ)「では、一個(いっこ)10円(えん)にしておきますねっ」
朋也(ともや)「しないでくださいっ」
渚(なぎさ)「定価(ていか)でお願(ねが)いしますっ」
早苗(さなえ)「そうですか…わかりました」
早苗(さなえ)「普通(ふつう)のお客(きゃく)さんと同(おな)じようにしますねっ」
渚(なぎさ)「ありがとうございます」
礼(れい)を言(い)って、トレイを手(て)に取(と)る渚(なぎさ)。
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん、パンをお願(ねが)いします」
朋也(ともや)「あ、ああ…」
渚(なぎさ)「これ、ふたつお願(ねが)いします。こっち、ひとつ、お願(ねが)いします」
てきぱきと俺(おれ)に指示(しじ)して、パンをトレイに積(つ)み上(あ)げさせる。
早苗(さなえ)「では、よろしく言(い)っておいてくださいね」
渚(なぎさ)「はい」
パンを包(つつ)んだ袋(ふくろ)を受(う)け取(と)って、古河(ふるかわ)パンを後(あと)にした。
渚(なぎさ)「こっちです」
渚(なぎさ)に先導(せんどう)されて、歩(ある)いていく。
渚(なぎさ)「もう、すぐそこです」
家(いえ)の前(まえ)で、じょうろを手(て)に、水(みず)やりをしている女性(じょせい)がいた。
渚(なぎさ)「いました」
すぐに渚(なぎさ)が声(こえ)をあげていた。
渚(なぎさ)「先生(せんせい)っ」
渚(なぎさ)は、そのそばまで駆(か)けつける。
渚(なぎさ)「こんにちはっ、古河(ふるかわ)です」
伊吹(いぶき)「こんにちは。早(はや)かったですね」
満面(まんめん)の笑(え)みで、迎(むか)える。
渚(なぎさ)「はい。早(はや)く会(あ)いたくて、早(はや)くきてしまいました」
伊吹(いぶき)「それは、先生(せんせい)、嬉(うれ)しいです」
伊吹(いぶき)「って、もう先生(せんせい)じゃないんですけどね」
伊吹(いぶき)「今日(きょう)は、よくいらっしゃいました」
伊吹(いぶき)「さぁ、あがってくださいね」
先生(せんせい)は門(もん)をくぐって、中(なか)に入(はい)る。
渚(なぎさ)「いえ…その…」
けど、渚(なぎさ)は道(みち)に立(た)ちつくしたままでいた。
伊吹(いぶき)「どうしましたか」
その渚(なぎさ)の元(もと)まで近(ちか)づいていって、優(やさ)しく訊(き)いた。
渚(なぎさ)「あの…」
渚(なぎさ)「まだ、制服(せいふく)着(き)ちゃってます…わたし…」
伊吹(いぶき)「はい、知(し)っていますよ」
渚(なぎさ)「だから、まだ家(いえ)には上(あ)がれません」
渚(なぎさ)「先生(せんせい)に、気(き)を遣(つか)わせてしまうだけですから…」
伊吹(いぶき)「そんなこと、気(き)にしなくていいんですよ」
渚(なぎさ)「先生(せんせい)はそう言(い)ってくれること、わかってました」
渚(なぎさ)「でも、次(つぎ)、先生(せんせい)とゆっくりお話(はな)するときは…」
渚(なぎさ)「先生(せんせい)が気兼(きが)ねなく話(はな)せる自分(じぶん)でいたいんです」
渚(なぎさ)「これは、わたしが決(き)めたことです」
頑張(がんば)って、自分(じぶん)の思(おも)いを伝(つた)えていた。
伊吹(いぶき)「そうですか…わかりました」
伊吹(いぶき)「その日(ひ)を楽(たの)しみに待(ま)ってますね」
伊吹(いぶき)「がんばりましょうっ」
渚(なぎさ)「はいっ」
ふたりで、手(て)のひらをぐっと握(にぎ)り合(あ)う。
微笑(ほほえ)ましい光景(こうけい)だった。
伊吹(いぶき)「確(たし)か、岡崎(おかざき)さん」
伊吹先生(いぶきせんせい)が、俺(おれ)のほうを見(み)ていた。
朋也(ともや)「はい、岡崎(おかざき)っす」
伊吹(いぶき)「大事(だいじ)にしてくれてるんですね、渚(なぎさ)ちゃんのこと」
なんと答(こた)えたものか…。ええ、と軽(かる)く返事(へんじ)しておく。
伊吹(いぶき)「今(いま)の渚(なぎさ)ちゃんのいきいきとした表情(ひょうじょう)を見(み)ていたらわかります」
伊吹(いぶき)「渚(なぎさ)ちゃんは、ほんとにいい彼氏(かれし)を見(み)つけましたね」
渚(なぎさ)「あ、それはすごく思(おも)います…はい…」
伊吹(いぶき)「これからも手放(てばな)さないようにしないとダメですよ」
渚(なぎさ)「はい、絶対(ぜったい)そうしますっ」
朋也(ともや)「渚(なぎさ)。パン」
ラブラブ話(ばなし)を断(た)ち切(き)るため、俺(おれ)は手(て)の袋(ふくろ)を抱(かか)え上(あ)げた。
渚(なぎさ)「ああ、すみません。お渡(わた)しします」
渚(なぎさ)「先生(せんせい)、これ、家(うち)のパンです。よろしければ、どうぞ」
俺(おれ)から受(う)け取(と)った大(おお)きな袋(ふくろ)を手渡(てわた)す。
伊吹(いぶき)「ありがとうございます」
伊吹(いぶき)「こんなに?
すごい量(りょう)ですね。いいんですか?」
渚(なぎさ)「はい、遠慮(えんりょ)しないでください」
伊吹(いぶき)「それではいただきますね」
伊吹先生(いぶきせんせい)は、俺(おれ)にもにこりと笑(わら)いかけてくれる。
どうぞ、と手(て)を差(さ)し出(だ)して返(かえ)す。
渚(なぎさ)「ええと、あの、今日(きょう)は先生(せんせい)に伝(つた)えたいことがあってきたんです」
伊吹(いぶき)「はい、なんでしょう」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くんに、CDを聴(き)かせてもらったんです」
伊吹(いぶき)「はい」
渚(なぎさ)「それが、すごくよくて…感動(かんどう)してしまいました」
渚(なぎさ)「詩(し)もメロディもすごくいいんです」
伊吹(いぶき)「はい」
渚(なぎさ)「歌声(うたごえ)がまた…すごくいいんです」
すごくいい以外(いがい)に言葉(ことば)が浮(う)かばないのか、おまえ。
伊吹(いぶき)「どんなCDなんですか。渚(なぎさ)ちゃんが、そんなに気(き)に入(い)る音楽(おんがく)なんて、先生(せんせい)も、興味(きょうみ)あります」
渚(なぎさ)「あの…これです」
言(い)って、手(て)に持(も)っていた袋(ふくろ)から一枚(いちまい)のCDを取(と)りだして先生(せんせい)に手渡(てわた)した。
伊吹(いぶき)「えっ…」
ジャケットを見(み)た先生(せんせい)は、それを思(おも)わず落(お)としそうになる。
渚(なぎさ)「わ、大丈夫(だいじょうぶ)ですかっ」
伊吹(いぶき)「あ、はい。ごめんなさい」
伊吹(いぶき)「でも、先生(せんせい)、びっくりしました」
渚(なぎさ)「はい」
伊吹(いぶき)「渚(なぎさ)ちゃん、こんな音楽(おんがく)、聴(き)くんですね」
朋也(ともや)「それだけじゃないでしょ」
俺(おれ)は横(よこ)やりを入(い)れていた。
朋也(ともや)「しかも、先生(せんせい)の親(した)しい人(ひと)のCDだ」
伊吹(いぶき)「………」
伊吹(いぶき)「岡崎(おかざき)くん…よく、知(し)っていますね」
朋也(ともや)「その人(ひと)、俺(おれ)の仕事場(しごとば)の先輩(せんぱい)だから」
伊吹(いぶき)「え…?」
伊吹(いぶき)「ということは、あの岡崎(おかざき)くんなんですか」
朋也(ともや)「あのって…どのか、よくわからないんすけど」
伊吹(いぶき)「ごめんなさい。よくあの人(ひと)の口(くち)から、岡崎(おかざき)くんの名前(なまえ)は出(で)るんです」
…何(なに)を言(い)われてるんだろう。
伊吹(いぶき)「でも、すごい偶然(ぐうぜん)ですね」
朋也(ともや)「そう。渚(なぎさ)が、その音楽(おんがく)を気(き)に入(はい)ったのも、偶然(ぐうぜん)」
朋也(ともや)「別(べつ)に先生(せんせい)の親(した)しい人(ひと)のCDだからってわけじゃないっすよ」
渚(なぎさ)「そうです」
朋也(ともや)「こいつ、その感動(かんどう)をどうしても伝(つた)えたくなって…」
朋也(ともや)「卒業(そつぎょう)するまでは自分(じぶん)からは会(あ)わないように決(き)めていたのに、それを破(やぶ)って、ここまで来(き)たんすよ」
伊吹(いぶき)「そうなんですか…」
渚(なぎさ)「はい…それぐらい感動(かんどう)してしまいましたので」
朋也(ともや)「俺(おれ)も、人(ひと)から一回(いっかい)聴(き)かせてもらっただけだったんですけど、すごく印象(いんしょう)強(つよ)くて、すぐCD買(か)いにいきましたから」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん、今(いま)まで自分(じぶん)だけ知(し)ってたなんて、ずるいです」
渚(なぎさ)「もっと早(はや)く聴(き)かせてほしかったです…」
朋也(ともや)「だって、おまえが、こんな音楽(おんがく)聴(き)けるとは思(おも)わなかったんだよ」
朋也(ともや)「いつも、だんごだんご言(い)ってるからさ」
渚(なぎさ)「もちろんだんご大家族(だいかぞく)は大好(だいす)きです」
渚(なぎさ)「でも、芳野(よしの)さんの音楽(おんがく)も大好(だいす)きです」
伊吹(いぶき)「やっぱり…」
俺(おれ)たちが騒(さわ)がしくしている中(なか)、伊吹先生(いぶきせんせい)は、ひとり呟(つぶや)いていた。
伊吹(いぶき)「祐(ゆう)くんの音楽(おんがく)はすごいんだ…」
渚(なぎさ)「もちろんですっ」
朋也(ともや)「もちろんっ」
俺(おれ)と渚(なぎさ)は声(こえ)を合(あ)わせて答(こた)えていた。
朋也(ともや)「うわっ、またラブラブ光線(こうせん)だしちまったよっ」
渚(なぎさ)「えっ?
何(なに)か、いけなかったですかっ?」
朋也(ともや)「い、いや…」
伊吹(いぶき)「ありがとうございます、お二人(ふたり)とも」
なぜか、伊吹先生(いぶきせんせい)が俺(おれ)たちに頭(あたま)を下(さ)げていた。
渚(なぎさ)「え、どうしてでしょうか」
伊吹(いぶき)「いえ、わたしがするべきことが見(み)えてきた気(き)がしましたので」
伊吹(いぶき)「それは、とても大変(たいへん)なことかもしれないですけど」
渚(なぎさ)の行動(こうどう)をきっかけにして、何(なに)かが動(うご)き始(はじ)めようとしていた。
朋也(ともや)「あのさ、渚(なぎさ)」
渚(なぎさ)「はい」
朋也(ともや)「おまえも、手伝(てつだ)ってやれよ」
渚(なぎさ)「はい」
朋也(ともや)「何(なに)を手伝(てつだ)うのか、わかってんのか?」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くんは優(やさ)しいですから、すぐわかります」
渚(なぎさ)「芳野(よしの)さんが、またCDを作(つく)って、いろんな人(ひと)に聴(き)いてもらえるようにすることです」
朋也(ともや)「ああ、その通(とお)り」
愚問(ぐもん)だった。
後日(ごじつ)。
渚(なぎさ)「伊吹先生(いぶきせんせい)がとてもいい案(あん)を思(おも)いついたんです」
渚(なぎさ)は夕飯(ゆうはん)の場(ば)でそう話(はなし)を切(き)りだした。
朋也(ともや)「どんな?」
渚(なぎさ)「自主制作(じしゅせいさく)です」
朋也(ともや)「自主制作(じしゅせいさく)っていうと…映画(えいが)とか、自分(じぶん)たちだけで撮(と)って見(み)せるのとかは聞(き)いたことあるけど」
渚(なぎさ)「はい。それを音楽(おんがく)CDで、するんです」
渚(なぎさ)「大(おお)きなCD屋(や)さんでは、専用(せんよう)のコーナーもあるという話(はなし)です」
朋也(ともや)「へぇ…そんなのがあったのか…」
渚(なぎさ)「すべての作業(さぎょう)を自分(じぶん)たちの手(て)でしなくてはならないので、とても大変(たいへん)です」
朋也(ともや)「だろうな。きっと、むちゃくちゃ大変(たいへん)だぞ、それ」
渚(なぎさ)「はい」
渚(なぎさ)「ですが、その代(か)わりに…」
渚(なぎさ)「自分(じぶん)の好(す)きな音楽(おんがく)ができます」
渚(なぎさ)「自分(じぶん)の好(す)きな音楽(おんがく)を続(つづ)けていけるんです」
朋也(ともや)「なるほど…」
確(たし)かに…それなら、芳野(よしの)さんも、やる気(き)になるかもしれない。
朋也(ともや)「いい案(あん)じゃないか」
渚(なぎさ)「はい」
渚(なぎさ)「ですが、ひとつ問題(もんだい)があるんです」
渚(なぎさ)「太鼓(たいこ)を叩(たた)くひとがいないんです」
朋也(ともや)「………」
…太鼓(たいこ)。
あの芳野(よしの)さんが、和風(わふう)な音楽(おんがく)に方向転換(ほうこうてんかん)?
…んなアホな。
朋也(ともや)「…もしかしてドラムのことか?」
渚(なぎさ)「はい、そうです。すみません、いつもその名前(なまえ)を忘(わす)れてしまいます」
朋也(ともや)「いや…俺(おれ)も似(に)たようなもんだけど」
渚(なぎさ)「芳野(よしの)さんは、他(ほか)の楽器(がっき)はひとりでできるそうなんですが、ドラムだけは難(むずか)しいらしいんです」
朋也(ともや)「でも、芳野(よしの)さんだったら、うまい人(ひと)とか、知(し)り合(あ)いにいるんじゃないのか?」
渚(なぎさ)「それは、昔(むかし)一緒(いっしょ)にやってくれていた人(ひと)ですよね」
朋也(ともや)「だろうな」
渚(なぎさ)「頼(たの)むにはお金(かね)がかかるそうです」
朋也(ともや)「そうか…それはプロに頼(たの)むってことになるのか…」
渚(なぎさ)「はい。それに、そういう人(ひと)たちの力(ちから)を借(か)りずに作(つく)らないと意味(いみ)がないそうです」
朋也(ともや)「確(たし)かにな。プロに力借(ちからか)りてたら、自主制作(じしゅせいさく)の意味(いみ)がないよな…」
渚(なぎさ)「はい」
渚(なぎさ)「ですので、困(こま)ってしまっています」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん」
朋也(ともや)「あん?」
渚(なぎさ)「叩(たた)けませんか」
朋也(ともや)「叩(たた)けません」
渚(なぎさ)「練習(れんしゅう)してみては、どうでしょう」
朋也(ともや)「あのな…」
朋也(ともや)「俺(おれ)は、今(いま)まで音楽(おんがく)とは無縁(むえん)の暮(く)らしをしてきたし、センスも皆無(かいむ)」
朋也(ともや)「そんな俺(おれ)が練習(れんしゅう)して、芳野(よしの)さんの後(うし)ろで叩(たた)くレベルになるなんて、生涯(しょうがい)ない」
渚(なぎさ)「生涯(しょうがい)ないなんてことは決(けっ)してないです」
渚(なぎさ)「いつかは、かなうと思(おも)います」
朋也(ともや)「十年後(じゅうねんご)ぐらいにかなえば、いいな」
渚(なぎさ)「………」
渚(なぎさ)「もう少(すこ)しがんばりましょう」
朋也(ともや)「じゃ、五年(ごねん)」
渚(なぎさ)「もう少(すこ)しがんばっちゃいましょう」
朋也(ともや)「じゃ、三年(さんねん)」
渚(なぎさ)「がんばって、一(いっ)ヶ月(げつ)に縮(ちぢ)めちゃいましょう」
朋也(ともや)「できるかっ」
朋也(ともや)「三年(さんねん)だって、五年(ごねん)だって無理(むり)」
朋也(ともや)「途中(とちゅう)で、挫折(ざせつ)するに決(き)まってる」
朋也(ともや)「そもそも、俺(おれ)に頼(たの)むってのがお門違(かどちが)いなんだよ。それに気(き)づけ」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん、がんばり屋(や)さんです」
朋也(ともや)「そういう問題(もんだい)じゃなくて…人(ひと)には得手不得手(えてふえて)ってものがあるだろ?」
朋也(ともや)「後(あと)は適材適所(てきざいてきしょ)ってのも」
朋也(ともや)「俺(おれ)は不得手(ふえて)で、不適材(ふてきざい)なの」
渚(なぎさ)「そうなんでしょうか…」
朋也(ともや)「大体(だいたい)おまえは浅(あさ)はかなんだよ」
朋也(ともや)「どうせ、俺(おれ)がやってくれたら、うれしいって、安易(あんい)にそう思(おも)っただけだろ」
朋也(ともや)「その案(あん)に伊吹先生(いぶきせんせい)が賛同(さんどう)したか?」
渚(なぎさ)「いえ、これは、まだ言(い)ってないです」
朋也(ともや)「だろうな…言(い)ったら呆(あき)れられるよ」
渚(なぎさ)「伊吹先生(いぶきせんせい)は、呆(あき)れたりしません」
渚(なぎさ)「きっと、応援(おうえん)してくれます」
朋也(ともや)「………」
確(たし)かに…あの人(にん)なら、本当(ほんとう)にそうなりそうで恐(こわ)い。
朋也(ともや)「やめろ、言(い)うなっ」
渚(なぎさ)「はい?」
朋也(ともや)「とにかくだっ、俺(おれ)には無理(むり)。二度(にど)と、そんなアイデアを持(も)ち出(だ)すな」
渚(なぎさ)「困(こま)ってしまいました…」
渚(なぎさ)「わたし、伊吹先生(いぶきせんせい)に、とてもいい案(あん)を思(おも)いついたので任(まか)せておいてください、と胸(むね)を張(は)って帰(かえ)ってきてしまいました…」
朋也(ともや)「…おまえアホな子(こ)だろ」
渚(なぎさ)「なら、朋也(ともや)くんはアホな子(こ)の彼氏(かれし)です」
朋也(ともや)「アホな子(こ)の彼氏(かれし)かもしれないが、俺(おれ)はアホではない」
渚(なぎさ)「一緒(いっしょ)に暮(く)らしているので、うつってしまっています」
渚(なぎさ)「ですので、朋也(ともや)くんも、アホな子(こ)です」
朋也(ともや)「俺(おれ)は違(ちが)うっての。一緒(いっしょ)にすんな」
渚(なぎさ)「なら、いい案(あん)を考(かんが)えてください」
渚(なぎさ)「アホな子(こ)ではない朋也(ともや)くんなら、とてもいい案(あん)を思(おも)いつくはずです」
朋也(ともや)「む…そうきたか…」
逆(ぎゃく)に、渚(なぎさ)に俺(おれ)のずる賢(かしこ)さが移(うつ)っている気(き)がする…。
朋也(ともや)「ドラムを叩(たた)ける人(びと)ね…」
俺(おれ)は寝転(ねころ)がって、天井(てんじょう)に知(し)り合(あ)いの顔(かお)を順(じゅん)に描(えが)いていく。
誰(だれ)か、叩(たた)ける奴(やつ)がいただろうか。
それも、芳野(よしの)さんの足(あし)を引(ひ)っ張(ぱ)らないプロ並(な)みにうまい奴(やつ)…。
そんな奴(やつ)がこの町(まち)にいるのだろうか…。
朋也(ともや)(いるわけない…)
けど…
もしいるとしたら…
秋生(あきお)「…あん?」
漫画(まんが)なんかでよくある展開(てんかい)だ。
こういうときは、凄腕(すごうで)の助(すけ)っ人(ひと)が、灯台(とうだい)もと暗(くら)しのようにすぐ近(ちか)くにいるものである。
読者(どくしゃ)の意表(いひょう)を突(つ)き、そして、その後(あと)の展開(てんかい)をわくわくさせる人物(じんぶつ)。
俺(おれ)は見抜(みぬ)いた。
それが、この人(ひと)だ。
朋也(ともや)「俺(おれ)と来(き)てくれっ」
秋生(あきお)「なんだよっ!?」
秋生(あきお)「うおっ、てめぇ、力(ちから)、強(つよ)くなったなっ」
その腕(うで)を引(ひ)いて、俺(おれ)は外(そと)に連(つ)れ出(だ)した。
朋也(ともや)「芳野(よしの)さんっ」
芳野(よしの)「………」
芳野(よしの)「…どうした」
朋也(ともや)「紹介(しょうかい)したい人(ひと)がいるんですっ」
芳野(よしの)「あん?
こちらは?」
朋也(ともや)「古河(ふるかわ)パンの主人(しゅじん)っす」
秋生(あきお)「なんかよくわからんが…古河秋生(ふるかわあきお)だ」
芳野(よしの)「芳野祐介(よしのゆうすけ)です」
秋生(あきお)「………」
朋也(ともや)「ほら、ふたり、握手(あくしゅ)して」
秋生(あきお)「なんかよくわからんが…よろしく」
芳野(よしの)「こちらこそ、何(なに)かはわからないですが、よろしくお願(ねが)いします」
ぐっと、固(かた)く手(て)を握(にぎ)り合(あ)った。
…この町(まち)最強(さいきょう)のバンドが、生(う)まれた瞬間(しゅんかん)だった。
朋也(ともや)「すげぇCD作(つく)ってくださいね」
秋生(あきお)「…あん?
こいつが何(なに)かするのか?」
朋也(ともや)「CD作(つく)るんだよ」
秋生(あきお)「おぅ、頑張(がんば)れ」
朋也(ともや)「オッサンもだよっ」
秋生(あきお)「なんだ、一曲(いっきょく)歌(うた)わせてくれるのか?」
朋也(ともや)「ボーカルじゃない。オッサンはドラムっ」
秋生(あきお)「ドラム…?」
朋也(ともや)「ああ。ドラムだよ」
秋生(あきお)「そうか…ドラムか…」
オッサンは遠(とお)い眼差(まなざ)しで、天井(てんじょう)を仰(あお)いだ。
そこに、かつての自分(じぶん)の姿(すがた)を映(うつ)し出(だ)しているのだろう。
そのプレイで、ライブ会場(かいじょう)の観客(かんきゃく)を湧(わ)かせた日々(ひび)。
やはりこの人(ひと)だったんだ…。
俺(おれ)の目(め)に狂(くる)いはなかったんだ。
秋生(あきお)「んなもん、やったことねぇや。じゃあな」
ずるぅっ!
俺(おれ)はもんどり打(う)って、床(ゆか)に滑(すべ)り込(こ)んでいた。
芳野(よしの)「………」
芳野(よしの)「…おまえ、何(なに)がしたかったんだ?」
芳野(よしの)さんの視線(しせん)が痛(いた)かった。
朋也(ともや)「あの人(ひと)、なんでもできそうに見(み)えるから、騙(だま)されたよ…」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くんも、アホな子(こ)です」
朋也(ともや)「いいよ。認(みと)めるよ…俺(おれ)はアホな子(こ)です」
それからまたしばらく時間(じかん)が経(た)った。
ある日(ひ)の晩(ばん)、帰宅(きたく)すると、やけに機嫌(きげん)のいい渚(なぎさ)が台所(だいどころ)に立(た)っていた。
ずっと、鼻歌(はなうた)を歌(うた)っている。
朋也(ともや)「何(なに)かあったのか?」
渚(なぎさ)「何(なに)もないです」
渚(なぎさ)「…えへへ」
朋也(ともや)「今(いま)、笑(わら)っただろ」
渚(なぎさ)「思(おも)い出(だ)し笑(わら)いです」
朋也(ともや)「何(なに)、思(おも)い出(だ)してたんだよ」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くんが、お父(とう)さんを芳野(よしの)さんのところまで引(ひ)っ張(ぱ)っていった話(はなし)です」
朋也(ともや)「もう忘(わす)れてくれ…」
翌日(よくじつ)。
芳野(よしの)「喜(よろこ)べ、俺(おれ)のファン」
朋也(ともや)「…え?」
芳野(よしの)「また、CDを作(つく)ることになった」
朋也(ともや)「本当(ほんとう)っすかっ」
あまりに唐突(とうとつ)だったので、面食(めんく)らってしまう。
いつの間(ま)に事態(じたい)は好転(こうてん)したのだろう。
芳野(よしの)「本当(ほんとう)も何(なに)も、おまえの魂胆(こんたん)だろうが」
芳野(よしの)「それと、おまえの嫁(よめ)さんのな」
朋也(ともや)「いや、俺(おれ)たち、まだ結婚(けっこん)してないっす」
芳野(よしの)「そんなことは知(し)ったことじゃない」
芳野(よしの)「けど、おまえらふたりが、あの人(ひと)と結託(けったく)して、けしかけたことだろう」
朋也(ともや)「いや、俺(おれ)たちは、CDの感想(かんそう)を伝(つた)えただけで、何(なに)も…」
芳野(よしの)「足(た)りないドラマーを俺(おれ)に紹介(しょうかい)しようとしたじゃないか」
朋也(ともや)「あっ、そのドラムはどうなったんすか」
芳野(よしの)「やるしかないだろ」
朋也(ともや)「自分(じぶん)でですか?」
芳野(よしの)「ああ。昔(むかし)、遊(あそ)び半分(はんぶん)で叩(たた)かしてもらったことがある」
芳野(よしの)「そん時(とき)にコツだけは掴(つか)んでるんだ」
芳野(よしの)「後(あと)は、練習(れんしゅう)だな…」
朋也(ともや)「大変(たいへん)っすね」
芳野(よしの)「ああ、むちゃくちゃ大変(たいへん)だぞ」
芳野(よしの)「練習(れんしゅう)するにはスタジオを借(か)りないといけないしな…」
芳野(よしの)「そもそも、レコーディングってやつは、馬鹿(ばか)ほどお金(かね)がかかる」
芳野(よしの)「スタジオ代(だい)だけで、ン十万(じゅうまん)だぞ」
朋也(ともや)「マジっすか…」
芳野(よしの)「ああ」
芳野(よしの)「ひとりでやればレコーディングも時間(じかん)がかかるだろうし、どれだけ経費(けいひ)がかさむやら…」
芳野(よしの)「宣伝(せんでん)だって、チラシを作(つく)ったり、ライブハウスやレコードショップを回(まわ)ったり、自分(じぶん)の手(て)でしなくちゃならない」
芳野(よしの)「そうして完売(かんばい)させたとしても、赤字(あかじ)だ」
芳野(よしの)「逆(ぎゃく)にCDを作(つく)る経費(けいひ)を稼(かせ)ぐために、汗水(あせみず)流(なが)して働(はたら)くことになる…」
芳野(よしの)「インディーズってのは、そんな世界(せかい)だ」
芳野(よしの)「ロクなことがない…」
芳野(よしの)「どうして、俺(おれ)はそこまでしてやらなければならないんだ…?」
芳野(よしの)さんの言(い)うとおり、俺(おれ)たちがけしかけてしまったためだろうか。
俺(おれ)たちのせいで、後(あと)に引(ひ)けなくなってしまったのだろうか…。
本当(ほんとう)に、厄介事(やっかいごと)を俺(おれ)たちは持(も)ち込(こ)んでしまったのだろうか…。
芳野(よしの)さんの、平穏(へいおん)な生活(せいかつ)の日々(ひび)に。
芳野(よしの)「………」
芳野(よしの)「答(こた)えは簡単(かんたん)だ」
芳野(よしの)「…自分(じぶん)がやりたいからだ」
朋也(ともや)「………」
思(おも)い出(だ)してみればいい。
二年前(にねんまえ)、春原(すのはら)がバンドをやっていると告(つ)げた時(とき)、この人(ひと)はどんな顔(かお)をした?
『へぇ…バンドか…』
『そいつは、いいなっ』
あの少年(しょうねん)のようにあどけない笑顔(えがお)が蘇(よみがえ)る。
音楽(おんがく)は、いつだって、変(か)わらず好(す)きだったんだ。
朋也(ともや)「でも、売(う)れちゃったりしたら、また…繰(く)り返(かえ)しにはならないんですか」
芳野(よしの)「大丈夫(だいじょうぶ)だ」
芳野(よしの)「もう、見(み)も知(し)らぬ他人(たにん)のことは歌(うた)わない」
芳野(よしの)「歌(うた)うのは、自分(じぶん)のことや、身近(みぢか)にいる人(ひと)のこと…」
芳野(よしの)「そうだな、この町(まち)のことを歌(うた)っていくことにする」
芳野(よしの)「それに、インディーズ以外(いがい)でやるつもりはない」
芳野(よしの)「まぁ、そもそも、今更(いまさら)俺(おれ)に誘(さそ)いが来(く)るとは思(おも)えないがな」
芳野(よしの)「もう、自分(じぶん)の稼(かせ)いだ金(かね)で…自分(じぶん)の歌(うた)いたい歌(うた)だけを形(かたち)にしていく」
芳野(よしの)「それが、俺(おれ)のやりたいことだからな」
芳野(よしの)「そして、それを、他(ほか)の誰(だれ)かにも気(き)に入(い)ってもらえたら、最高(さいこう)だ」
変(か)わらず好(す)きだったんだ。
他人(たにん)に聴(き)かせることも。
朋也(ともや)「趣味(しゅみ)っすね」
芳野(よしの)「そう。趣味(しゅみ)だ」
芳野(よしの)「とても、金(かね)のかかるな」
言(い)って、笑(わら)った。
芳野(よしの)「そうだ、おまえのことも歌(うた)にしてやろう」
朋也(ともや)「やめてくださいよっ」
芳野(よしの)「おまえが題材(だいざい)だと、いい曲(きょく)が浮(う)かびそうだ」
芳野(よしの)「例(たと)えば…」
芳野(よしの)「ラブ·アンド·スパナ」
芳野(よしの)「どうだ」
朋也(ともや)「は?」
芳野(よしの)「女(おんな)のために働(はたら)く、おまえを象徴(しょうちょう)しているだろう?」
芳野(よしの)「よし、アルバムタイトルでイケそうだな」
朋也(ともや)「売(う)れなさそうっすね…」
芳野(よしの)「日本人(にほんじん)なら、やっぱ日本語(にほんご)のほうがいいか」
芳野(よしの)「じゃ…愛(あい)でスパナを回(まわ)す男(おとこ)」
朋也(ともや)「なんか恐(こわ)くないっすか」
芳野(よしの)「恐(こわ)い?」
朋也(ともや)「いっそ、頭(あたま)に恐怖(きょうふ)!!って付(つ)けてみたら、どうすか」
芳野(よしの)「恐怖(きょうふ)なら、愛(あい)じゃないだろう」
朋也(ともや)「鼻(はな)だと恐(こわ)いっすかね」
芳野(よしの)「あんまり恐(こわ)くないな…」
朋也(ともや)「ああ、思(おも)いつきましたっ」
朋也(ともや)「逆(ぎゃく)にすればいいんすよっ」
芳野(よしの)「逆(ぎゃく)?」
芳野(よしの)「こえぇぇーっ!」
朋也(ともや)「さらにサスペンスっぽくしてみましょうか」
芳野(よしの)「そんなの見(み)たくねぇーっ!」
芳野(よしの)「って、どんなアルバムだよっ!」
朋也(ともや)「芳野(よしの)さんが言(い)い出(だ)したんじゃないすか」
芳野(よしの)「恐怖(きょうふ)!!とか、鼻(はな)とか言(い)い出(だ)したのはおまえだ」
朋也(ともや)「でしたっけ?」
芳野(よしの)「やっぱ、ラブ·アンド·スパナだ」
朋也(ともや)「マジっすか…正直(しょうじき)、ダサいっすよ…」
芳野(よしの)「いいんだよ、俺(おれ)が良(よ)ければ」
芳野(よしの)「それが、インディーズだ」
朋也(ともや)「朗報(ろうほう)だ、渚(なぎさ)」
渚(なぎさ)「なんでしょうか」
朋也(ともや)「芳野(よしの)さんが、またCDを作(つく)るってさ」
渚(なぎさ)「本当(ほんとう)ですかっ」
朋也(ともや)「ああ、結構(けっこう)やる気(き)になってた」
渚(なぎさ)「実(じつ)は、わたし、昨日(きのう)のうちに知(し)ってました。えへへ」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くんには芳野(よしの)さんから直接聞(ちょくせつき)いてほしいということだったので、伊吹先生(いぶきせんせい)からも、口止(くちど)めされてたんです」
朋也(ともや)「そっか…」
なんだか気(き)を回(まわ)してもらったことが恥(は)ずかしくなって、頭(あたま)を掻(か)く。
朋也(ともや)「そうだよな」
朋也(ともや)「おまえと、伊吹先生(いぶきせんせい)がふたりで頑張(がんば)ってたんだもんな」
渚(なぎさ)「いえ、がんばったのは伊吹先生(いぶきせんせい)と芳野(よしの)さんです」
渚(なぎさ)「わたしは手伝(てつだ)えることがなかったですから、話(はなし)を聞(き)いていただけです」
朋也(ともや)「それでも、力(ちから)にはなっていたはずだ」
朋也(ともや)「そもそも、きっかけを与(あた)えたのはおまえだからな」
渚(なぎさ)「そうでしょうか…」
渚(なぎさ)「だったら、うれしいです」
渚(なぎさ)「でも、本当(ほんとう)にがんばったのは、おふたりです」
渚(なぎさ)「芳野(よしの)さんは…簡単(かんたん)には自分(じぶん)の音楽(おんがく)を、他(ほか)の人(ひと)に聴(き)いてもらいたいとは言(い)ってくれなかったんです」
渚(なぎさ)「いつか、また、やりたい音楽(おんがく)じゃなくなってしまう…それが恐(こわ)かったみたいです」
渚(なぎさ)「でも、自分(じぶん)たちだけの手(て)で作(つく)り続(つづ)けていけば、それが守(まも)れるんです」
渚(なぎさ)「そして、自分(じぶん)のやりたい音楽(おんがく)に共感(きょうかん)してくれる人(ひと)だけが、買(か)ってくれると…そう言(い)ってました」
朋也(ともや)「そうだな…」
朋也(ともや)「それに、もう、あの人(ひと)のやりたい音楽(おんがく)の照準(しょうじゅん)はぶれないと思(おも)う」
朋也(ともや)「好(す)きな人(ひと)は、すぐそばにいて…」
朋也(ともや)「そして、好(す)きな町(まち)…その場所(ばしょ)で暮(く)らしているんだからな」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん、とても素敵(すてき)なことを言(い)っています」
朋也(ともや)「そうかな」
渚(なぎさ)「はい」
朋也(ともや)「でも…夢(ゆめ)だけじゃ、食(く)っていけないからな。現実(げんじつ)は厳(きび)しい」
朋也(ともや)「そのことも、よくわかってるよ、あの人(ひと)は」
渚(なぎさ)「はい。ですので、朋也(ともや)くん、CD買(か)いましょうっ」
朋也(ともや)「ああ、言(い)われなくても買(か)うよ」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くんと、わたし、一枚(いちまい)ずつです」
朋也(ともや)「ふたりで暮(く)らしてんのに?」
渚(なぎさ)「はい」
朋也(ともや)「まるで、いつか別(わか)れた時(とき)のために、それぞれで持(も)っておくみたいだな…」
渚(なぎさ)「え…」
渚(なぎさ)「だったら、ふたりで一枚(いちまい)でいいですっ。朋也(ともや)くんとわたしのCDですっ」
朋也(ともや)「うそうそ」
朋也(ともや)「いいよ。一枚(いちまい)ずつ買(か)おう」
朋也(ともや)「一枚(いちまい)は聴(き)いて、一枚(いちまい)は大事(だいじ)に取(と)っておこう」
朋也(ともや)「二枚(にまい)とも、俺(おれ)たちのだ」
渚(なぎさ)「はい…そうしたいです」
それぐらいの価値(かち)はある。
なんたって、あの芳野祐介(よしのゆうすけ)が、俺(おれ)たちの暮(く)らしている町(まち)のことを歌(うた)うんだから。
渚(なぎさ)「あの、朋也(ともや)くん」
朋也(ともや)「あん?」
渚(なぎさ)「うれしかったですか」
朋也(ともや)「そりゃ、もちろん…」
朋也(ともや)「言(い)っておくけどな、俺(おれ)はファンなんだぞ」
渚(なぎさ)「わたしもです」
渚(なぎさ)「そして、もっとたくさんのファンが待(ま)っています」
朋也(ともや)「そうだな…」
朋也(ともや)「届(とど)くといいな」
渚(なぎさ)「はいっ」