仕方がない朋也(ともや)「仕方(しかた)がない…」
渚(なぎさ)「お願(ねが)いできますかっ」
朋也(ともや)「ああ…おまえの気持(きも)ちもわかるしな」
渚(なぎさ)「ありがとうございます」
大柄(おおがら)な男(おとこ)が、公園(こうえん)の鉄棒(てつぼう)にもたれて、タバコをふかしていた。
朋也(ともや)「あれ、オッサンじゃん」
渚(なぎさ)「はい、お父(とう)さんです」
朋也(ともや)「また、さぼってやがる」
俺(おれ)たちは公園(こうえん)に寄(よ)り道(みち)をすることになる。
朋也(ともや)「オッサンっ」
秋生(あきお)「おう」
秋生(あきお)「なんだ、てめぇらか」
渚(なぎさ)「お父(とう)さん、ただいまです」
秋生(あきお)「ああ、おかえり」
渚(なぎさ)「お父(とう)さん、これ、見(み)てください」
渚(なぎさ)「わたしが作(つく)ってきました。煮染(にしめ)めです。お父(とう)さん、食(た)べてくれますか」
秋生(あきお)「ああ、一気(いっき)食(く)いしてやるさ」
渚(なぎさ)「そんな食(た)べ方(かた)したらダメです。味(あじ)わって食(た)べてほしいです」
秋生(あきお)「ああ、任(まか)せておけ」
渚(なぎさ)「それとですね、とてもいいお話(はなし)があります」
秋生(あきお)「ほぅ、なんだ。おまえが家(いえ)に戻(もど)ってくるのか。そりゃ朗報(ろうほう)だ」
渚(なぎさ)「戻(もど)らないですっ、朋也(ともや)くんと一緒(いっしょ)に居(い)たいですっ」
秋生(あきお)「ちっ、わかってるよ、わざわざ口(くち)に出(だ)して一緒(いっしょ)に居(い)たいなんて言(い)うな。こいつがにやにやしてるだろっ」
渚(なぎさ)が俺(おれ)の顔(かお)を見(み)る。
渚(なぎさ)「別(べつ)に、にやにやしてないです」
秋生(あきお)「今(いま)、サッと真顔(まがお)に戻(もど)りやがった。こいつ、むっつりスケベだ」
渚(なぎさ)「むっつりってなんですか。わからないです」
秋生(あきお)「むちゃくちゃスケベなのに、普段(ふだん)は押(お)し隠(かく)してる奴(やつ)のことだよ」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん、そんなんじゃないです」
渚(なぎさ)「我慢(がまん)させてしまったりして…わたしのほうが申(もう)し訳(わけ)なく思(おも)っています」
…そんなこと、親(おや)の前(まえ)で言(い)うな。
いつものように本題(ほんだい)に入(い)るには、時間(じかん)がかかりそうだった。
古河(ふるかわ)パンの店先(みせさき)に視線(しせん)を移(うつ)すと、ちょうど早苗(さなえ)さんが出(で)てきて、俺(おれ)たちを見(み)つけたところだった。
俺(おれ)に笑(わら)いかけてから、近(ちか)づいてくる。
朋也(ともや)「ちっす」
早苗(さなえ)「こんにちは、朋也(ともや)さん」
渚(なぎさ)「あ、お母(かあ)さんです。ただいまです」
早苗(さなえ)「おかえりなさい」
早苗(さなえ)「秋生(あきお)さんっ」
渚(なぎさ)に笑顔(えがお)で挨拶(あいさつ)してから、オッサンを可愛(かわい)く睨(にら)みつけた。
秋生(あきお)「よぅ、早苗(さなえ)」
早苗(さなえ)「秋生(あきお)さん、ダメですよ」
早苗(さなえ)「いつだって秋生(あきお)さんは、すぐ居(い)なくなってしまうんですから」
やっぱりさぼっていたのだ。
秋生(あきお)「あ、ああ…」
秋生(あきお)「客(きゃく)も来(こ)なくて退屈(たいくつ)だったんだ、わりぃな」
朋也(ともや)(言(い)い訳(わけ)になってねぇよ…)
早苗(さなえ)「退屈(たいくつ)だったんですか…なら、仕方(しかた)がないですね」
朋也(ともや)(なってる!?)
秋生(あきお)「ああ、今度(こんど)からは退屈(たいくつ)しねぇように遊(あそ)ぶもの持(も)って、店番(みせばん)してるよ」
早苗(さなえ)「お願(ねが)いしますね」
ああ、俺(おれ)はこんな子供(こども)みたいな人(ひと)の代(か)わりに、休(やす)み返上(へんじょう)でパンを焼(や)かなければいけないのか…。
渚(なぎさ)「というわけで、朋也(ともや)くんがお父(とう)さんの代(か)わりに土曜(どよう)と日曜(にちよう)は、パンを焼(や)いてくれます」
秋生(あきお)「お、ラッキー。じゃ、俺(おれ)は昼(ひる)までゆっくり寝(ね)てるな」
渚(なぎさ)「違(ちが)いますっ、演劇(えんげき)、見(み)に行(い)ってきてくださいっ」
秋生(あきお)「演劇(えんげき)ぃ?」
渚(なぎさ)「そうです。お友達(ともだち)が、旗揚(はたあ)げ公演(こうえん)するから来(き)てくださいっ、て招待状(しょうたいじょう)届(とど)いてました」
秋生(あきお)「ちっ…んなこと、誰(だれ)から聞(き)いたんだよっ」
早苗(さなえ)「わたしですっ」
早苗(さなえ)さんは実(じつ)に正直者(しょうじきもの)だった。
朋也(ともや)「行(い)ってきてくれよ。パンはぜんぶ俺(おれ)が焼(や)くからさ」
秋生(あきお)「てめぇなっ…簡単(かんたん)に素人(しろうと)に任(まか)せられるような仕事(しごと)じゃねぇんだよっ!!」
朋也(ともや)「あんたさっき、お、ラッキー、とか言(い)ってたじゃないか」
秋生(あきお)「…うっせぇ、さっきのは冗談(じょうだん)だっ」
やっぱりだ…。
渚(なぎさ)の前(まえ)では、演劇(えんげき)のことにできるだけ触(ふ)れないようにしている。
渚(なぎさ)「お父(とう)さん、お願(ねが)いです、行(い)ってきてくださいっ」
早苗(さなえ)「秋生(あきお)さん、意地(いじ)を張(は)らないで行(い)ってきてください」
朋也(ともや)「そうだよ、行(い)ってこいよ」
秋生(あきお)「てめぇは、黙(だま)れ」
…なんで、俺(おれ)だけ。
渚(なぎさ)「お父(とう)さん、自然(しぜん)に振(ふ)る舞(ま)ってほしいです」
渚(なぎさ)「このことだけは、気(き)を使(つか)ってます」
渚(なぎさ)「…わたしに対(たい)して」
秋生(あきお)「………」
早苗(さなえ)「あの、わたし、お茶入(ちゃい)れてきますね」
早苗(さなえ)さんが席(せき)を立(た)つ。
朋也(ともや)「あ、俺(おれ)、トイレ借(か)りるっすね」
俺(おれ)もタイミングを合(あ)わせて、その場(ば)を立(た)ち去(さ)ることにする。
戻(もど)ってくると、早苗(さなえ)さんがお茶(ちゃ)をレジ台(だい)に並(なら)べているところだった。
早苗(さなえ)「朋也(ともや)さんも、どうぞ」
朋也(ともや)「あ、はい。いただきます」
オッサンは、渋(しぶ)い顔(かお)でタバコをふかしていた。
渚(なぎさ)「お父(とう)さん、早(はや)く言(い)ってください」
秋生(あきお)「ふぅーっ…」
一際(ひときわ)長(なが)く煙(けむり)を吐(は)き出(だ)した後(あと)…
秋生(あきお)「行(い)って参(まい)ります」
そう告(つ)げた。
早苗(さなえ)「そうですかっ、お店(みせ)のほうはわたしたちに任(まか)せておいてください」
秋生(あきお)「ああ…」
渚(なぎさ)「よかったですっ」
どんな説得(せっとく)をしたのかはしらないが、愛娘(まなむすめ)に諭(さと)されてはオッサンもむげに拒(こば)み続(つづ)けるわけにもいかなかったか。
一週間(いっしゅうかん)が経(た)ち、オッサンが発(た)つ土曜(どよう)の朝(あさ)を迎(むか)える。
秋生(あきお)「売(う)り物(もの)じゃなくするんじゃねぇぞ」
朋也(ともや)「ああ」
秋生(あきお)「後(あと)、怪我(けが)もすんな」
朋也(ともや)「ああ」
早苗(さなえ)「大丈夫(だいじょうぶ)ですよ、秋生(あきお)さんっ。わたしがついていますからっ」
秋生(あきお)「………」
秋生(あきお)「……」
秋生(あきお)「ああ…」
秋生(あきお)「…任(まか)せた」
早苗(さなえ)「はいっ」
任(まか)せるのにかなり時間(じかん)がかかった。
秋生(あきお)「じゃあ、いってくる」
早苗(さなえ)「はい、いってらっしゃい」
渚(なぎさ)「お父(とう)さん、いってらっしゃいです」
秋生(あきお)「………」
しばらく俺(おれ)たちの顔(かお)を見(み)ていたが、意(い)を決(けっ)したように目(め)を瞑(つぶ)ると、その場(ば)を立(た)ち去(さ)った。
渚(なぎさ)「それでは、時間(じかん)がないですので、早速(さっそく)とりかかりましょう」
早苗(さなえ)「そうですねっ」
それからは、休(やす)みなく三人(さんにん)でパンを焼(や)き続(つづ)けた。
開店時間(かいてんじかん)になると、渚(なぎさ)がひとりで店番(みせばん)に立(た)つ。
さらに早苗(さなえ)さんとふたりで、厨房(ちゅうぼう)で仕事(しごと)を続(つづ)ける。
早苗(さなえ)「ラストです」
朋也(ともや)「了解(りょうかい)」
最後(さいご)の陣(じん)を載(の)せた鉄板(てっぱん)をオーブンに押(お)し込(こ)む。
早苗(さなえ)「それでは、わたしも店(みせ)のほうに出(で)ますので、朋也(ともや)さんはしばらく休(やす)んでいてください」
朋也(ともや)「後(あと)で渚(なぎさ)と入(い)れ代(か)わりますね」
早苗(さなえ)「はい、お願(ねが)いしますね」
焼(や)き上(あ)がったパンを載(の)せたトレイを手(て)に、早苗(さなえ)さんが出(で)ていった。
朋也(ともや)(マジ疲(つか)れた…)
普段(ふだん)から肉体労働(にくたいろうどう)をしているのに、無様(ぶざま)なものだった。
初(はじ)めての作業(さぎょう)で、いつも以上(いじょう)に神経(しんけい)を使(つか)ったからだろうか。
朋也(ともや)(遠慮(えんりょ)なく休(やす)ませてもらおう…)
俺(おれ)も厨房(ちゅうぼう)を後(あと)に、居間(いま)へと居場所(いばしょ)を移(うつ)した。
エプロンを外(はず)し、横(よこ)になる。
………。
……。
…。
朋也(ともや)くん…
………。
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん」
呼(よ)ぶ声(こえ)に目覚(めざ)める。
朋也(ともや)「ああ…」
朋也(ともや)「どうした…」
渚(なぎさ)「わたし、そろそろ出(で)ますので、朋也(ともや)くん、後(あと)、お願(ねが)いします」
朋也(ともや)「ああ、もう、そんな時間(じかん)か…」
朋也(ともや)「おまえ、朝飯(あさめし)食(く)ったのか?」
渚(なぎさ)「時間(じかん)なかったです…」
朋也(ともや)「大丈夫(だいじょうぶ)か?」
渚(なぎさ)「はい、お昼(ひる)まで我慢(がまん)します」
朋也(ともや)「昼(ひる)はちゃんと、ゆっくり食(く)えよな」
渚(なぎさ)「はい、そうさせてもらいます」
渚(なぎさ)「それでは、いってきます」
忙(いそが)しく、出(で)ていった。
朋也(ともや)(俺(おれ)も、戻(もど)らないと…)
早苗(さなえ)「また来(き)てくださいね」
早苗(さなえ)さんが入(い)り口(ぐち)まで出(で)て、客(きゃく)を見送(みおく)っていた。
店内(てんない)に客(きゃく)の姿(すがた)はない。
ちょうど、客足(きゃくあし)が途切(とぎ)れたところのようだった。
早苗(さなえ)「あ、朋也(ともや)さん」
朋也(ともや)「今(いま)、渚(なぎさ)と代(か)わりました」
早苗(さなえ)「はい。お願(ねが)いしますね」
朋也(ともや)「でも、この時間(じかん)からだと、店番(みせばん)ひとりでいいかもしれないですね」
早苗(さなえ)「そうですね」
早苗(さなえ)「朋也(ともや)さん、休(やす)んでいてもらっても結構(けっこう)ですよ」
朋也(ともや)「いや、俺(おれ)じゃなくて、休(やす)むのは早苗(さなえ)さん」
朋也(ともや)「ずっと、朝早(あさはや)くから動(うご)きっぱなしだったでしょ」
早苗(さなえ)「わたしはぜんぜん平気(へいき)ですよ。お客(きゃく)さんとお話(はなし)できますし、楽(たの)しいです」
朋也(ともや)「そうですか…」
言(い)ってもきかないようだった。
朋也(ともや)「じゃ、俺(おれ)も仲間(なかま)に入(い)れてください」
早苗(さなえ)「入(はい)りたいですか?」
朋也(ともや)「入(はい)りたいですね」
早苗(さなえ)「じゃ、入(い)れちゃいますね」
朋也(ともや)「ありがとうございます」
そう言(い)ってから、ふたりで笑(わら)い合(あ)う。
朋也(ともや)「でも、ほんと、オッサンが羨(うらや)ましいっすよ」
朋也(ともや)「早苗(さなえ)さんと一緒(いっしょ)に働(はたら)けて」
早苗(さなえ)「そうですか?」
朋也(ともや)「こうして毎日(まいにち)笑(わら)い合(あ)えるんですからね」
早苗(さなえ)「朋也(ともや)さんの職場(しょくば)は、笑(わら)い合(あ)えないんですか?」
朋也(ともや)「そりゃたまに休憩中(きゅうけいちゅう)には笑(わら)うようなことはあるけど…」
朋也(ともや)「でも、仕事中(しごとちゅう)に歯(は)なんて見(み)せて笑(わら)ってたら、頭(あたま)どつかれますよ」
早苗(さなえ)「それは大変(たいへん)ですね」
朋也(ともや)「まぁ、普通(ふつう)男(おとこ)の仕事(しごと)って言(い)ったら、そんなもんでしょ」
早苗(さなえ)「秋生(あきお)さんは、毎日(まいにち)大笑(おおわら)いしてますよ」
朋也(ともや)「でしょうね…」
朋也(ともや)「そうやって、笑(わら)ってられるのも、全部(ぜんぶ)早苗(さなえ)さんのおかげだっていうのに」
早苗(さなえ)「いうのに、なんですか?」
朋也(ともや)「仕事(しごと)、さぼってばっか」
早苗(さなえ)「そうですね。いつもどこかに行(い)っちゃいますね」
朋也(ともや)「なんで、そんなことできるかね、あの人(ひと)は…」
朋也(ともや)「早苗(さなえ)さんに、全部(ぜんぶ)押(お)しつけてさ」
早苗(さなえ)「それほどわたしは気(き)にしてませんよ」
朋也(ともや)「だとしてもです」
朋也(ともや)「俺(おれ)だったら、ちゃんとそばに居(い)ますよ」
早苗(さなえ)「はい、ではそばに居(い)てくださいねっ」
朋也(ともや)「ええ、任(まか)せてくださいっ」
って…あれ?
なんか…
朋也(ともや)(告白(こくはく)してるみたいじゃんか、俺(おれ)っ!)
朋也(ともや)(しかも…)
──はい、ではそばに居(い)てくださいねっ。
朋也(ともや)(OKなんすか、早苗(さなえ)さんっ…)
早苗(さなえ)「……?」
朋也(ともや)(ああ、何(なに)考(かんが)えてんだ、俺(おれ)は…)
早苗(さなえ)「どうしましたか?」
でも、こうやって至近距離(しきんきょり)で見(み)つめられていると…。
朋也(ともや)「早苗(さなえ)さん…」
早苗(さなえ)「はいっ、なんでしょう」
朋也(ともや)「………」
ぐぅ~…。
早苗(さなえ)「そうですね、お腹空(なかす)きましたねっ」
早苗(さなえ)「それでは、お昼(ひる)ご飯(はん)の用意(ようい)をしてきますので、お店(みせ)のほう、お任(まか)せしてよろしいですか」
朋也(ともや)「え、ええ…」
早苗(さなえ)さんを見送(みおく)った後(あと)、俺(おれ)は深(ふか)く息(いき)をつく。
朋也(ともや)(ああ、俺(おれ)は早苗(さなえ)さんが好(す)きだよ)
朋也(ともや)(でも、それは家族(かぞく)としてだ)
朋也(ともや)(渚(なぎさ)に対(たい)する愛情(あいじょう)とは別(べつ)もんだ)
朋也(ともや)(ああ、そうだ…)
朋也(ともや)(そうに決(き)まってる…)
朋也(ともや)(当然(とうぜん)さ…)
朋也(ともや)(ははは…)
………。
……。
…。
早苗(さなえ)「どうぞ、召(め)し上(あ)がってくださいね」
朋也(ともや)「うわ…」
早苗(さなえ)「はい?
どうかしましたか?」
朋也(ともや)(いや、意外(いがい)っつーか…)
食卓(しょくたく)には、スパゲッティのナポリタンとレタスに添(そ)えられたポテトサラダ、そしてカットされたフランスパンが綺麗(きれい)に並(なら)べられていた。
朋也(ともや)「これ、早苗(さなえ)さんが、今作(こんさく)ったんですよね…」
早苗(さなえ)「はい、作(つく)りましたよ」
朋也(ともや)(パン以外(いがい)のものは普通(ふつう)に…いや、人並(ひとな)み以上(いじょう)に作(つく)れる人(ひと)なんだよなぁ…)
不思議(ふしぎ)に思(おも)うも、決(けっ)して口(くち)には出(だ)せない。
朋也(ともや)「丁寧(ていねい)っすね。すごくおいしそうです」
それだけを言(い)っておいた。
早苗(さなえ)「ありがとうございます」
事(こと)の流(なが)れとはいえ、早苗(さなえ)さんの手料理(てりょうり)をふたりで食(た)べて、午後(ごご)からもずっとふたりきり…。
しかも、客足(きゃくあし)は少(すく)ないから、ふたりで延々(えんえん)とお喋(しゃべ)り。
朋也(ともや)(この仕事(しごと)、受(う)けてよかったかも…)
子供(こども)「あれ?」
入(い)り口(ぐち)から、小学生(しょうがくせい)ぐらいの子供(こども)が、店内(てんない)を覗(のぞ)いていた。
早苗(さなえ)「どうしましたか?」
早苗(さなえ)さんが笑顔(えがお)で訊(き)く。
子供(こども)「秋生(あきお)さんいないの?」
早苗(さなえ)「はい、秋生(あきお)さんは出(で)かけていて、明日(あした)の夜(よる)まで帰(かえ)ってこないんですよ」
子供(こども)「えーっ、こんな大事(だいじ)な時(とき)にーっ」
早苗(さなえ)「野球(やきゅう)ですか?」
子供(こども)「うん、僕(ぼく)、リトルリーグの補欠(ほけつ)なんだけどさ…」
子供(こども)「秋生(あきお)さんが、レギュラーになるまで一緒(いっしょ)に練習(れんしゅう)してくれるって」
早苗(さなえ)「そうですか…」
早苗(さなえ)さんがこちらを向(む)く。
朋也(ともや)「え…まさか…」
早苗(さなえ)「お店(みせ)のほうはわたしひとりで大丈夫(だいじょうぶ)なので、練習(れんしゅう)に付(つ)き合(あ)ってあげてくれませんか?」
朋也(ともや)「いや、俺(おれ)、野球(やきゅう)、ぜんぜんできないんですけど」
早苗(さなえ)「大丈夫(だいじょうぶ)です」
朋也(ともや)「何(なに)が大丈夫(だいじょうぶ)なんですか?」
早苗(さなえ)さんは、そっと口(くち)を俺(おれ)の耳元(みみもと)に寄(よ)せてくる。
早苗(さなえ)「ひとりだと不安(ふあん)なんですよ」
早苗(さなえ)「それだけですから」
朋也(ともや)「マジっすか…」
早苗(さなえ)「はいっ」
すぐ子供(こども)のほうに笑顔(えがお)で向(む)き直(なお)る。
早苗(さなえ)「今日(きょう)と明日(あす)は、このお兄(にい)さんが代(か)わりに見(み)てくれます」
子供(こども)「えーっ」
俺(おれ)のほうが、不満(ふまん)を言(い)いたい。
早苗(さなえ)「このお兄(にい)さんは、朋也(ともや)さんといって、秋生(あきお)さんととても似(に)ていて、頼(たよ)りになりますよっ」
子供(こども)「うーん…」
子供(こども)「ま、いいか」
朋也(ともや)(ま、いいか、じゃねぇよ)
早苗(さなえ)「それでは、朋也(ともや)さん、よろしくお願(ねが)いしますね」
朋也(ともや)「………」
ここまで完璧(かんぺき)な笑顔(えがお)でよろしくされると、今更(いまさら)むげに断(ことわ)ることもできなかった。
子供(こども)「早(はや)くいこうよ、兄(あん)ちゃん」
ああ、俺(おれ)はこんな生意気(なまいき)なガキの面倒(めんどう)を見(み)なくてはならないのか…。
早苗(さなえ)さんとふたりきりで過(す)ごす時間(じかん)が…。
子供(こども)「ほらっ」
朋也(ともや)「ああ…わかったよっ」
後(うし)ろ髪(がみ)を引(ひ)かれる思(おも)いで、店(みせ)を後(あと)にする。
朋也(ともや)「腕立(うでだ)て、腹筋(ふっきん)、ヒンズースクワット20回(かい)、3セット」
子供(こども)「えーっ」
朋也(ともや)「筋(すじ)トレは、何(なに)やるにも基本(きほん)なんだよ。文句(もんく)言(い)わずに、やれ」
子供(こども)「本当(ほんとう)に秋生(あきお)さんみたい…」
子供(こども)「よいしょ…」
腰(こし)を下(お)ろし、腹筋(ふっきん)を始(はじ)める。
子供(こども)「いーち、にー、さーん、しー…」
その姿(すがた)を見守(みまも)りながら、考(かんが)える。
早苗(さなえ)さんや渚(なぎさ)にも言(い)われ続(つづ)けてきたことだが…
朋也(ともや)(俺(おれ)って、そんなに言動(げんどう)がオッサンに似(に)てるのか?)
こんな見知(みし)らぬ子供(こども)にまで言(い)われてしまうと、本当(ほんとう)にそうなのかと思(おも)えてくる。
朋也(ともや)(あんな人(ひと)に…?)
朋也(ともや)(あんな、ダメな大人(おとな)のトップランカーみたいな人(ひと)に?)
朋也(ともや)「ショックだ…」
うなだれる。
すると、そこへ…
声(こえ)「あっ、いたぞっ」
声(こえ)「おーい、みんな、集(あつ)まれ!」
複数(ふくすう)の子供(こども)の声(こえ)。
顔(かお)を上(あ)げると、公園(こうえん)の外(そと)から野球(やきゅう)のユニフォームを着(き)た子供(こども)たちが俺(おれ)のほうを見(み)ていた。
子供(こども)「ノックをお願(ねが)いしまーすっ!」
子供(こども)「お願(ねが)いしまーすっ!」
口々(くちぐち)に叫(さけ)びながら駆(か)けてくる。
子供(こども)「って、古河(ふるかわ)のオッサンじゃないーっ!」
ずざっーーーーっ!
目前(もくぜん)で急(きゅう)ブレーキ。
子供(こども)「エプロンなんてつけて、突(つ)っ立(た)ってるなよぉっ!」
一方的(いっぽうてき)にキレられる。
朋也(ともや)「うっせぇ、俺(おれ)の勝手(かって)だろっ!」
逆(ぎゃく)ギレで返(かえ)す。
子供(こども)「ひっ、口(くち)の悪(わる)さは古河(ふるかわ)のオッサン並(なみ)だっ」
朋也(ともや)「あんな人(ひと)と一緒(いっしょ)にするなっ」
子供(こども)「偽物(にせもの)かもっ」
朋也(ともや)「偽物(にせもの)も本物(ほんもの)もあるかっ、単(たん)なる別人(べつじん)だっ」
朋也(ともや)「とっとと散(ち)れっ」
地面(じめん)を蹴(け)って、土(つち)を飛(と)ばしてやる。
子供(こども)「うわぁーっ!」
蜘蛛(くも)の子(こ)を散(ち)らすように、走(はし)って逃(に)げていった。
朋也(ともや)「ふぅ…」
………。
朋也(ともや)(つーか…)
朋也(ともや)(一日(いちにち)いなくなっただけで、これなのかよ…)
朋也(ともや)(一体(いったい)どれだけのガキどもの相手(あいて)をしてんだよ、あの人(ひと)は…)
朋也(ともや)「ただいま戻(もど)りました」
早苗(さなえ)「おかえりなさい」
早苗(さなえ)「もう、渚(なぎさ)も戻(もど)ってきていますよ」
朋也(ともや)「なんか別(べつ)の匂(にお)いがすると思(おも)ったら、夕飯(ゆうはん)作(つく)ってるんすね」
早苗(さなえ)「ええ。渚(なぎさ)ひとりに任(まか)せておくのも悪(わる)いですので、手伝(てつだ)いにいきますね」
朋也(ともや)「俺(おれ)はどうすればいいっすか」
早苗(さなえ)「もう店(みせ)は閉(し)めますので、もしよろしければ、パンのお裾分(すそわ)けに回(まわ)ってもらえますか?」
朋也(ともや)「ああ、オッサンがいつもやってるやつっすね」
早苗(さなえ)「はい」
朋也(ともや)「いいっすよ。適当(てきとう)に袋(ふくろ)に詰(つ)めて、近所(きんじょ)、回(まわ)ってきます」
早苗(さなえ)「よろしくお願(ねが)いしますね」
袋詰(ふくろづ)めにしたパンを持(も)って、店(みせ)を出(で)る。
朋也(ともや)(まずは、この家(いえ)からだな…)
呼(よ)び鈴(りん)を押(お)した後(あと)、玄関(げんかん)のドアを少(すこ)し開(あ)けて、中(なか)に向(む)けて叫(さけ)ぶ。
朋也(ともや)「ちぃーっす、古河(ふるかわ)パンですけどぉー」
声(こえ)「はーい」
元気(げんき)のいい主婦(しゅふ)の声(こえ)が返(かえ)ってくる。
主婦(しゅふ)「はいはいはい…」
近(ちか)づいてくる。
主婦(しゅふ)「はい、どうぞー」
ドアを大(おお)きく開(あ)けて、中(なか)に入(はい)る。
主婦(しゅふ)「あら、お久(ひさ)しぶり。岡崎(おかざき)くんじゃない」
そこには古河(ふるかわ)パンでバイトしていた頃(ころ)に知(し)り合(あ)った常連客(じょうれんきゃく)の顔(かお)があった。
朋也(ともや)「どうも。この家(いえ)だったんすか。知(し)らなかったっす」
主婦(しゅふ)「こっちこそ、びっくりしましたよ」
主婦(しゅふ)「戻(もど)ってきてたんですか?
これからずっと?」
朋也(ともや)「いや、今日(きょう)と明日(あした)だけ」
朋也(ともや)「今(いま)、オッサンが家(いえ)にいないんで」
主婦(しゅふ)「あら、大変(たいへん)。どうしたの?」
朋也(ともや)「昔(むかし)の知(し)り合(あ)いが、新(あたら)しく劇団(げきだん)を旗揚(はたあ)げするってんで、九州(きゅうしゅう)のほうまで見(み)にいきました」
主婦(しゅふ)「へぇ…昔(むかし)は仕事(しごと)を休(やす)んで、そんなこと、絶対(ぜったい)できない人(ひと)だったのに」
主婦(しゅふ)「きっと、岡崎(おかざき)くんが居(い)てくれたからね」
朋也(ともや)「んなことないっすよ」
朋也(ともや)「それに苦労(くろう)したんすよ。行(い)ってくれるように説得(せっとく)するの」
主婦(しゅふ)「でしょうね」
朋也(ともや)「おかげでこっちは休日返上(きゅうじつへんじょう)で働(はたら)くことになっちまいましたけど」
主婦(しゅふ)「若(わか)いから、大丈夫(だいじょうぶ)」
朋也(ともや)「だといいですけどね」
朋也(ともや)「これ、いつものっす」
手(て)に持(も)っていたビニール袋(ふくろ)を手渡(てわた)す。
主婦(しゅふ)「いつも、ありがとね」
主婦(しゅふ)「秋生(あきお)さんには、よくしてもらってばかりで」
主婦(しゅふ)「先日(せんじつ)直(なお)してもらったお風呂(ふろ)も、壊(こわ)れる前(まえ)より調子(ちょうし)よくなって、すごく助(たす)かったのよ」
朋也(ともや)「お風呂(ふろ)?」
主婦(しゅふ)「ええ。ついこの間(あいだ)、お風呂(ふろ)が壊(こわ)れてね、銭湯(せんとう)にいこうと用意(ようい)してたら、秋生(あきお)さんがパンを配(くば)りにきて…」
主婦(しゅふ)「それでわけを話(はな)したら、見(み)せてみろって、上(あ)がり込(こ)んできちゃったの」
主婦(しゅふ)「明日(あした)には業者(ぎょうしゃ)に頼(たの)むからいいですよって言(い)ったんだけど、二時間(にじかん)ぐらいかけて服(ふく)を真(ま)っ黒(くろ)にして、直(なお)してくれたの」
朋也(ともや)「へぇ…」
主婦(しゅふ)「あの人(ひと)らしいでしょ?」
朋也(ともや)「ええ、まぁ…」
主婦(しゅふ)「ちょっと待(ま)っててね。その時(とき)のお礼(れい)もしたいから」
俺(おれ)を残(のこ)し、一度(いちど)廊下(ろうか)の奥(おく)に姿(すがた)を消(け)す。
そして、大(おお)きなダンボール箱(はこ)を抱(かか)えて戻(もど)ってきた。
主婦(しゅふ)「これ、ビールなんだけど、持(も)っていってもらえる?」
朋也(ともや)「ああ、はい。オッサン、喜(よろこ)びますよ」
朋也(ともや)「ただいま」
早苗(さなえ)「おかえりなさい」
渚(なぎさ)「おかえりなさいです」
渚(なぎさ)「ちょうど、できたところです」
部屋(へや)はカレーの匂(にお)いに満(み)ちていた。
渚(なぎさ)「今晩(こんばん)は、シーフードたっぷりのカレーです」
カレーは大好物(だいこうぶつ)だった。
俺(おれ)たちは久々(ひさびさ)にそのまま古河(ふるかわ)の家(いえ)に泊(と)まることになった。
早苗(さなえ)「今日(きょう)は、ふたりで客間(きゃくま)を使(つか)ってくださいね」
渚(なぎさ)の部屋(へや)は別(べつ)にあったが、早苗(さなえ)さんのその一言(いちげん)により、俺(おれ)と渚(なぎさ)は客間(きゃくま)に布団(ふとん)を敷(し)くことになった。
朋也(ともや)(ふたりで客間(きゃくま)を使(つか)ってくださいって言(い)い方(かた)…なんつーか…)
俺(おれ)は寝間着姿(ねまきすがた)の渚(なぎさ)を見(み)る。
朋也(ともや)(いやらしいよな…)
渚(なぎさ)「敷(し)けましたか、朋也(ともや)くん」
朋也(ともや)「あ、ああ、敷(し)けた」
渚(なぎさ)「ちょっと端(はし)、折(お)れちゃってます」
その部分(ぶぶん)を渚(なぎさ)が直(なお)してくれる。
朋也(ともや)「悪(わる)いな」
渚(なぎさ)「いいです。こういうのはわたしの役目(やくめ)です」
朋也(ともや)「えっと…何(なに)が?」
渚(なぎさ)「その…朋也(ともや)くんのお世話(せわ)をすることです」
朋也(ともや)「俺(おれ)、だらしないから、大変(たいへん)だな…」
渚(なぎさ)「そんなことないです。どちらかというと、うれしいです」
朋也(ともや)「そっか…」
渚(なぎさ)「はいっ」
………。
どうしてか、ずっと、オッサンのことばかり考(かんが)えてしまっていた。
眠(ねむ)れず、寝返(ねがえ)りを打(う)つ。
すぐ正面(しょうめん)に渚(なぎさ)の顔(かお)があった。
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん、眠(ねむ)れないですか」
朋也(ともや)「いや…そのうち眠(ねむ)れると思(おも)うけど…」
渚(なぎさ)「何(なに)考(かんが)えてますか」
朋也(ともや)「………」
オッサンのこと
朋也(ともや)「オッサンのこと」
渚(なぎさ)「お父(とう)さんのことですか」
朋也(ともや)「ああ…」
朋也(ともや)「オッサンはさ…好(す)き勝手(かって)に遊(あそ)び回(まわ)ってる気(き)がしてたけど…」
朋也(ともや)「でも、それは自分(じぶん)だけのためじゃないって、ちょっとわかったよ」
渚(なぎさ)「誰(だれ)のためでしたか?」
朋也(ともや)「いや、誰(だれ)のためでもないんだろうけど…」
朋也(ともや)「本人(ほんにん)は結局(けっきょく)、したいようにしてるだけなんだろうけど…」
朋也(ともや)「それでも、いろんな人(ひと)に必要(ひつよう)とされてた」
俺(おれ)は、あんなふうに振(ふ)る舞(ま)えただろうか。
近所(きんじょ)のガキがレギュラーを目指(めざ)す、それを手伝(てつだ)えただろうか?
野球(やきゅう)のノックをしてやれただろうか?
それは子供(こども)が好(す)きなら、できたかもしれない。
なら、人(ひと)の家(いえ)の風呂釜(ふろかま)を頼(たの)まれもしないのに直(なお)す気(き)になれるだろうか…。
そんな面倒(めんどう)を、退屈(たいくつ)しのぎにできるだろうか。
俺(おれ)ならできない。
渚(なぎさ)「お父(とう)さんは、みんなの笑顔(えがお)が見(み)たいんです」
渚(なぎさ)「きっとそれだけです」
それはいつしか俺(おれ)があの人(ひと)の隣(となり)に立(た)って、感(かん)じたことだった。
みんなを笑(わら)わせている姿(すがた)を見(み)て。
ああ…なんか癪(しゃく)だ。
でも…
早苗(さなえ)さんは不安(ふあん)なんじゃないだろうか。
いつだって、そんなふうに…
誰(だれ)かを笑(わら)わせるために、すぐいなくなってしまうような人(ひと)が、旦那(だんな)で。
早苗(さなえ)『秋生(あきお)さんっ』
早苗(さなえ)『秋生(あきお)さん、ダメですよ』
早苗(さなえ)『いつだって秋生(あきお)さんは、すぐ居(い)なくなってしまうんですから』
あの早苗(さなえ)さんの…ちょっと困(こま)ったような表情(ひょうじょう)が、思(おも)い出(だ)された。
少(すこ)し…可哀想(かわいそう)な気(き)がした。
………。
渚(なぎさ)「…もう寝(ね)ますか」
俺(おれ)が黙(だま)り込(こ)んでしまったためだろう、そう訊(き)いてきた。
朋也(ともや)「そうだな…明日(あした)も早(はや)いし」
渚(なぎさ)「はい。わかりました」
渚(なぎさ)「おやすみなさいです」
朋也(ともや)「ああ、おやすみ…」
………。
……。
…。
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん、朝(あさ)です」
渚(なぎさ)「そろそろ起(お)きて、パンを焼(や)きましょう」
朋也(ともや)「……ん」
目(め)を開(あ)けると、すぐ鼻(はな)の先(さき)に渚(なぎさ)の顔(かお)。
渚(なぎさ)「起(お)きました。おはようございます」
抱きしめる
離(はな)れていこうとしたその頭(あたま)をすかさず抱(だ)きしめる。
渚(なぎさ)「わっ…なんですか」
ぐっと抱(だ)き寄(よ)せる。
朋也(ともや)「渚(なぎさ)…」
渚(なぎさ)「はい」
ぐりぐりと鼻(はな)を渚(なぎさ)の首筋(くびすじ)に押(お)しつけた。
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん、寝(ね)ぼけてます」
朋也(ともや)「寝(ね)ぼけてない。好(す)きな人(ひと)を抱(だ)きしめたくなるのは当然(とうぜん)だ」
ぐりぐり。
朋也(ともや)「それとも嫌(きら)か?」
渚(なぎさ)「そんなこと訊(き)かないでほしいです」
渚(なぎさ)「嫌(いや)なわけないです」
とんとん。
朋也(ともや)「………」
朋也(ともや)「え?
なんの音(おと)?」
がらっ。
早苗(さなえ)「おふたりさん、おはようございまーす」
ばばっ!
とっさに渚(なぎさ)の腕(うで)を離(はな)す俺(おれ)。飛(と)び上(あ)がるようにして、枕元(まくらもと)に座(すわ)り直(なお)す渚(なぎさ)。
早苗(さなえ)「………」
渚(なぎさ)「おはようございます、お母(かあ)さん…えへへ」
朋也(ともや)「おはようっす…」
早苗(さなえ)「お邪魔(じゃま)だったみたいですねっ」
朋也(ともや)「いえ、ぜんぜんっ」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん、寝(ね)ぼけてたんですっ」
早苗(さなえ)「もう少(すこ)しゆっくりしてもらっていていいですから、支度(したく)ができたら、お店(みせ)のほうお願(ねが)いしますね」
朋也(ともや)「いや、今(いま)からすぐ行(い)くっす」
渚(なぎさ)「はい、そうですっ」
笑顔(えがお)だけで応(こた)えて、早苗(さなえ)さんはドアを閉(し)めた。
朋也(ともや)「………」
渚(なぎさ)「…お母(かあ)さんに見(み)られてしまいました」
朋也(ともや)「思(おも)いっきり見(み)られました」
渚(なぎさ)「とても恥(は)ずかしかったです」
朋也(ともや)「ああ…忘(わす)れてた、ここ、おまえの実家(じっか)だったって…」
渚(なぎさ)「やっぱり朋也(ともや)くん、寝(ね)ぼけてましたっ」
朋也(ともや)「寝(ね)ぼけてたっつーか…忘(わす)れてだけじゃないか」
渚(なぎさ)「一緒(いっしょ)だと思(おも)います」
朋也(ともや)「同(おな)じじゃねっつーの。さ、早(はや)く着替(きが)えて行(い)くぜ」
渚(なぎさ)「はい」
朋也(ともや)「じゃ、やるかっ」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん、がんばってください」
オーブンの前(まえ)で、汗(あせ)をかきながらパンを焼(や)き続(つづ)けた。
………。
早苗(さなえ)「本日(ほんじつ)の分(ぶん)はこれで終(お)わりです」
早苗(さなえ)「お疲(つか)れさまでした」
朋也(ともや)「ふぅ…」
早苗(さなえ)「今日(きょう)は渚(なぎさ)も居(い)てくれますし、朋也(ともや)さんはゆっくり休(やす)んでいてください」
朋也(ともや)「いや、このまま渚(なぎさ)を手伝(てつだ)いますよ」
早苗(さなえ)「いえ、わたしがいれば、人手(ひとで)は足(た)りますので」
朋也(ともや)「多(おお)くてもいいじゃないですか。みんなでやったほうが楽(たの)しいでしょう?」
早苗(さなえ)「え?」
早苗(さなえ)「あ、はいっ、そうですねっ」
それからは店(みせ)のほうに出(で)て、パンを売(う)る手伝(てつだ)いをする。
レジひとつに対(たい)し店員(てんいん)が三人(さんにん)では、どう考(かんが)えても非効率(ひこうりつ)だったけど、誰(だれ)もそのことについては触(ふ)れず、笑顔(えがお)で接客(せっきゃく)を続(つづ)けた。
早苗(さなえ)「そろそろお昼(ひる)ご飯(はん)の支度(したく)をしてこようと思(おも)いますので、しばらくお任(まか)せしますね」
渚(なぎさ)「あ、手伝(てつだ)います」
早苗(さなえ)「いえ、もう客足(きゃくあし)もそうないですし、ふたりでお話(はなし)でもして、待(ま)っていてください」
そう言(い)って、早苗(さなえ)さんは家(いえ)の中(なか)に上(あ)がっていった。
朋也(ともや)「そうしてようぜ」
俺(おれ)も、渚(なぎさ)の肩(かた)を掴(つか)んで引(ひ)き留(と)める。
渚(なぎさ)「あ、はい」
渚(なぎさ)「では、どんなお話(はなし)をしていましょう」
朋也(ともや)「いや、そんな改(あらた)まって訊(き)かれてもな…」
渚(なぎさ)「なんでもいいです」
朋也(ともや)「じゃ…」
朋也(ともや)「おまえの初恋(はつこい)の話(はなし)」
渚(なぎさ)「え…そんな話(はなし)聞(き)きたいですか」
朋也(ともや)「ああ、聞(き)きたいね」
渚(なぎさ)「わたしの初恋(はつこい)は…朋也(ともや)くんです」
朋也(ともや)「遅(おそ)ぇ…」
渚(なぎさ)「遅(おそ)いですか。でも、本当(ほんとう)です」
渚(なぎさ)「そういうこと奥手(おくて)だったんです」
渚(なぎさ)「ですので、朋也(ともや)くんから、告白(こくはく)してもらえてよかったです」
渚(なぎさ)「でないと、ずっと、何(なに)も言(い)えなかったです、わたし」
朋也(ともや)「そっか…」
朋也(ともや)「初恋(はつこい)、実(みの)ってよかったな」
渚(なぎさ)「はいっ、よかったです」
朋也(ともや)「なかなか初恋(はつこい)って実(みの)らないんだぞ」
渚(なぎさ)「ありがとうございます」
朋也(ともや)「いや、俺(おれ)のおかげじゃないし…」
朋也(ともや)「それに、俺(おれ)も、おまえと出会(であ)うまでに、おまえと別(べつ)の男(おとこ)が付(つ)き合(あ)ってなくてよかったよ」
朋也(ともや)「おまえ、断(ことわ)ると悪(わる)いからって、誰(だれ)とでも付(つ)き合(あ)いそうじゃんか」
渚(なぎさ)「そんなことないですっ」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くんだけですっ」
渚(なぎさ)「他(ほか)の人(ひと)に告白(こくはく)されても付(つ)き合(あ)ったりしてなかったです」
渚(なぎさ)「他(ほか)の人(ひと)には告白(こくはく)されなかったですけど…」
朋也(ともや)「そっか…」
渚(なぎさ)「はい」
ちゃんと毎日(まいにち)学校(がっこう)に来(く)れるような体(からだ)だったら、そんなことはなかったと思(おも)う。
俺(おれ)は思(おも)い浮(う)かべてみた。渚(なぎさ)を好(す)きになるような男(おとこ)を。
それはきっと、目立(めだ)つような奴(やつ)じゃなく、やはり渚(なぎさ)と同(おな)じように奥手(おくて)で、ちょっと気弱(きよわ)な奴(やつ)なんじゃないかと思(おも)う。
初(はじ)めて見(み)た時(とき)から好(す)きになって、でも、なかなか話(はな)しかけることもできずに…
卒業式(そつぎょうしき)の日(ひ)、明日(あした)からもう会(あ)えなくなる、という日(ひ)にようやく勇気(ゆうき)を振(ふ)り絞(しぼ)って、告白(こくはく)するような…。
それは、端(はし)から見(み)るとなんてお似合(にあ)いなふたりだろう。
朋也(ともや)(ああ、それって…)
朋也(ともや)(俺(おれ)とまったく逆(ぎゃく)だ…)
そう考(かんが)えると、すごく滑稽(こっけい)だ。俺(おれ)たちふたりの組(く)み合(あ)わせは。
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くんの初恋(はつこい)はどんな人(ひと)でしたか」
朋也(ともや)「え?
俺(おれ)?」
渚(なぎさ)「はい。ぜひ聞(き)きたいです」
朋也(ともや)「いや、ありきたりだよ。小学一年(しょうがくいちねん)の時(とき)の担任(たんにん)の先生(せんせい)かな」
朋也(ともや)「同級生(どうきゅうせい)ってよりも、いつも年上(としうえ)の女(おんな)の人(ひと)に憧(あこが)れてたよ」
渚(なぎさ)「あ、そうですか…」
渚(なぎさ)「…希望(きぼう)に添(そ)えてなによりです」
朋也(ともや)「え?」
渚(なぎさ)「あ、いえ、なんでもないですっ」
早苗(さなえ)さんお手製(てせい)の昼飯(ひるめし)を食(た)べ(今日(きょう)はエビドリアだった)、また三人(さんにん)で店番(みせばん)に立(た)つ。
午後(ごご)の店内(てんない)は朝(あさ)の混雑(こんざつ)が嘘(うそ)のように、閑散(かんさん)としていた。
早苗(さなえ)「今日(きょう)も来(き)ますでしょうか」
朋也(ともや)「さぁ、どうでしょう」
渚(なぎさ)「え、何(なに)がですか?」
朋也(ともや)「ガキ」
渚(なぎさ)「子供(こども)ですか?」
朋也(ともや)「ああ。昨日(きのう)、俺(おれ)が野球(やきゅう)の練習(れんしゅう)見(み)てやったんだ」
渚(なぎさ)「お父(とう)さんみたいです」
朋也(ともや)「いや、ぜんぜん違(ちが)ったよ、きっと」
渚(なぎさ)「そうでしょうか。そっくりだったと思(おも)います」
朋也(ともや)「似(に)てても違(ちが)うんだよ、中身(なかみ)が」
俺(おれ)たちは、雑談(ざつだん)を続(つづ)けた。
人(ひと)の気配(けはい)がして、俺(おれ)は誰(だれ)よりも早(はや)く振(ふ)り返(かえ)る。
入(い)り口(ぐち)から、昨日(きのう)の子供(こども)が顔(かお)だけを覗(のぞ)かせていた。
来(き)てくれた。
正直(しょうじき)、嬉(うれ)しかった。
早苗(さなえ)「朋也(ともや)さん、頑張(がんば)ってきてくださいね」
早苗(さなえ)さんが、そう俺(おれ)を後押(あとお)しした。
渚(なぎさ)「こんにちはっ」
子供(こども)「………」
渚(なぎさ)の挨拶(あいさつ)にも子供(こども)は黙(だま)ったままでいた。
俺(おれ)とも目(め)を合(あ)わせようとしない。
朋也(ともや)(俺(おれ)に、遠慮(えんりょ)させる何(なに)かがあったんだろうな…)
やはり、人付(ひとづ)き合(あ)いは苦手(にがて)だ。それが子供(こども)とくれば、なおさらだ。
やっぱり似(に)ていても中身(なかみ)が違(ちが)うんだ。それを実感(じっかん)した。
子供(こども)は、ただオッサンが戻(もど)ってきているか、確(たし)かめにきただけなのかもしれない。
いないと言(い)えば、すぐにも立(た)ち去(さ)るかもしれない。
もう、俺(おれ)にはどうしようもないんだろうか。
こんな時(とき)、オッサンなら、どうするんだろう…。
………。
ああ、そうか、と、俺(おれ)は思(おも)った。
どう行動(こうどう)するかなんて、あの人(ひと)はいちいち考(かんが)えちゃいないんだよな。
答(こた)えは簡単(かんたん)だった。
朋也(ともや)「よし、今日(きょう)は勝負(しょうぶ)だ」
俺(おれ)は子供(こども)に向(む)けて言(い)った。
子供(こども)「…え?」
朋也(ともや)「ホームラン競争(きょうそう)がいいかな」
朋也(ともや)「負(ま)けたほうが、ジュースおごりな」
子供(こども)「えーっ!
絶対(ぜったい)負(ま)けるって!」
朋也(ともや)「安心(あんしん)しろ。バットを握(にぎ)るのは久々(ひさびさ)だ」
子供(こども)「同(おな)じだって!」
朋也(ともや)「じゃ、渚(なぎさ)、行(い)ってくるな」
渚(なぎさ)「はいっ」
朋也(ともや)「言(い)っておくがな…」
朋也(ともや)「俺(おれ)は、あのオッサンの剛速球(ごうそっきゅう)をもホームランにした男(おとこ)だぞ」
子供(こども)「秋生(あきお)さんが本気(ほんき)で投(な)げたボール?」
朋也(ともや)「当然(とうぜん)」
子供(こども)「それって、大(だい)リーガー並(な)みってことじゃんっ」
朋也(ともや)「ああ、そうだ。だから、本気(ほんき)でこいよ」
子供(こども)「本気(ほんき)でも無理(むり)だって」
カキィーーーンッ!
子供(こども)「うわーーっ、ようしゃナシだぁーーっ!」
朋也(ともや)「うわっはっはっはっ!」
カキィーーーンッ!
子供(こども)「よっし!
ホームラン!」
朋也(ともや)「ぐあ…小学生(しょうがくせい)に打(う)たれた…」
…投(な)げるのは相変(あいか)わらず苦手(にがて)だった。
子供(こども)「ねぇ、お兄(あん)ちゃん」
子供(こども)「いっぱい、見(み)てるんだけど」
朋也(ともや)「あん?」
振(ふ)り返(かえ)ると、その先(さき)にたくさんの子供(こども)たちが集(あつ)まっていて、俺(おれ)たちのほうを見(み)ていた。
朋也(ともや)(ああ…すげぇ…)
朋也(ともや)(これだけのことで変(か)わるのか…)
自分(じぶん)も一緒(いっしょ)に楽(たの)しもうとするだけで。
朋也(ともや)「仕方(しかた)がないな…混(ま)ぜてやるか」
朋也(ともや)「いいよな?」
子供(こども)「今日(きょう)だけね」
見(み)たことのない世界(せかい)が見(み)えた気(き)がした。
朋也(ともや)「ただいまっす」
家(いえ)に戻(もど)ってくると、店番(みせばん)は早苗(さなえ)さんひとりで、渚(なぎさ)の姿(すがた)はなかった。
早苗(さなえ)「おかえりさない。野球教室(やきゅうきょうしつ)は大好評(だいこうひょう)でしたね」
朋也(ともや)「見(み)てましたか」
早苗(さなえ)「ちょっとだけ覗(のぞ)かせていただきました」
早苗(さなえ)「本当(ほんとう)に、秋生(あきお)さんのようでしたよ」
朋也(ともや)「はは…」
朋也(ともや)「それ、褒(ほ)め言葉(ことば)なのか、どうなのかよくわかんないっすね」
早苗(さなえ)「もちろん褒(ほ)めたつもりですよ」
早苗(さなえ)「わたしは秋生(あきお)さんのそういうところ、大好(だいす)きですから」
朋也(ともや)「そうっすか…」
未(いま)だに素直(すなお)には、喜(よろこ)べない。
でも今(いま)はもう、悪(わる)い気(き)はしなかった。
朋也(ともや)「渚(なぎさ)の奴(やつ)は?」
早苗(さなえ)「居間(いま)でテレビを見(み)ていると思(おも)いますよ」
朋也(ともや)「くわ…いくら暇(ひま)だからって、何(なに)やってんだよ」
早苗(さなえ)「いえ、暇(ひま)だからというわけではなくて、なにやら大(おお)きな事件(じけん)が起(お)きたみたいなので、見(み)ているんですよ」
朋也(ともや)「事件(じけん)?
ニュース番組(ばんぐみ)?」
早苗(さなえ)「渚(なぎさ)に訊(き)いてみてください」
朋也(ともや)「そうっすね…じゃ、ちょっと行(い)ってきます」
居間(いま)に入(はい)ると、渚(なぎさ)はテレビのすぐ正面(しょうめん)の床(ゆか)に座(すわ)ってブラウン管(かん)の光(ひかり)を顔(かお)に受(う)けていた。
朋也(ともや)「どうした、電気(でんき)もつけないで」
渚(なぎさ)「………」
朋也(ともや)「おまえ、夢中(むちゅう)になりすぎだぞ」
明(あ)かりをつけて、渚(なぎさ)のそばまで寄(よ)っていった。
朋也(ともや)「渚(なぎさ)」
その頬(ほお)を指(ゆび)で押(お)してみる。
渚(なぎさ)「わ…はいっ?」
ようやく俺(おれ)に気(き)づいて、こっちを向(む)いた。
朋也(ともや)「どうしたんだ、そんな夢中(むちゅう)になって」
ふたりでブラウン管(かん)に目(め)を移(うつ)す。
暴走(ぼうそう)する車(くるま)を上空(じょうくう)から追(お)っかけているような映像(えいぞう)が映(うつ)し出(だ)されていた。
よく海外(かいがい)の事件(じけん)を集(あつ)めた特番(とくばん)なんかで見(み)る光景(こうけい)だ。
渚(なぎさ)「バスがハイジャックされたそうです」
朋也(ともや)「へぇ、そりゃ難儀(なんぎ)だな」
渚(なぎさ)「高速(こうそく)バスです」
朋也(ともや)「ああ」
渚(なぎさ)「九州(きゅうしゅう)です」
朋也(ともや)「ああ」
渚(なぎさ)「なにか、胸騒(むなさわ)ぎがしませんか」
朋也(ともや)「いや、俺(おれ)はしないけど」
渚(なぎさ)「よく考(かんが)えてみてください」
朋也(ともや)「おまえ、まさか…」
渚(なぎさ)「はい、お父(とう)さんが乗(の)ってるかもしれないです」
朋也(ともや)「んな偶然(ぐうぜん)ないって」
渚(なぎさ)「そんなこと言(い)いきれないです」
朋也(ともや)「そりゃ…言(い)いきれはしないけど…」
渚(なぎさ)「………」
朋也(ともや)「早苗(さなえ)さんは、まだ知(し)らないのか?」
渚(なぎさ)「はい…詳(くわ)しい話(はなし)はまだしてないです」
朋也(ともや)「そっか…」
朋也(ともや)「早苗(さなえ)さんを心配(しんぱい)させないように、代(か)わりにおまえがずっとひとりで見(み)てたんだな」
渚(なぎさ)「はい…」
俺(おれ)は渚(なぎさ)の頭(あたま)に手(て)を置(お)く。そして、髪(かみ)をゆっくりと撫(な)でてやった。
テレビのスピーカーからは、小(ちい)さな音量(おんりょう)で、緊急事態(きんきゅうじたい)を報(しら)せるアナウンサーの声(こえ)。
バスは、サービスエリアへと入(はい)り、停車(ていしゃ)した。
画面(がめん)の端(はし)から、白衣(はくい)を着(き)た看護婦(かんごふ)が数名(すうめい)、駆(か)けつける。
バスの前(まえ)のドアが開(ひら)いた。
…目(め)を見張(みは)る。
中(なか)から、年寄(としよ)りが降(お)りてきた。
その場(ば)で、乗客(じょうきゃく)のうちの何名(なんめい)かが、降車(こうしゃ)した。
すべて年寄(としよ)り、子供(こども)、女性(じょせい)だった。
バスのドアが閉(し)まる。
そして、また走(はし)り出(だ)す。
ふぅ…と耳元(みみもと)で渚(なぎさ)の息(いき)をつく音(おと)。
いつの間(ま)にか、俺(おれ)は渚(なぎさ)の肩(かた)を抱(だ)きしめていた。
そんな偶然(ぐうぜん)、ありえないと頭(あたま)では思(おも)っていた。
でも、どうしてだろう。
渚(なぎさ)の心配(しんぱい)が俺(おれ)にも移(うつ)ってしまったのだろうか。
どうしてか…『そこ』にいる気(き)がしてならなかった。
電話(でんわ)が突然(とつぜん)鳴(な)り出(だ)して、俺(おれ)と渚(なぎさ)ははっと顔(かお)を見合(みあ)わせる。
渚(なぎさ)「わたし、出(で)ます」
渚(なぎさ)が立(た)ち上(あ)がり、居間(いま)の電話(でんわ)を取(と)った。
渚(なぎさ)「はい、古河(ふるかわ)です」
渚(なぎさ)「あ、はい…代(か)わります」
渚(なぎさ)「………」
渚(なぎさ)が電話口(でんわぐち)を手(て)で押(お)さえたまま、俯(うつむ)いた。
渚(なぎさ)「お母(かあ)さんにです…」
朋也(ともや)「ああ、じゃ、呼(よ)んでくるよ」
朋也(ともや)「テレビ消(け)しておいたほうがいいよな」
渚(なぎさ)「はい…お願(ねが)いします」
俺(おれ)は立(た)ち上(あ)がって、テレビを消(け)した後(あと)、早苗(さなえ)さんを呼(よ)びに部屋(へや)を出(で)た。
朋也(ともや)「早苗(さなえ)さん、電話(でんわ)ですよ」
早苗(さなえ)「あ、はい。ありがとうございます。すぐ行(い)きますね」
早苗(さなえ)「はい…はい」
早苗(さなえ)さんが電話(でんわ)で話(はなし)をしている間(あいだ)、渚(なぎさ)は俺(おれ)の服(ふく)の裾(すそ)を握(にぎ)って離(はな)さなかった。
朋也(ともや)「相手(あいて)って、誰(だれ)だったんだ?」
渚(なぎさ)「…お父(とう)さんのお知(し)り合(あ)いです」
渚(なぎさ)「見(み)に行(い)っていた劇団(げきだん)の方(かた)です」
朋也(ともや)「ああ…」
そういうことか…。
早苗(さなえ)「…ありがとうございました」
受話器(じゅわき)が置(お)かれた。
早苗(さなえ)「渚(なぎさ)」
早苗(さなえ)さんが渚(なぎさ)の名(な)を呼(よ)んだ。
早苗(さなえ)「テレビ付(つ)けてくれますか」
渚(なぎさ)「えっと…何(なに)か見(み)ますか」
早苗(さなえ)「ニュースです」
渚(なぎさ)「………」
早苗(さなえ)「お願(ねが)いできますか」
渚(なぎさ)「はい…」
渚(なぎさ)がリモコンを手(て)にとって、スイッチを入(い)れた。
映像(えいぞう)よりも早(はや)く、追跡(ついせき)を続(つづ)けるアナウンサーの切迫(せっぱく)した実況(じっきょう)。
渚(なぎさ)「どのチャンネルですか」
早苗(さなえ)「そこでいいですよ」
早苗(さなえ)「………」
早苗(さなえ)さんはじっと、浮(う)かび上(あ)がってきた映像(えいぞう)を見(み)ていた。
俺(おれ)たちも、息(いき)を呑(の)んで、同(おな)じように見(み)ていた。
早苗(さなえ)「渚(なぎさ)は、知(し)ってたんですね」
渚(なぎさ)「え…何(なに)がでしょうか」
早苗(さなえ)「秋生(あきお)さんが乗(の)ってるかもしれないって」
渚(なぎさ)「………」
朋也(ともや)「乗(の)ってるんすか、オッサン…」
渚(なぎさ)の代(か)わりに俺(おれ)が訊(き)いた。
早苗(さなえ)「今(いま)の電話(でんわ)は、秋生(あきお)さんを見送(みおく)ってくれた方(かた)からだったんですけど…」
早苗(さなえ)「そのバスかもしれないと、言(い)っていました」
朋也(ともや)「そうですか…」
渚(なぎさ)「………」
朋也(ともや)「あの、渚(なぎさ)は…」
朋也(ともや)「思(おも)い過(す)ごしで、早苗(さなえ)さんに無駄(むだ)な心配(しんぱい)かけないように、ひとりで見(み)てたんです」
早苗(さなえ)「そうだったんですか」
早苗(さなえ)「渚(なぎさ)、ありがとうございますね」
渚(なぎさ)「いえ…」
早苗(さなえ)「朋也(ともや)さんも」
朋也(ともや)「俺(おれ)、なんもしてないっす」
三人(さんにん)で、ヘリから送(おく)られてくる映像(えいぞう)を見(み)続(つづ)けた。
すでに降車(こうしゃ)している人(ひと)の証言(しょうげん)から、新(あたら)しい情報(じょうほう)が次々(つぎつぎ)と入(はい)ってくる。
犯人(はんにん)は、ひとりの少年(しょうねん)だということだった。
刃物(はもの)で脅(おど)して、バスを走(はし)らせているという。
そして、ひとりの男性(だんせい)が、その刃物(はもの)で刺(さ)され、怪我(けが)を負(お)っている。
執拗(しつよう)な説得(せっとく)に当(あ)たったからだということだ。
…秋生(あきお)さんだ。
その場(ば)にいた誰(だれ)もが思(おも)ったことだろう。
あの人(ひと)がじっとしているわけがない。
その正義感(せいぎかん)が仇(あだ)となった。
犯人(はんにん)は看護班(かんごはん)の乗車(じょうしゃ)も拒否(きょひ)しているらしい。
どれだけの怪我(けが)だろう。
脅(おど)し程度(ていど)に切(き)りつけられたなら、いい。
けど、本気(ほんき)で刺(さ)されていて、血(ち)が止(と)めどなく流(なが)れ続(つづ)けていたら…。
時間(じかん)と共(とも)に…。
ああ、悪(わる)い想像(そうぞう)ばかりしてしまう。
それは、早苗(さなえ)さんも同(おな)じだろう。
祈(いの)るように手(て)を握(にぎ)り合(あ)わせて、ブラウン管(かん)を見(み)つめていた。
またサービスエリアに止(と)まり、乗客(じょうきゃく)を降車(こうしゃ)させた。
小(ちい)さくてよくわからない。
結構(けっこう)な人数(にんずう)だ。
今度(こんど)は若(わか)い男(おとこ)も、混(ま)じっていた。
見慣(みな)れた、あのオッサンは…。
タバコをくわえて、いつも何(なに)かに文句(もんく)言(い)いたげに構(かま)えている人(ひと)の姿(すがた)は…。
…見(み)つけられない。
ドアが閉(し)まる。
またバスは動(うご)き出(だ)した。
そこからは、また同(おな)じ光景(こうけい)が続(つづ)いていく。
今(いま)ので降(お)りていたなら、すぐにも無事(ぶじ)を知(し)らせる電話(でんわ)があるはずだ。
けど…それもなかった。
また、降車(こうしゃ)した人(ひと)たちからの新(あたら)しい情報(じょうほう)。
すでにバス内(うち)は、犯人(はんにん)と運転手(うんてんしゅ)と怪我(けが)を負(お)っている男性(だんせい)の三人(さんにん)だけ。
怪我(けが)を負(お)っている男性(だんせい)は、説得(せっとく)の時(とき)に、腹部(ふくぶ)を刺(さ)されたとのこと。
それも避(さ)けようともせず、刺(さ)された後(うしろ)も額(ひたい)に汗(あせ)をかきながら笑顔(えがお)で説得(せっとく)し続(つづ)けたという。
朋也(ともや)(ああ…オッサンがやりそうなことだ…)
男性(だんせい)の説得(せっとく)により、すべての乗客(じょうきゃく)を降車(こうしゃ)させることができた。
その代(か)わりに、運転手(うんてんしゅ)と共(とも)に残(のこ)ることになった。
大怪我(おおけが)を負(お)ったままで。
事細(ことこま)かに伝(つた)えられていく状況(じょうきょう)を、俺(おれ)たちはを目(め)を閉(と)じて聞(き)いていた。
そして、次(つぎ)のサービスエリア。
バスは、停車(ていしゃ)したままだった。
開(ひら)かれたドアから姿(すがた)を現(あらわ)したのは…
見慣(みな)れた背格好(せかっこう)の男(おとこ)。
タバコをくわえて、いつも何(なに)かに文句(もんく)言(い)いたげに構(かま)えている人(ひと)の姿(すがた)だった。
ただ、いつもより前屈(まえかが)みで、辛(つら)そうに、バスの車体(しゃたい)にもたれかかった。
上半身(じょうはんしん)は、黒(くろ)い服(ふく)だったからわからなかったが、ジーンズのほうは黒色(こくしょく)のペンキをぶちまけたかのように血(ち)で染(そ)まっていた。
警察(けいさつ)と距離(きょり)を置(お)いて向(む)かい合(あ)う。中(なか)にはまだ運転手(うんてんしゅ)という人質(ひとじち)がいた。
何(なに)か手(て)でやり取(と)りをしている。やはり遠(とお)くてわからない。
こういう時(とき)、顔(がお)は映(うつ)してはならないようになっているのだろうか。
警察(けいさつ)が運(はこ)んできた拡声機(かくせいき)(だと思(おも)う)を、バスに向(む)けて投(な)げた。
怪我(けが)をした男(おとこ)は、それをゆっくりと拾(ひろ)い上(あ)げた。
スイッチが入(はい)ったのを確認(かくにん)して、そして、何事(なにごと)かを叫(さけ)び始(はじ)めた。
聞(き)き取(と)れない。
男(おとこ)は満足(まんぞく)したように、再(ふたた)びバスに乗車(じょうしゃ)した。
入(い)れ代(か)わりに降(お)りてきたのは、制服姿(せいふくすがた)の…運転手(うんてんしゅ)だった。
その運転手(うんてんしゅ)が地面(じめん)に降(お)り立(た)つと同時(どうじ)、すぐドアが閉(し)まり、バスは急発進(きゅうはっしん)した。
タイヤをスリップさせながら、大(おお)きくUターンすると、サービスエリアを後(あと)にした。
パトカーや救急車(きゅうきゅうしゃ)がすぐさま後(あと)に続(つづ)いた。
残(のこ)るは…犯人(はんにん)の少年(しょうねん)と、怪我(けが)を負(お)った男性(だんせい)のみ。
運転(うんてん)しているのは、あの人(ひと)か?
一体(いったい)何(なに)をしようというんだろう、あの人(ひと)は。
俺(おれ)たちは、固唾(かたず)を呑(の)んで、行(い)く末(すえ)を見守(みまも)っていた。
朋也(ともや)「………」
しばらくしてVTRが再生(さいせい)された。
音声(おんせい)がよく聞(き)こえるように補正(ほせい)されていた。
──これから俺(おれ)たちは旅行(りょこう)にでかけるっ!
そう聞(き)こえた。
──今(いま)、俺(おれ)たちは意気投合(いきとうごう)したんだっ!
──友達(ともだち)になったんだっ!
──そいつには、会(あ)いたい人(ひと)がいるっ!
──自分(じぶん)を小(ちい)さいとき育(そだ)ててくれた婆(ばあ)さんだっ!
──もう5年(ねん)も前(まえ)ぐらいから、寝(ね)たきりになってしまってるらしいっ!
──今(いま)はどうなってるかはわからねぇが…
──それでも、会(あ)いにいくんだっ!
──俺(おれ)は、それを確(たし)かめた時(とき)、そいつがどうなってもいいようにそばに居(い)てやる!
──いいな、わかったなっ!
今(いま)、犯人(はんにん)の少年(しょうねん)は笑(わら)っているだろうか。
心強(こころづよ)い友(とも)を見(み)つけて。
笑(わら)っているだろうな…。
あの人(ひと)は、どんな人(ひと)とでも、仲良(なかよ)くなれる。
そして、笑(わら)わせられる。
朋也(ともや)(やっぱ、すげぇよ…)
朋也(ともや)(一生(いっしょう)かけても、追(お)いつけないよ、あの人(ひと)には…)
バスはものすごい勢(いきお)いで、蛇行(だこう)しながら、高速(こうそく)を走(はし)っていく。
あれだけの出血(しゅっけつ)だ、意識(いしき)も朦朧(もうろう)としているだろう。
死(し)と隣(とな)り合(あ)わせの旅行(りょこう)。
でも、最高(さいこう)に楽(たの)しんでいるんだろう。
分離帯(ぶんりだい)に突(つ)っ込(こ)みそうになるたび、横転(おうてん)しそうなほど振(ふ)られるたび、大笑(おおわら)いしながら。
映像(えいぞう)がぼやけていく。
いつの間(ま)にか、涙(なみだ)が目(め)に溜(た)まっていた。
朋也(ともや)(なんだ、これ?)
朋也(ともや)「はは…」
拭(ぬぐ)って、渚(なぎさ)と早苗(さなえ)さんを見(み)る。
ふたりとも、同(おな)じだった。
笑顔(えがお)で、そして、目(め)に涙(なみだ)を溜(た)めていた。
なんなんだろう…俺(おれ)たちが共有(きょうゆう)しているこの感情(かんじょう)は。
よくわからなかった。
画面(がめん)には、暴走(ぼうそう)をし続(つづ)けるバス。
それが、ゆっくりと速度(そくど)を緩(ゆる)めていく。
そして、カーブを曲(ま)がりきれず、中央分離帯(ちゅうおうぶんりたい)に激突(げきとつ)し…
乗(の)り上(あ)げたところで、ようやく、その動(うご)きを止(と)めた。
パトカーと救急車(きゅうきゅうしゃ)が周(まわ)りを取(と)り巻(ま)く。
次々(つぎつぎ)と、警官隊(けいかんたい)が窓(まど)を割(わ)り、中(なか)に乗(の)り込(こ)み…
アナウンサーは、事件(じけん)の結末(けつまつ)を伝(つた)えていた。
隣町(となりまち)の大病院(だいびょういん)。
蛍光灯(けいこうとう)が照(て)らし出(だ)す廊下(ろうか)は、重苦(おもくる)しい空気(くうき)で満(み)ちていた。
医師(いし)は、早苗(さなえ)さんに、手(て)は尽(つ)くしたことを伝(つた)えた。
後(あと)は、本人(ほんにん)の生命力(せいめいりょく)に頼(たよ)るしかない状況(じょうきょう)なのだと。
オッサンは…たくさんの人(ひと)たちの命(いのち)を救(すく)った。
そして、多分(たぶん)…少年(しょうねん)の心(こころ)も救(すく)った。
でも…
俺(おれ)は祈(いの)るようにして待(ま)ち続(つづ)ける早苗(さなえ)さんの横顔(よこがお)を見(み)た。
いつだって、いなくなるような人(ひと)で…
いつだって、無茶(むちゃ)をするような人(ひと)で…
それで、待(ま)ち続(つづ)けるだけの早苗(さなえ)さんが…不憫(ふびん)に思(おも)えてならなかった。
それはずっと思(おも)ってきたことだ。
オッサンは、立派(りっぱ)な人間(にんげん)だ。
けど、立派(りっぱ)な夫(おっと)なのだろうか。
オッサンにとって、早苗(さなえ)さんは、なんなんだろう…。
たくさんの人(ひと)たちと一緒(いっしょ)なのだろうか。
そう思(おも)えてならない。
早苗(さなえ)さんにだけは、なにかひとつでも誓(ちか)えることがないのだろうか。
早苗(さなえ)「………」
その顔(かお)から視線(しせん)をはずす。
どうか、神様(かみさま)…
この人(ひと)を悲(かな)しませないようにしてください。
俺(おれ)は祈(いの)った。
秋生(あきお)エピローグ
オッサンは、一日中(いちにちじゅう)、眠(ねむ)り続(つづ)けた。
そして、二日後(ふつかご)の朝(あさ)。
着替(きが)えを取(と)りに帰(かえ)っていた俺(おれ)は、廊下(ろうか)で、慌(あわ)てて駆(か)けてくる渚(なぎさ)と鉢合(はちあ)わせになる。
朋也(ともや)「どうした」
渚(なぎさ)「あっ、朋也(ともや)くんっ」
呼吸(こきゅう)を整(ととの)えてから言(い)った。
渚(なぎさ)「お父(とう)さんが、いなくなってしまいましたっ」
朋也(ともや)「待(ま)て…それは、どういうことだ?
意識(いしき)が戻(もど)ったってことか?」
渚(なぎさ)「はい。たぶん…起(お)きて、そのままふらっと…」
朋也(ともや)「くわ…」
俺(おれ)は顔(かお)を手(て)で覆(おお)う。
朋也(ともや)「ったく、あの人(ひと)は…」
渚(なぎさ)「まだ傷口(きずぐち)だって、ふさがってないはずです…」
渚(なぎさ)「遠(とお)くにいかなければいいんですが…」
渚(なぎさ)「今(いま)、お母(かあ)さんが探(さが)してる最中(さいちゅう)です。朋也(ともや)くんも手伝(てつだ)ってください」
朋也(ともや)「ああ。じゃ、俺(おれ)は、表(おもて)を探(さが)すな」
二手(ふたて)に分(わ)かれて、オッサンを探(さが)し始(はじ)める。
早苗(さなえ)さんも、別(べつ)の場所(ばしょ)を探(さが)しているのだろう。
きっと、前代未聞(ぜんだいみもん)だ。
意識(いしき)を取(と)り戻(もど)した直後(ちょくご)に、行方(ゆくえ)をくらませてしまう重傷(じゅうしょう)の患者(かんじゃ)なんて。
そもそも傷口(きずぐち)が痛(いた)んで、身動(みうご)きできないはずだった。
朋也(ともや)(むちゃくちゃだ…)
無事(ぶじ)だったんなら、その笑顔(えがお)を見(み)せてやってくれればいいのに。
それをどれだけ俺(おれ)たちは待(ま)ち望(のぞ)んでいたか。
あの人(ひと)は、なんにも知(し)らないんだ。
…いた。
ベンチに座(すわ)って、地面(じめん)に目(め)を落(お)としていた。
朋也(ともや)「オッサン、こんなとこで何(なに)やってんだよ」
秋生(あきお)「ちっ…見(み)つかっちまったか」
苦々(にがにが)しい表情(ひょうじょう)で俺(おれ)を見上(みあ)げる。
朋也(ともや)「隠(かく)れん坊(ぼう)でもしてたのかよ。みんな心配(しんぱい)して探(さが)してたんだぜ?」
朋也(ともや)「重傷(じゅうしょう)だってのに、無茶(むちゃ)しやがって…」
秋生(あきお)「ふぅ…そうだな」
朋也(ともや)「ほら、戻(もど)ろう」
秋生(あきお)「まぁ、待(ま)て、もうちょい休(やす)ませろ」
朋也(ともや)「何(なに)を呑気(のんき)に…」
オッサンはタバコの箱(はこ)を取(と)りだして、中(なか)の一本(いっぽん)を口(くち)にくわえた。
秋生(あきお)「今(いま)、警察(けいさつ)と会(あ)ってよ…聞(き)き出(だ)したんだ」
朋也(ともや)「え?」
秋生(あきお)「やっぱ、あいつの婆(ばあ)さんはもう亡(な)くなってたってよ」
一瞬(いっしゅん)、なんの話(はなし)か理解(りかい)できなかった。
警察(けいさつ)…。
確(たし)かに、昨日(きのう)も、早苗(さなえ)さんの元(もと)を訪(おとず)れていた。
そのひとりを今(いま)さっき、ここで捕(つか)まえて、話(はなし)を聞(き)き出(だ)したというのだ。
なら、あの少年(しょうねん)の話(はなし)に違(ちが)いない。
婆(ばあ)さんというのは、少年(しょうねん)が会(あ)いにいこうとしていた人(ひと)のはずだった。
その人(ひと)がすでに亡(な)くなっていた…。
朋也(ともや)「そっか…」
秋生(あきお)「でも、まぁ、本人(ほんにん)は取(と)り乱(みだ)さずにいたそうだ」
秋生(あきお)「すでに、覚悟(かくご)はしてたんだろうな…」
朋也(ともや)「いや、あんたのおかげだろ」
秋生(あきお)「そうか?」
秋生(あきお)「だって、あいつが、ブレーキ踏(ふ)みやがったんだぜ」
朋也(ともや)「…え?」
秋生(あきお)「俺(おれ)が意識(いしき)なくす寸前(すんぜん)、もういいって、言(い)ってさ」
…いや、だから、それがあんたのおかげなんだって。
けど、もうそれは言(い)わないことにした。
秋生(あきお)「で、警察(けいさつ)の奴(やつ)も、面会(めんかい)に来(き)てやってくれって言(い)ってくれたからさ…」
秋生(あきお)「今(いま)から行(い)こうとしたんだが…」
朋也(ともや)「……はぁ?」
秋生(あきお)「イツツ…やっぱ無理(むり)だ。傷口(きずぐち)がまた開(ひら)いてきたかも…」
手(て)で押(お)さえた、パジャマの腹(はら)の辺(あた)りには血(ち)が滲(にじ)んでいた。
朋也(ともや)「オッサン…」
秋生(あきお)「まぁ、いい。このタバコ吸(す)ったら、大人(おとな)しく今日(きょう)は戻(もど)ってやるよ」
くわえていたタバコにライターで火(ひ)をつけた。
本当(ほんとう)に…本当(ほんとう)に、呆(あき)れた人(ひと)だった。
この人(ひと)をどこかに繋(つな)ぎ止(と)めておくことなんて、誰(だれ)にもできやしない。
秋生(あきお)「おっと…また、見(み)つかっちまった」
オッサンが俺(おれ)の背後(はいご)を見(み)ていた。
早苗(さなえ)「秋生(あきお)さんっ」
振(ふ)り返(かえ)ると、その先(さき)に、早苗(さなえ)さんが立(た)っていた。
秋生(あきお)「よぅ、早苗(さなえ)」
早苗(さなえ)「………」
早苗(さなえ)さんはオッサンの体(からだ)を見(み)て、涙(なみだ)を浮(う)かべていた。
心底(しんそこ)、心配(しんぱい)していたのだろう。
早苗(さなえ)「もう…秋生(あきお)さん、ダメですよ」
早苗(さなえ)「いつだって秋生(あきお)さんは、すぐ居(い)なくなってしまうんですから」
秋生(あきお)「………」
備(そな)え付(つ)けの灰皿(はいざら)でタバコをもみ消(け)す。
それから、ゆっくりと立(た)ち上(あ)がった。
痛(いた)みに屈(く)せず、真(ま)っ直(す)ぐに。
早苗(さなえ)さんを見(み)た。
秋生(あきお)「俺(おれ)は…」
秋生(あきお)「居(い)なくなったりはしない」
秋生(あきお)「いつまでもおまえのそばにいる」
秋生(あきお)「だから…」
秋生(あきお)「安心(あんしん)しろ、早苗(さなえ)」
早苗(さなえ)「………」
早苗(さなえ)「はい…」
早苗(さなえ)「お願(ねが)いしますねっ」
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