芳野(よしの)「おめでとう」
朋也(ともや)「は?」
芳野(よしの)「子供(こども)だよ、子供(こども)」
事務所(じむしょ)で会(あ)うなり、芳野(よしの)さんはそう話(はな)しかけてきた。
どういうネットワークが形成(けいせい)されているのか…。
自分(じぶん)が言(い)うより先(さき)に芳野(よしの)さんが知(し)っているなんて。
朋也(ともや)「ありがとうございます」
芳野(よしの)「おまえにも子供(こども)か…」
芳野(よしの)「まだまだ仕事人(しごとにん)としては半人前(はんにんまえ)だが、夫(おっと)としてはこれで一人前(いちにんまえ)にならざるをえないな」
朋也(ともや)「そうっすね…」
朋也(ともや)「でも、まだぜんぜん自覚(じかく)とかなくて…」
芳野(よしの)「産(う)まれてくれば、嫌(いや)でも自覚(じかく)することになるさ」
芳野(よしの)「人(ひと)は誰(だれ)もがひとりきりでは生(い)きていけないということ…」
芳野(よしの)「誰(だれ)かが誰(だれ)かを支(ささ)えて生(い)きていくこと…」
芳野(よしの)「その始(はじ)まりを岡崎(おかざき)、おまえはその目(め)で…」
朋也(ともや)「遅(おく)れるっすよ」
語(かた)り続(つづ)ける芳野(よしの)さんを残(のこ)し、事務所(じむしょ)を出(で)た。
芳野(よしの)「その始(はじ)まりを岡崎(おかざき)、おまえはその目(め)で見(み)つめていくんだ」
車(くるま)を走(はし)らせながらも、話(はなし)は延々(えんえん)と続(つづ)いた…。
朋也(ともや)「今日(きょう)、検診(けんしん)だったよな?」
渚(なぎさ)「そうです」
朋也(ともや)「…やっぱりついていってやろうか?」
渚(なぎさ)「平気(へいき)です」
渚(なぎさ)「妊娠(にんしん)は病気(びょうき)じゃないです」
朋也(ともや)「でも、最近(さいきん)朝起(あさお)きられないだろ。気持(きも)ち悪(わる)くってさ」
朋也(ともや)「ちゃんとご飯(はん)食(た)べてるか?」
渚(なぎさ)「つわりは今(いま)だけですから、ちょっとずつ食(た)べればそんなに気持(きも)ち悪(わる)くないです」
朋也(ともや)「まあ、仕事(しごと)だからなぁ、今日(きょう)は…」
渚(なぎさ)「そうです。朋也(ともや)くんは、お仕事(しごと)がんばってください」
朋也(ともや)「ああ…」
朋也(ともや)「でも隣町(となりまち)まで出(で)ないと、検診(けんしん)できる病院(びょういん)がないなんてなぁ…」
朋也(ともや)「何(なに)かあったら、ちゃんと早苗(さなえ)さんに連絡(れんらく)するんだぞ」
渚(なぎさ)「はい」
朋也(ともや)「じゃ、いってくる」
渚(なぎさ)「いってらっしゃいです」
朋也(ともや)「ただいま」
朋也(ともや)「検診(けんしん)、どうだった」
帰(かえ)ってくると、夕飯(ゆうはん)の支度中(したくちゅう)の渚(なぎさ)に真(ま)っ先(さき)に訊(き)く。
渚(なぎさ)「あ、はい。ええと…」
渚(なぎさ)「問診(もんしん)を受(う)けたり、血圧(けつあつ)を計(はか)ったり、後(あと)はちゃんと妊娠(にんしん)してるかどうかの検査(けんさ)とかしました」
朋也(ともや)「それで…?」
渚(なぎさ)「それで、ですね…」
渚(なぎさ)「エコーって言(い)う機械(きかい)で、なんとお腹(はら)の中(なか)の赤(あか)ちゃん、見(み)てきました」
朋也(ともや)「えっ!
もう見(み)れるのかっ!?」
渚(なぎさ)「はい。でも、まだ卵(たまご)みたいな感(かん)じです」
渚(なぎさ)「これから一年(いちねん)近(ちか)くかけて、どんどん大(おお)きくなるんだそうです」
渚(なぎさ)「婦人病(ふじんびょう)とかのトラブルもなくて、これなら元気(げんき)な赤(あか)ちゃんが産(う)めますよって言(い)ってもらえました」
朋也(ともや)「そっか…」
元気(げんき)な赤(あか)ちゃんが産(う)めます…
医者(いしゃ)が言(い)うんだから、間違(まちが)いないんだろう。
俺(おれ)はほっと、胸(むね)をなで下(お)ろす。
渚(なぎさ)「でも、ちょっとびっくりしました…」
朋也(ともや)「何(なに)が?」
渚(なぎさ)「あ…いえ」
渚(なぎさ)「…なんでもないです」
朋也(ともや)「なんだよ、気(き)になるじゃないか。言(い)えよ」
渚(なぎさ)「いえ、男(おとこ)の人(ひと)には言(い)うことではなかったです…」
朋也(ともや)「なんで隠(かく)すんだよ、俺(おれ)たちの子供(こども)だろ?」
朋也(ともや)「それとも何(なに)か、おまえひとりで産(う)もうってのか?」
朋也(ともや)「違(ちが)うだろ、出産(しゅっさん)は共同作業(きょうどうさぎょう)だ。早苗(さなえ)さんもそう言(い)ってた」
朋也(ともや)「ほら、包(つつ)み隠(かく)さず、話(はな)せ」
渚(なぎさ)「…あ、はい…」
渚(なぎさ)「ではっ…」
渚(なぎさ)「…格好(かっこう)が恥(は)ずかしかったんです」
朋也(ともや)「は?」
渚(なぎさ)「内診台(ないしんだい)って見(み)たことありますか」
朋也(ともや)「ない」
渚(なぎさ)「スカートと下着(したぎ)、全部(ぜんぶ)脱(ぬ)いで、足(あし)を広(ひろ)げられるんです…」
渚(なぎさ)「とっても恥(は)ずかしかったです…」
朋也(ともや)「…どれぐらい」
渚(なぎさ)「そんなことも言(い)わないとダメですかっ」
朋也(ともや)「いや、いいけどさ…」
渚(なぎさ)「でも、言(い)わないとダメな気(き)がしてきましたっ」
朋也(ともや)「どっちだよ…」
渚(なぎさ)「そういうのは…内緒(ないしょ)にしておくのはよくないとっ…思(おも)いました…」
渚(なぎさ)「とりあえず…」
朋也(ともや)「とりあえず?」
渚(なぎさ)「そのっ…」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くんより、開(ひら)かれましたっ」
朋也(ともや)「………」
朋也(ともや)くんより、開(ひら)かれました…
……朋也(ともや)くんより、開(ひら)かれました……
…………朋也(ともや)くんより、開(ひら)かれました…………
背筋(せすじ)に寒気(かんき)を感(かん)じて、俺(おれ)はバッと後(うし)ろを振(ふ)り返(かえ)る。
…誰(だれ)もいない。
いるわけない…。
朋也(ともや)「それは、オッサンや早苗(さなえ)さんには言(い)わないように」
渚(なぎさ)「もちろん言(い)うわけないですっ」
いや、あんたすごく言(い)いそうだから。
秋生(あきお)「てめぇも同(おな)じ目(め)に遭(あ)え」
朋也(ともや)「う、うわっ」
がばっ。
秋生(あきお)「はーはっはっはっ!
おい、早苗(さなえ)もこの恥(は)ずかしい格好(かっこう)、見(み)てやれよっ!」
…早苗(さなえ)さん!?
朋也(ともや)「み、見(み)ないでくださいぃぃーっ!」
ちらっ。
早苗(さなえ)「朋也(ともや)さん…」
朋也(ともや)「は、はい…」
早苗(さなえ)「秋生(あきお)さんの1/2ですねっ」
朋也(ともや)「うわああぁーーっ!」
がばっ!
…夢(ゆめ)だった。
渚(なぎさ)「ん…」
渚(なぎさ)「どうしましたか、朋也(ともや)くん」
渚(なぎさ)まで起(お)き出(だ)してしまう。
渚(なぎさ)「悪(わる)い夢(ゆめ)、見(み)ましたか」
俺(おれ)のあの人(ひと)に対(たい)する劣等感(れっとうかん)は、ハーフスケールなのか…。
渚(なぎさ)「……?」
朋也(ともや)「起(お)こして悪(わる)い…」
届(とど)いたんだから、いいじゃん…なんて思(おも)いつつ、寝直(ねなお)す。
朋也(ともや)「大丈夫(だいじょうぶ)か?」
渚(なぎさ)「…ごめんなさいです。ちょっと起(お)きれそうもありません」
朋也(ともや)「いいって、こっちでやるから」
日(ひ)を追(お)うごとに、渚(なぎさ)のつわりがひどくなっていく。
今朝(けさ)は起(お)きられなくなっていた。
朋也(ともや)「だいぶマシみたいだな」
渚(なぎさ)「はい、心配(しんぱい)かけてごめんなさいです」
朋也(ともや)「謝(あやま)るなっての。全部(ぜんぶ)共同作業(きょうどうさぎょう)」
渚(なぎさ)「あ、はい」
朋也(ともや)「それよりちゃんと食(た)べたか?」
渚(なぎさ)「…あまり食(た)べられませんでした」
渚(なぎさ)「昼(ひる)には楽(らく)になったので、ちょっとだけ食(た)べました」
朋也(ともや)「何(なに)か治(なお)す方法(ほうほう)とかないのかな」
渚(なぎさ)「ないそうです」
渚(なぎさ)「つわりは、何(なん)で起(お)きるかもよくわかってないそうでして…」
渚(なぎさ)は冷凍庫(れいとうこ)から、氷(こおり)を取(と)り出(だ)すと、それを口(くち)に含(ふく)んだ。
朋也(ともや)「氷(こおり)?」
渚(なぎさ)「水物(みずもの)を飲(の)んでも気持(きも)ちが悪(わる)くなるんです」
渚(なぎさ)「なので、こうやって氷(こおり)を口(くち)に含(ふく)んで、溶(と)かしながら飲(の)んでるんです」
朋也(ともや)「水(みず)も飲(の)めないのか…」
そんな体調(たいちょう)なんて、想像(そうぞう)もつかない…。
風邪(かぜ)で寝込(ねこ)んでいたって、水分(すいぶん)はごくごく飲(の)める。
女性(じょせい)って大変(たいへん)だ…。
頑張(がんば)れとしか言(い)いようがない…。
朋也(ともや)「すっぱいものは?」
朋也(ともや)「そういうの食(た)べたくなるって言(い)うじゃん」
渚(なぎさ)「柑橘系(かんきつけい)とか食(た)べると、ひどくなるんです」
渚(なぎさ)「個人差(こじんさ)が大(おお)きくて、人(にん)それぞれってお医者(いしゃ)さんは言(い)ってました」
俺(おれ)も自分(じぶん)で調(しら)べてみた。
どうやらちゃんと食(た)べるのが一番(いちばん)の薬(くすり)になるらしい。
常(つね)にお腹(なか)を空(す)かさないようにして、少(すこ)しずつ食(た)べるそうだ。
朝(あさ)が一番(いちばん)ひどくなるのも、寝(ね)ている時(とき)は何(なに)も食(た)べないからだ。
俺(おれ)は夜(よる)、おにぎりを作(つく)った。
喉(のど)が渇(かわ)かないように塩(しお)は控(ひか)えめにして。
ご飯(はん)の匂(にお)いをなくすように、ちょっとだけふりかけを入(い)れて。
一口(ひとくち)で食(た)べられるような小(ちい)さめのをいくつも。
深夜二時(しんやにじ)。
ぴぴぴぴぴぴ……。
朋也(ともや)「…時間(じかん)か」
電気(でんき)をつける。
朋也(ともや)「渚(なぎさ)、大丈夫(だいじょうぶ)か?」
渚(なぎさ)「…はい…どうしたんですか?
こんな時間(じかん)に」
朋也(ともや)「気分(きぶん)とか悪(わる)くないか?」
渚(なぎさ)「今(いま)は平気(へいき)です」
朋也(ともや)「よかった。これ、一(ひと)つでも食(た)べれるか?」
おにぎりを載(の)せた皿(さら)を差(さ)し出(だ)す。
渚(なぎさ)「どうしたんですか、これ?」
朋也(ともや)「夜中(よなか)に少(すこ)しでも食(た)べるといいって読(よ)んだからさ」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くんが作(つく)ったんですか?」
朋也(ともや)「ちょっと不格好(ぶかっこう)だけどな」
よく見(み)ると、形(かたち)が不揃(ふぞろ)いで見栄(みば)えは悪(わる)い。
海苔(のり)も適当(てきとう)に付(つ)けただけで、ふりかけにもむらがあった。
渚(なぎさ)「…ありがとうです」
渚(なぎさ)「いただきます」
朋也(ともや)「無理(むり)して食(た)べることはないんだぞ」
朋也(ともや)「気分(きぶん)が悪(わる)かったら、時間(じかん)をずらしてもいいんだから」
渚(なぎさ)は小(ちい)さめのを一(ひと)つ手(て)にとって、口(くち)へ入(い)れた。
ちょうどよい具合(ぐあい)に一口(ひとくち)で収(おさ)まったようだ。
渚(なぎさ)「おいしいです」
朋也(ともや)「食(た)べられるだけ食(た)べたらいいからな」
朋也(ともや)「無理(むり)せず遠慮(えんりょ)もせずな」
渚(なぎさ)は小(ちい)さいのを三(みっ)つ食(た)べることが出来(でき)た。
全(まった)くと言(い)ってよいほど食(た)べられなかったのだから上出来(じょうでき)なのだろう。
午前四時(ごぜんよじ)にもう一回(いっかい)起(お)きて、今度(こんど)は一緒(いっしょ)に食(た)べた。
味(あじ)の薄(うす)い素(そ)っ気(け)ないお握(にぎ)りだった。
それでも渚(なぎさ)は今度(こんど)は五(いつ)つ食(た)べた。
渚(なぎさ)「おいしかったです…えへへ」
渚(なぎさ)はそう言(い)って笑(わら)ってくれた。
久(ひさ)しぶりにその笑顔(えがお)を見(み)たような気(き)がした。
朋也(ともや)「………」
芳野(よしの)「聞(き)いてるのか、岡崎(おかざき)」
朋也(ともや)「………」
芳野(よしの)「寝(ね)てるのか…」
芳野(よしの)「まぁ、休憩時間(きゅうけいじかん)ぐらい寝(ね)かせといてやるか…」
芳野(よしの)「頑張(がんば)ってるみたいだしな」
………。
鼻歌(はなうた)が聞(き)こえてくる。
それはすごく…心地(ここち)よいメロディだった。
そうした、つわりとの戦(たたか)いもようやく終(お)わりの時(とき)を迎(むか)える。
朋也(ともや)「おはよう」
渚(なぎさ)「おはようございます」
朋也(ともや)「起(お)きて大丈夫(だいじょうぶ)か?」
渚(なぎさ)「平気(へいき)です」
渚(なぎさ)「今朝(けさ)はとっても調子(ちょうし)がいいです」
10~11週(しゅう)め、本(ほん)で読(よ)んだ通(とお)りだった。
朋也(ともや)「自宅出産(じたくしゅっさん)?」
渚(なぎさ)の口(くち)から、その言葉(ことば)がでてきたのは夕食(ゆうしょく)の席(せき)でだった。
渚(なぎさ)「はい、そうです」
朋也(ともや)「自宅出産(じたくしゅっさん)…」
考(かんが)える。
朋也(ともや)「え?
ここで産(う)むってこと?」
渚(なぎさ)「はい」
朋也(ともや)「つまり、病院(びょういん)では産(う)まないってこと?」
渚(なぎさ)「はい」
当然(とうぜん)だ。アホか俺(おれ)は…。
渚(なぎさ)「今日(きょう)、病院(びょういん)で母親教室(ははおやきょうしつ)の案内(あんない)を見(み)たんです」
渚(なぎさ)「そこに自宅出産(じたくしゅっさん)をされた母親(ははおや)さんの手記(しゅき)が載(の)ってたんです」
渚(なぎさ)「旦那(だんな)さんと、お父(とう)さんとお母(かあ)さんに囲(かこ)まれて、必死(ひっし)でがんばって」
渚(なぎさ)「先(さき)に生(う)まれていたおにいちゃんもお母(かあ)さんを励(はげ)まして」
渚(なぎさ)「みんな、ずっと手(て)を握(にぎ)りしめてくれてたって書(か)いてありました」
渚(なぎさ)「自分(じぶん)の部屋(へや)で、産(う)まれてきた赤(あか)ちゃんを新(あたら)しいお父(とう)さんが産湯(うぶゆ)につけて」
渚(なぎさ)「ずっとお腹(なか)にいた赤(あか)ちゃんをその場(ば)で抱(だ)きしめてあげられるそうです」
渚(なぎさ)「病院(びょういん)だとすぐに抱(だ)いてあげられないこともあるみたいなので、そうできればいいなと思(おも)いました」
朋也(ともや)「そりゃそうだけどなあ…」
何(なに)しろ渚(なぎさ)の身体(しんたい)のこともある。
安請(やすう)け合(あ)いはできない。
渚(なぎさ)「それにこの部屋(へや)は…」
渚(なぎさ)「わたしが、泣(な)かないと誓(ちか)いを立(た)てた場所(ばしょ)で…」
渚(なぎさ)「その誓(ちか)いどおり、今日(きょう)までもがんばってこれた場所(ばしょ)です」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くんとふたりで」
朋也(ともや)「ああ。そうだな」
朋也(ともや)「わかるよ。おまえの気持(きも)ち」
渚(なぎさ)「それと、やっぱりこの町(まち)で産(う)んであげたいです」
朋也(ともや)「ああ」
朋也(ともや)「でもまずはさ…医者(いしゃ)に相談(そうだん)してみよう」
渚(なぎさ)「はい、では早速(さっそく)そうしてみます」
埃(ほこり)で黒(くろ)く汚(よご)れていく手(て)。
その手(て)を見(み)つめた。
昼休(ひるやす)みに、芳野(よしの)さんから言(い)われたことを思(おも)い出(だ)しながら。
芳野(よしの)「自宅出産(じたくしゅっさん)か…」
芳野(よしの)「そいつはいいな」
芳野(よしの)「岡崎(おかざき)、おまえは自覚(じかく)することになる」
芳野(よしの)「人(ひと)は誰(だれ)もがひとりきりでは生(い)きていけないということ…」
芳野(よしの)「誰(だれ)かが誰(だれ)かを支(ささ)えて生(い)きていくこと…」
朋也(ともや)「それ前(まえ)に聞(き)きましたから」
芳野(よしの)「最後(さいご)が違(ちが)うんだよ…聞(き)け」
朋也(ともや)「はぁ」
芳野(よしの)「誰(だれ)かが誰(だれ)かを支(ささ)えて生(い)きていくこと…」
芳野(よしの)「その始(はじ)まりを岡崎(おかざき)、おまえは最初(さいしょ)にその手(て)で我(わ)が子(こ)に伝(つた)えてやるんだ」
埃(ほこり)で黒(くろ)く汚(よご)れていく手(て)。
この手(て)で。
渚(なぎさ)「お医者(いしゃ)さんに相談(そうだん)してきました」
朋也(ともや)「ああ、どうだった」
渚(なぎさ)「今(いま)の調子(ちょうし)が続(つづ)けば問題(もんだい)ないだろうって言(い)ってくれました」
渚(なぎさ)「それと、これ、助産院(じょさんいん)のパンフレットです。お医者(いしゃ)さんにいただきました」
朋也(ともや)「そうか」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くんは…どう思(おも)いますか」
朋也(ともや)「うーん、そうだな…」
朋也(ともや)「医者(いしゃ)が問題(もんだい)ないと言(い)うなら、俺(おれ)は渚(なぎさ)の意志(いし)を尊重(そんちょう)したい」
朋也(ともや)「手(て)を繋(つな)いでいてやりたい」
朋也(ともや)「そして、この手(て)で…最初(さいしょ)に産湯(うぶゆ)につけてやりたい」
渚(なぎさ)「はい」
朋也(ともや)「次(つぎ)の休(やす)みには、オッサンや早苗(さなえ)さんにも相談(そうだん)しなきゃな」
秋生(あきお)「自宅出産(じたくしゅっさん)だとおぉぉーーーっ!?」
叫(さけ)びながら、体(からだ)を右(みぎ)に傾(かたむ)ける。
秋生(あきお)「どうだ、今(いま)のドリフト」
朋也(ともや)「ゲームやめません?」
秋生(あきお)「ちっ、わぁったよっ、レコード更新中(こうしんちゅう)だってのに…」
ゲーム機(き)の電源(でんげん)を落(お)とす。
秋生(あきお)「で、なんだよ」
朋也(ともや)「渚(なぎさ)が自宅出産(じたくしゅっさん)」
秋生(あきお)「自宅出産(じたくしゅっさん)だとおぉぉーーーっ!?」
朋也(ともや)「聞(き)いてなかったんかい」
秋生(あきお)「てめぇな、出産(しゅっさん)だけでも大変(たいへん)だってのに、それをさらに自宅(じたく)でしようってか」
朋也(ともや)「ああ」
秋生(あきお)「なんのためにだよ」
秋生(あきお)「金(かね)がねぇのか、それとも罰(ばつ)ゲームか、宗教上(しゅうきょうじょう)の問題(もんだい)か、オモシロ出産(しゅっさん)か」
朋也(ともや)「全部(ぜんぶ)ちがうよ…」
秋生(あきお)「じゃ、なんだってんだよ」
朋也(ともや)「なんていうんだろ…いろいろあるんだよ…」
あんなにも考(かんが)えて決(き)めたことなのに、いざとなると何(なに)も言葉(ことば)にできない…。
朋也(ともや)「俺(おれ)と渚(なぎさ)がそうしたいんだ」
朋也(ともや)「ふたりで考(かんが)えて決(き)めたことなんだ」
早苗(さなえ)「わたしは、賛成(さんせい)です」
秋生(あきお)「あん?」
台所(だいどころ)から早苗(さなえ)さんがお盆(ぼん)を持(も)って現(あらわ)れる。
後(うし)ろには渚(なぎさ)も。
その姿(すがた)を見(み)て、オッサンはタバコの火(ひ)を消(け)す。
早苗(さなえ)「わたしは、隣町(となりまち)の病院(びょういん)でお産(さん)しましたけど…」
早苗(さなえ)「なんていうか、すぐ渚(なぎさ)と引(ひ)き離(はな)されてしまって…」
早苗(さなえ)「病院(びょういん)に任(まか)せっきりというか、自分(じぶん)の力(ちから)で産(う)んだって気(き)がしなくて、少(すこ)し寂(さび)しかったのを覚(おぼ)えてます」
早苗(さなえ)「秋生(あきお)さんが渚(なぎさ)を抱(だ)いたのも、病院(びょういん)の人(ひと)に抱(だ)かれた後(あと)だったんですよ?」
秋生(あきお)「マジかよっ!
俺(おれ)が初(はじ)めてだと思(おも)ってたぜっ!」
早苗(さなえ)「違(ちが)います」
秋生(あきお)「くそぉーっ…」
秋生(あきお)「でも、舐(な)めたのは俺(おれ)が最初(さいしょ)だぜ」
渚(なぎさ)「そんなことされてたんですかっ」
秋生(あきお)「まぁ、それぐらい可愛(かわい)かったってこった」
渚(なぎさ)「可愛(かわい)くてもそんなことしたらダメですっ」
秋生(あきお)「はっはっはっ!
もぅおせぇよっ!」
秋生(あきお)「よし、ゲームに戻(もど)るか」
朋也(ともや)「いや、話(はなし)終(お)わってないから」
秋生(あきお)「ん…ああ…じゃあ、こんなのはどうだ」
秋生(あきお)「早苗(さなえ)と俺(おれ)も渚(なぎさ)の隣(となり)に並(なら)んでイキんでるんだ。さて、どっから産(う)まれてくるでしょう?」
朋也(ともや)「いや、オモシロ出産(しゅっさん)のネタなんて考(かんが)えてないからさ…」
渚(なぎさ)「自宅出産(じたくしゅっさん)です」
秋生(あきお)「えぇ?
それオモシロイかぁ?」
渚(なぎさ)「お父(とう)さん、わたしたち、真剣(しんけん)ですっ」
よく言(い)った、嫁(よめ)よ。
秋生(あきお)「あぁ…」
オッサンは机(つくえ)に並(なら)べられたコップを手(て)に取(と)る。
そして酒(さけ)のように一気(いっき)に煽(あお)った後(あと)…
秋生(あきお)「わぁったよ…」
深(ふか)い息(いき)と共(とも)に吐(は)き出(だ)す。
秋生(あきお)「抱(だ)いてやれ、最初(さいしょ)に」
朋也(ともや)「ああ」
秋生(あきお)「だがな…」
秋生(あきお)「舐(な)めるのは俺(おれ)が最初(さいしょ)だあぁーーーっ!」
渚(なぎさ)「ダメですっ、舐(な)めるのも朋也(ともや)くんが最初(さいしょ)ですっ」
朋也(ともや)「………」
朋也(ともや)「…いや、舐(な)めないけどさ」
渚(なぎさ)「あ…」
渚(なぎさ)「そうです…舐(な)めませんっ」
アホアホ親子(おやこ)だ…。
早苗(さなえ)「こちら、八木(やぎ)さん」
八木(やぎ)「八木(やぎ)です。はじめまして」
渚(なぎさ)「岡崎渚(おかざきなぎさ)です。はじめまして。よろしくお願(ねが)いします」
その人(ひと)が今回(こんかい)お世話(せわ)になる助産婦(じょさんぷ)さんだった。
早苗(さなえ)さんの学生時代(がくせいじだい)の同級生(どうきゅうせい)で、今(いま)は隣町(となりまち)でひとりで助産院(じょさんいん)を開業(かいぎょう)しているという。
産婆(さんば)という言葉(ことば)もあるぐらいだったので、お年寄(としよ)りを想像(そうぞう)していたのだけど、早苗(さなえ)さんの同級生(どうきゅうせい)ということで当然(とうぜん)と若(わか)い。
朋也(ともや)(それでも早苗(さなえ)さんのほうが若(わか)く見(み)えるなぁ…)
朋也(ともや)(早苗(さなえ)さんの若(わか)さは神秘的(しんぴてき)だ…)
八木(やぎ)「でしたら、初期検診(しょきけんしん)はもうお済(す)みなんですね?」
ぼ~っとしている間(あいだ)に、話(はなし)が始(はじ)まっていた。
渚(なぎさ)「はい、先々週(せんせんしゅう)に済(す)ませました」
八木(やぎ)「でしたら、これからいくつかご説明(せつめい)させていただきます」
八木(やぎ)「助産婦(じょさんぷ)は、あくまでも補助(ほじょ)の役目(やくめ)なんです」
八木(やぎ)「ですから、医療行為(いりょうこうい)は出来(でき)ません」
八木(やぎ)「定期的(ていきてき)に検診(けんしん)は受(う)けていただくことになります」
八木(やぎ)「機械(きかい)を使(つか)っての検診(けんしん)は、うちの助産院(じょさんいん)まで来(き)ていただくことになりますがそれは大丈夫(だいじょうぶ)ですか?」
渚(なぎさ)「はい」
八木(やぎ)「それで、ここでの出産(しゅっさん)をご希望(きぼう)とのことですが…」
朋也(ともや)「部屋(へや)がこんなに狭(せま)くても大丈夫(だいじょうぶ)ですかねぇ?」
八木(やぎ)「お布団(ふとん)が敷(し)けるだけのスペースがあれば、どこでも大丈夫(だいじょうぶ)ですよ」
八木(やぎ)「広(ひろ)さは関係(かんけい)ないんです」
八木(やぎ)「それよりは、お母(かあ)さんがリラックスできる環境(かんきょう)が大事(だいじ)なんですね」
八木(やぎ)「妊娠中(にんしんちゅう)には、いろいろな不安(ふあん)や身体的(しんたいてき)影響(えいきょう)が出(で)ます」
八木(やぎ)「それらを和(やわ)らげて、楽(たの)しくお産(さん)をしていただくために私(わたし)たちがいるんです」
八木(やぎ)「まだ三(さん)ヶ月(げつ)ですから、じっくり考(かんが)えていただいて結構(けっこう)ですよ」
助産婦(じょさんぷ)さんが運転席(うんてんせき)から礼(れい)をする。
俺(おれ)たちも頭(あたま)を下(さ)げる。
車(くるま)は細(ほそ)い路地(ろじ)の先(さき)へと消(き)えていった。
ああして隣町(となりまち)から車(くるま)で通(かよ)ってくれるらしい。
渚(なぎさ)も大変(たいへん)だが、助産婦(じょさんぷ)さんも大変(たいへん)だ。
渚(なぎさ)の出産(しゅっさん)のために、みんなでひとつになって頑張(がんば)っているように思(おも)える。
朋也(ともや)(なんだか似(に)ているな…)
ふと思(おも)い出(だ)す。
いつの間(ま)にかたくさんでいた、学生時代(がくせいじだい)の部室(ぶしつ)。
あの日(ひ)のようだった。
その日(ひ)は、助産院(じょさんいん)での検診(けんしん)の日(ひ)。
俺(おれ)は仕事(しごと)を昼(ひる)から休(やす)み、同伴(どうはん)していた。
助産婦(じょさんぷ)「渚(なぎさ)さん、見(み)えますかー?」
診療台(しんりょうだい)で寝(ね)ている渚(なぎさ)のお腹(なか)には、聴診器(ちょうしんき)の親玉(おやだま)みたいなものが当(あ)てられていた。
渚(なぎさ)「はい」
八木(やぎ)「わかりますか?
この動(うご)いてるのが心臓(しんぞう)ですよ」
八木(やぎ)「もう頭(あたま)も大(おお)きくなって、目(め)や鼻(はな)もちゃんと出来(でき)てるんですよ」
八木(やぎ)「お父(とう)さんもちゃんと見(み)てあげてくださいね」
俺(おれ)は食(く)い入(い)るようにして白黒(しろくろ)の画面(がめん)を見(み)つめていた。
粒子(りゅうし)の粗(あら)い画面(がめん)には、確(たし)かに息(いき)づいている小(ちい)さな命(いのち)が映(うつ)し出(だ)されていた。
八木(やぎ)「胎盤(たいばん)も順調(じゅんちょう)に完成(かんせい)しましたから、もう流産(りゅうざん)の心配(しんぱい)もほとんど無(な)いですよ」
八木(やぎ)「赤(あか)ちゃんはこれからすくすくと大(おお)きくなるんです」
八木(やぎ)「一(いっ)ヶ月(げつ)で今(いま)の数倍(すうばい)まで大(おお)きくなるんです」
八木(やぎ)「来月(らいげつ)くらいには胎動(たいどう)も始(はじ)まりますよ」
二人(ふたり)で夕暮(ゆうぐ)れ道(みち)を歩(ある)く。
渚(なぎさ)の身体(しんたい)に障(さわ)らないように、いつもよりゆっくりと。
朋也(ともや)「ちゃんと頑張(がんば)ってるんだな、赤(あか)ちゃん」
朋也(ともや)「見(み)た目(め)、全然(ぜんぜん)変(か)わらないから気(き)づかなかったけど」
渚(なぎさ)「そうです」
渚(なぎさ)「小(ちい)さくても、ちゃんとがんばってるんです」
朋也(ともや)「今(いま)まで、ちゃんとした実感(じっかん)がなかったんだと思(おも)う」
渚(なぎさ)「そうなんですか?」
朋也(ともや)「ほら、渚(なぎさ)はお腹(はら)の中(なか)にいるし、体調(たいちょう)で実感(じっかん)できるだろ」
朋也(ともや)「俺(おれ)はそういうのがないからさ…」
頭(あたま)だけで知(し)って、身体(しんたい)がついてこないような感(かん)じ。
覚(おぼ)え立(た)ての仕事(しごと)で、うまくできないようなもどかしさが近(ちか)いだろうか。
渚(なぎさ)「大丈夫(だいじょうぶ)です」
渚(なぎさ)はそっと、俺(おれ)の手(て)を握(にぎ)ってくれた。
俺(おれ)も握(にぎ)り返(かえ)した。
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くんががんばってるのは、わたしが一番(いちばん)知(し)ってます」
渚(なぎさ)「だから赤(あか)ちゃんもよく知(し)ってるはずです」
渚(なぎさ)「わたしと一心同体(いっしんどうたい)なんですから」
朋也(ともや)「そうだな…」
渚(なぎさ)「はいっ」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん、朋也(ともや)くん、見(み)てください」
朋也(ともや)「何(なん)だ、えらくうれしそうに」
渚(なぎさ)「ほら、これです」
渚(なぎさ)はメモ帳(ちょう)大(だい)の冊子(さっし)を差(さ)し出(だ)した。
朋也(ともや)「…母子健康手帳(ぼしけんこうてちょう)?」
表紙(ひょうし)にはカラフルなイラストが描(か)かれて、割(わり)と丁寧(ていねい)に作(つく)られていた。
渚(なぎさ)「この前(まえ)、検診(けんしん)の時(とき)に母子手帳(ぼしてちょう)を作(つく)ってきてくださいって言(い)われたんです」
渚(なぎさ)「それで役場(やくば)に交付(こうふ)をお願(ねが)いしてたんです」
渚(なぎさ)「今日(きょう)、それが届(とど)いたんです」
朋也(ともや)「へぇ」
渚(なぎさ)は何度(なんど)もめくって確(たし)かめたのだろう。
何(なに)も書(か)かれていないページなのに、もう開(ひら)き癖(くせ)が付(つ)き始(はじ)めていた。
渚(なぎさ)「これから毎日(まいにち)書(か)いていきます」
渚(なぎさ)「赤(あか)ちゃんの記録(きろく)です」
渚(なぎさ)「大(おお)きくなったら、いろんなことがあったよって教(おし)えてあげたいです」
朋也(ともや)「そうだな」
胎動(たいどう)が始(はじ)まったのは、その一(いっ)ヶ月後(げつご)だ。
渚(なぎさ)「あっ」
朋也(ともや)「ん、どうした」
渚(なぎさ)「今(いま)、動(うご)きましたっ」
渚(なぎさ)「赤(あか)ちゃん、動(うご)きました、胎動(たいどう)ですっ」
渚(なぎさ)「母親教室(ははおやきょうしつ)で教(おそ)わったんですけど、その通(とお)りでした」
渚(なぎさ)「勢(いきお)いよく動(うご)いて、お母(かあ)さんのお腹(なか)を蹴(け)ったり一回転(いっかいてん)したりしてるんです」
朋也(ともや)「一回転(いっかいてん)もするのかよ…」
渚(なぎさ)「元気(げんき)に育(そだ)ってる証拠(しょうこ)です」
渚(なぎさ)「赤(あか)ちゃんはお母(かあ)さんにそうやって知(し)らせてるんです」
渚(なぎさ)「ここにいますよ、って」
渚(なぎさ)は目立(めだ)ち始(はじ)めたお腹(なか)を大事(だいじ)そうにさすった。
朋也(ともや)「俺(おれ)も触(さわ)っていいか?」
渚(なぎさ)「はい、どうぞ」
温(あたた)かい渚(なぎさ)のお腹(なか)。
その中(なか)には、もうすでに一回転(いっかいてん)するほどに成長(せいちょう)している命(いのち)。
命(いのち)が形作(かたちづく)られていく過程(かてい)…それを今(いま)ふたりは体感(たいかん)していた。
渚(なぎさ)「名前(なまえ)を考(かんが)えませんか」
夜(よる)、渚(なぎさ)がそう提案(ていあん)してきた。
朋也(ともや)「そうか…そうだったな」
今(いま)の今(いま)まで、そんなことすら忘(わす)れていた。
渚(なぎさ)「まだ早(はや)いでしょうか」
朋也(ともや)「いや、いいよ。早(はや)くて困(こま)ることなんてないし」
朋也(ともや)「ただ男(おとこ)の子(こ)のときと、女(おんな)の子(こ)のときと、両方(りょうほう)考(かんが)えておかないとな」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くんの名前(なまえ)から、一文字(ひともんじ)取(と)りましょうか」
朋也(ともや)「いや、そんなこと考(かんが)えないでいいよ」
朋也(ともや)「俺(おれ)にはさ、岡崎(おかざき)っていう名字(みょうじ)が与(あた)えられる」
朋也(ともや)「おまえにもそうしたようにさ、それで守(まも)れる気(き)がするんだ」
朋也(ともや)「女(おんな)の子(こ)だったら結婚(けっこん)したら、また変(か)わるけどさ、そこから守(まも)るのはその夫(おっと)の役目(やくめ)だからな」
渚(なぎさ)「そうですか…」
渚(なぎさ)「なら、わたしの名前(なまえ)でも守(まも)ってあげたいです」
朋也(ともや)「そうだな。そうしよう」
渚(なぎさ)「でも、わたし、一文字(ひともんじ)ですから、姉妹(しまい)みたいになってしまいます」
朋也(ともや)「うーん、そうかもな」
どれだけ考(かんが)えても、渚(なぎさ)という字(じ)を使(つか)って、子供(こども)らしい名前(なまえ)を思(おも)いつくことができなかった。
渚(なぎさ)「渚(なぎさ)は、浜辺(はまべ)のことです」
朋也(ともや)「そうだな」
渚(なぎさ)「潮(しお)の満(み)ち引(ひ)きする場所(ばしょ)です」
朋也(ともや)「ああ」
渚(なぎさ)「だから、汐(うしお)、というのはどうでしょうか」
渚(なぎさ)「これだと、男(おとこ)の子(こ)でも、女(おんな)の子(こ)にでも合(あ)います」
朋也(ともや)「うしお?」
渚(なぎさ)「はい、汐(うしお)です」
渚(なぎさ)「きっと、人生(じんせい)はいろんなことがあります」
渚(なぎさ)「汐(うしお)は渚(なぎさ)から、時(とき)には引(ひ)いて、離(はな)れることもありますが…」
渚(なぎさ)「でも、時(とき)が経(た)てばまた満(み)ちて、そばに帰(かえ)ってきます」
渚(なぎさ)「ずっと、それを繰(く)り返(かえ)して…わたしは汐(うしお)を見守(みまも)っていけます」
渚(なぎさ)「どうでしょうか」
俺(おれ)のように、ただそばに居(い)るという理由(りゆう)だけではなかった。
人生(じんせい)という長(なが)い道(みち)のり、その苦楽(くらく)を人並(ひとな)み以上(いじょう)に知(し)った渚(なぎさ)だから、与(あた)えられる名(な)だった。
そして、その由来(ゆらい)は、まさしく家族(かぞく)のあるべき姿(すがた)だ。
朋也(ともや)「でも、よく考(かんが)えたら、渚(なぎさ)より潮(しお)のほうが大(おお)きい存在(そんざい)だよな」
渚(なぎさ)「そうですね。海(うみ)ですから」
朋也(ともや)「そんな何(なに)もかもを包(つつ)み込(こ)み、育(はぐく)むような…大(おお)きな優(やさ)しさを持(も)った奴(やつ)になれるかな」
渚(なぎさ)「はい…」
渚(なぎさ)「なってほしいです」
疲(つか)れたのだろうか。そう言(い)って、渚(なぎさ)は瞼(まぶた)を閉(と)じた。
朋也(ともや)「眠(ねむ)るか」
渚(なぎさ)「はい」
朋也(ともや)「じゃ、電気(でんき)消(け)すな」
渚(なぎさ)「はい、お願(ねが)いします…」
岡崎汐(おかざきうしお)。
それがこれから生(う)まれてくる子(こ)の名(な)になった。
翌日(よくじつ)から、渚(なぎさ)はお腹(はら)の子(こ)に名前(なまえ)で呼(よ)びかけるようになった。
渚(なぎさ)「しおちゃん」
渚(なぎさ)は『う』を取(と)って、そう呼(よ)んだ。
渚(なぎさ)「呼(よ)んでみると、すごく可愛(かわい)いです」
渚(なぎさ)「しおちゃん…」
渚(なぎさ)「えへへ」
渚(なぎさ)「というわけで、名前(なまえ)は汐(うしお)に決(き)めました。しおちゃんです」
秋生(あきお)「ほぅ、そうか…」
秋生(あきお)「しおちゃん、パパだぞ~」
渚(なぎさ)「嘘(うそ)ついたらダメですっ」
渚(なぎさ)「この子(こ)、信(しん)じてしまいますっ」
秋生(あきお)「冗談(じょうだん)も通(つう)じねぇのか、てめぇの子(こ)はよ」
秋生(あきお)「おまえはジィさんだろっ!ってツッコンでみせろよ」
秋生(あきお)「渚(なぎさ)使(つか)ってでもいいからよ」
渚(なぎさ)のお腹(なか)はコックピットではない。
秋生(あきお)「しかし、おじいちゃんなんて呼(よ)ばれるのか俺(おれ)は…んなのヤだねぇ」
相変(あいか)わらず我(わ)がままな人(ひと)だった。
秋生(あきお)「というわけで、俺様(おれさま)はアッキーだ。アッキーと呼(よ)ばせよう」
秋生(あきお)「最初(さいしょ)に覚(おぼ)えさせろよ、このクソ親父(おやじ)」
朋也(ともや)「なんでだよ…」
早苗(さなえ)「わたしがそのぐらいになったときも、たくさん話(はな)しかけていましたよ」
秋生(あきお)「ああ、だから、てめぇ、あの時(とき)独(ひと)り言(ごと)がやたら多(おお)かったのか…」
気(き)づけよ。
早苗(さなえ)「このぐらいになると耳(みみ)もちゃんとできていて、外(そと)の音(おと)が聞(き)き取(と)れるんです」
早苗(さなえ)「音楽(おんがく)を聴(き)かせてあげるのもいいですよ」
朋也(ともや)「胎教(たいきょう)というやつですね」
朋也(ともや)「でもこいつの好(す)きな音楽(おんがく)といえば、あれしかないからなあ」
渚(なぎさ)「では、毎日(まいにち)歌(うた)って聞(き)かせます」
渚(なぎさ)「だんご、だんごって」
早苗(さなえ)「それはとってもいいことですね」
朋也(ともや)「まぁ、流行(はや)っている音楽(おんがく)なんかよりはよっぽどいいんだろうな」
渚(なぎさ)「はい。というわけで、みんなで歌(うた)いましょう」
朋也(ともや)「マジで?」
秋生(あきお)「よし、俺(おれ)がリードボーカルしてやるぜ」
秋生(あきお)「小僧(こぞう)、てめぇはドラムな。ツクチーツクチー言(い)ってろ」
秋生(あきお)「ひゅーっ!
カッケー!」
朋也(ともや)「父親(ちちおや)に一番地味(いちばんじみ)な役割(やくわり)を振(ふ)らんでください」
秋生(あきお)「わがままな奴(やつ)だなぁ、じゃあ、あれだ」
秋生(あきお)「次(つぎ)の小節(しょうせつ)の歌詞(かし)を教(おし)える役(やく)」
朋也(ともや)「それ参加(さんか)してないからさ」
渚(なぎさ)「だんごっ、だんごっ」
いつの間(ま)にかひとりで歌(うた)い始(はじ)めていた渚(なぎさ)。
早苗(さなえ)「だんごっ、だんごっ」
早苗(さなえ)さんもそれに続(つづ)く。
俺(おれ)たちもいつしか、それに混(ま)じっていた。
そうして、みんなでひとつの幸(しあわ)せを形作(かたちづく)っていた夏(なつ)が終(お)わる。
残暑(ざんしょ)の厳(きび)しい日(ひ)だった。
ドアを開(あ)けた瞬間(しゅんかん)、それは視界(しかい)に飛(と)び込(こ)んできた。
すぐ目(め)の前(まえ)の床(ゆか)。
くの字(じ)に折(お)れた足(あし)がこちらに向(む)いていた。
靴(くつ)も脱(ぬ)がず駆(か)け寄(よ)り、その体(からだ)を抱(だ)き上(あ)げる。
朋也(ともや)「渚(なぎさ)っ!」
………。
苦(くる)しげに小(ちい)さく呼吸(こきゅう)を繰(く)り返(かえ)すだけで、反応(はんのう)はなかった。
額(ひたい)に触(ふ)れてみる。驚(おどろ)くほどに熱(あつ)かった。
頭(あたま)が真(ま)っ白(しろ)になる。
どうしていいかわからなかった。
渚(なぎさ)が熱(ねつ)をだして、倒(たお)れている。
俺(おれ)は何(なに)をすべきなのだろうか。
朋也(ともや)「渚(なぎさ)っ…」
しばらくその体(からだ)を抱(かか)えたまま、名前(なまえ)を呼(よ)び続(つづ)けることしかできなかった。
朋也(ともや)(とりあえず布団(ふとん)にっ…)
乱暴(らんぼう)に敷(し)いた布団(ふとん)の上(うえ)にその体(からだ)を降(お)ろした時(とき)、ようやく早苗(さなえ)さんの存在(そんざい)を思(おも)い出(だ)した。
電話(でんわ)を引(ひ)っ張(ぱ)ってきて、汗(あせ)の浮(う)かぶ渚(なぎさ)の顔(かお)を見(み)ながらダイヤルを押(お)す。
声(こえ)『あい、古河(ふるかわ)だけど』
オッサンだった。
朋也(ともや)「俺(おれ)だっ、頼(たの)む、早苗(さなえ)さんに代(か)わってくれっ」
秋生(あきお)『ああ、少(すこ)し待(ま)て』
すぐ、早苗(さなえ)さんに取(と)り次(つ)いでくれる。
早苗(さなえ)『はい、早苗(さなえ)です』
朋也(ともや)「朋也(ともや)です。渚(なぎさ)が熱(ねつ)だして、倒(たお)れたんです」
朋也(ともや)「すごい高(たか)い熱(ねつ)なんですっ」
朋也(ともや)「俺(おれ)、どうしたらいいかわからなくて…」
早苗(さなえ)『落(お)ち着(つ)いてください、朋也(ともや)さん』
早苗(さなえ)『大丈夫(だいじょうぶ)です。すぐ行(い)きますから』
朋也(ともや)「は、はい…」
早苗(さなえ)『とりあえず布団(ふとん)に寝(ね)かせて、濡(ぬ)れたタオルを絞(しぼ)って、渚(なぎさ)の額(ひたい)に載(の)せてあげてください』
朋也(ともや)「わかりましたっ…」
早苗(さなえ)『じゃ、待(ま)っててくださいね。八木(やぎ)さんにもわたしから連絡(れんらく)して駆(か)けつけてもらいますので』
朋也(ともや)「はい、お願(ねが)いします」
受話器(じゅわき)を置(お)く。
とりあえずやることができた。
濡(ぬ)らしたタオルを絞(しぼ)って、渚(なぎさ)の額(ひたい)に載(の)せるのだ。
朋也(ともや)「待(ま)ってろ、渚(なぎさ)」
俺(おれ)は立(た)ち上(あ)がった。
朋也(ともや)「ひどいんですか…」
ひとしきりやることを終(お)えた早苗(さなえ)さんに俺(おれ)は訊(き)いた。
早苗(さなえ)「今(いま)は、もう落(お)ち着(つ)いてます。すぐ微熱(びねつ)ぐらいまでは下(さ)がると思(おも)いますよ」
朋也(ともや)「赤(あか)ちゃんのほうは…」
八木(やぎ)「問題(もんだい)ありませんよ。赤(あか)ちゃんも元気(げんき)ですし」
八木(やぎ)「もし心配(しんぱい)なら一度(いちど)診察(しんさつ)を受(う)けてみてください」
朋也(ともや)「そうですか…」
赤(あか)ちゃんが無事(ぶじ)と知(し)り胸(むね)を撫(な)で下(お)ろすと同時(どうじ)に、激(はげ)しい後悔(こうかい)に襲(おそ)われる。
朋也(ともや)「全部(ぜんぶ)、俺(おれ)が悪(わる)いっす…」
朋也(ともや)「もっと早(はや)く休(やす)ませてあげるべきでした…」
早苗(さなえ)「そんなに朋也(ともや)さんが気(き)に病(や)むことはないですよ」
朋也(ともや)「でも、こいつ、すげぇ頑張(がんば)ってたから…」
早苗(さなえ)「それは、この子(こ)が頑張(がんば)りたかったからです。誰(だれ)のせいでもありません」
朋也(ともや)「いや、だったら余計(よけい)に止(と)めないといけなかったんですよ…」
朋也(ともや)「こいつのことなんて、俺(おれ)しかわからないのに…」
早苗(さなえ)「あんまり自分(じぶん)を責(せ)めないでください。今(いま)は、朋也(ともや)さんがしっかりしてないと」
朋也(ともや)「はい…」
八木(やぎ)「それでは、私(わたし)はこれで失礼(しつれい)します」
朋也(ともや)「ありがとうございました」
目(め)を覚(さ)ました渚(なぎさ)は、しばらく自分(じぶん)の置(お)かれた状況(じょうきょう)がわからない様子(ようす)で、首(くび)だけを動(うご)かして辺(あた)りを見回(みまわ)した。
そして、台所(だいどころ)に立(た)つ早苗(さなえ)さんの姿(すがた)を見(み)て、ようやく気(き)づいたようだった。
渚(なぎさ)「ごめんなさい…です…」
俺(おれ)と早苗(さなえ)さんにそう言(い)った。
渚(なぎさ)「迷惑(めいわく)かけてしまいました…」
朋也(ともや)「そんなこといいんだよ」
渚(なぎさ)「晩(ばん)ご飯(はん)作(つく)ります…」
朋也(ともや)「作(つく)れるわけないだろっ」
渚(なぎさ)「すみません…本当(ほんとう)に…」
朋也(ともや)「謝(あやま)るなって言(い)ってるだろ、馬鹿(ばか)」
きつく言(い)ってやらないと、えんえん泣(な)き言(ごと)を言(い)ってそうだった。
朋也(ともや)「今(いま)、早苗(さなえ)さんがお粥(かゆ)作(つく)ってくれてるからな」
朋也(ともや)「だから、大人(おとな)しく待(ま)ってろ」
渚(なぎさ)「はい…」
朋也(ともや)「すみません、本当(ほんとう)に…」
迷惑(めいわく)ばかりかけている早苗(さなえ)さんに俺(おれ)はそう言(い)って頭(あたま)を下(さ)げた。
早苗(さなえ)「もう謝(あやま)るなって、さっき渚(なぎさ)に叱(しか)ってましたよ、朋也(ともや)さん」
朋也(ともや)「はは…一緒(いっしょ)のことしてますね、俺(おれ)…」
本当(ほんとう)に、早苗(さなえ)さんだけには、頭(あたま)が上(あ)がらない。
早苗(さなえ)「それでは、今日(きょう)のところは失礼(しつれい)しますね」
朋也(ともや)「遅(おそ)くまですみません」
早苗(さなえ)「いいえ」
朋也(ともや)「オッサンのほうにも…よろしくお願(ねが)いします」
早苗(さなえ)「はい、話(はな)しておきますね」
二年前(にねんまえ)の夏(なつ)を思(おも)い出(だ)す。
あの日(ひ)も、ずっと、渚(なぎさ)のそばについて手(て)を握(にぎ)っていた。
今(いま)、そうしてあげられるのは夜(よる)だけだった。
日中(にっちゅう)はこれまでと同(おな)じように仕事(しごと)に出(で)ていた。
その間(あいだ)は、早苗(さなえ)さんに任(まか)せっきりだった。
俺(おれ)が帰(かえ)ってくると、夕飯(ゆうはん)の用意(ようい)をして、早苗(さなえ)さんは家(いえ)に帰(かえ)っていく。
そんな毎日(まいにち)。
渚(なぎさ)の熱(ねつ)は…いつまでも下(さ)がらなかった。
洗濯物(せんたくもの)を畳(たたみ)んでいると、電話(でんわ)が鳴(な)った。
出(で)ると、オッサンからだった。
秋生(あきお)『明日(あした)、仕事休(しごとやす)め』
朋也(ともや)「なんだよ、ぶしつけに。いきなり休(やす)めるわけないだろ」
秋生(あきお)『いきなり休(やす)め』
朋也(ともや)「そんなことができる仕事(しごと)じゃないんだよ、わかってくれ」
秋生(あきお)『ちっ…なら、次(つぎ)はいつ休(やす)みが取(と)れるんだ』
朋也(ともや)「わかんねぇよ。休(やす)みが取(と)れても、急(きゅう)に仕事(しごと)が入(はい)るかもしれない」
秋生(あきお)『なんとかしろ、てめぇ、会社(かいしゃ)に乗(の)り込(こ)むぞ、この野郎(やろう)』
朋也(ともや)「なんなんだよ、一体(いったい)。休(やす)みが取(と)れたら、どうするつもりだ」
秋生(あきお)『てめぇを連(つ)れていきたい場所(ばしょ)があんだよ』
朋也(ともや)「どんな場所(ばしょ)だよ。いかがわしい場所(ばしょ)だったら、怒(おこ)るぞ、俺(おれ)は」
秋生(あきお)『安心(あんしん)しろ。そんなに楽(たの)しい話(はなし)にはならないはずだ』
朋也(ともや)「………」
朋也(ともや)「…わかったよ。努力(どりょく)はしてみる」
秋生(あきお)『ああ、休(やす)みが取(と)れたら連絡(れんらく)してこい』
朋也(ともや)「ああ」
受話器(じゅわき)を置(お)く。
渚(なぎさ)「お父(とう)さんですか」
朋也(ともや)「ああ」
渚(なぎさ)「また無茶(むちゃ)なこと言(い)ってきましたか」
朋也(ともや)「いや…」
オッサンにしては、真剣(しんけん)な様子(ようす)だった。
幸運(こううん)なことに、二日後(ふつかご)には休(やす)みが取(と)れた。
朋也(ともや)「すみません、早苗(さなえ)さん」
早苗(さなえ)「いえ。楽(たの)しんできてください」
朋也(ともや)「違(ちが)いますよ。遊(あそ)びにいくんじゃないんです」
朋也(ともや)「なんかオッサンにしては、マジな用(よう)みたいっす」
早苗(さなえ)「そうですか。せっかくの休(やす)みなのに、ごめんなさい」
朋也(ともや)「いえ、俺(おれ)こそ、休(やす)みの日(ひ)ぐらいは早苗(さなえ)さんに休(やす)んでほしかったんですけど…」
早苗(さなえ)「休(やす)むもなにも、なにひとつ大変(たいへん)なんてわたしは思(おも)ってませんよ」
朋也(ともや)「だったら、いいですけど…」
朋也(ともや)「じゃ、いってくるっす」
朋也(ともや)「渚(なぎさ)、いってくるな」
渚(なぎさ)「はい、いってらっしゃいです」
顔(かお)だけをこちらに向(む)けて、見送(みおく)ってくれた。
秋生(あきお)「よぅ」
朋也(ともや)「店(みせ)のほうはいいのか?」
秋生(あきお)「ああ、無人販売(むじんはんばい)にしておいた」
朋也(ともや)「え?」
秋生(あきお)「店番(みせばん)はいねぇけど、ちゃんと金(きん)置(お)いてけって、書(か)き置(お)きしてある」
秋生(あきお)「それで大丈夫(だいじょうぶ)なんだよ」
心配(しんぱい)するなと言(い)うように、睨(にら)みつけられた。
朋也(ともや)「で、どんな楽(たの)しくない場所(ばしょ)に行(い)くって?」
秋生(あきお)「ついてくればわかる」
いつだって一方的(いっぽうてき)な人(ひと)だった。
町(まち)の外(はず)れへ出(で)て、山(やま)を迂回(うかい)して辿(たど)り着(つ)いた場所(ばしょ)。
自然(しぜん)に囲(かこ)まれ、秘密(ひみつ)の場所(ばしょ)のようにあった。
秋生(あきお)「ここはな、俺(おれ)の遊(あそ)び場(ば)だったんだ」
秋生(あきお)「ずっと、ここでガキ共(ども)と野球(やきゅう)したり、こうしてぼぅ~っとしたりしてた」
この人(ひと)は、よく仕事(しごと)をほっぽりだしていなくなると思(おも)っていたら、ここでそんなことをしていたのだ。
呆(あき)れた人(ひと)だ。
秋生(あきお)「どんどん自然(しぜん)が削(けず)られていってよ、今(いま)じゃこうしてでけぇ建物(たてもの)をおったてようとしてる」
秋生(あきお)「もう野球(やきゅう)なんてできやしねぇし、眺(なが)めもよくねぇよ…」
朋也(ともや)「………」
秋生(あきお)「この町(まち)はさ、変(か)わり続(つづ)けていく」
秋生(あきお)「それは、どうも、止(と)めようがねぇみたいだ」
朋也(ともや)「ああ、そうみたいだな…」
俺(おれ)だけじゃなかったんだ。オッサンも同(おな)じことを思(おも)っていたのだ。
そして、それはふたりだけじゃなく、もっとたくさんの人間(にんげん)が思(おも)っていることなのかもしれない。
秋生(あきお)「別(べつ)に俺(おれ)は自然(しぜん)を守(まも)ろうなんてことは思(おも)いもしねぇ」
秋生(あきお)「町(まち)は人(ひと)のために変(か)わり続(つづ)けていくべきだとも思(おも)う」
秋生(あきお)「だけどな…この場所(ばしょ)だけは変(か)わってほしくなかったんだよ」
特別(とくべつ)な…場所(ばしょ)なんだろうか。
秋生(あきお)「これは、二年前(にねんまえ)の話(はなし)の続(つづ)きだ」
チッとライターの火(ひ)をつける音(おと)が聞(き)こえた。
秋生(あきお)「渚(なぎさ)が命(いのち)を落(お)としかけた時(とき)の話(はなし)だよ」
そう言(い)って、話(はなし)を始(はじ)めた。
家(いえ)に帰(かえ)り着(つ)いた俺(おれ)は、用意(ようい)してあった晩(ばん)ご飯(はん)を食(た)べ、早苗(さなえ)さんを見送(みおく)ってから、渚(なぎさ)とふたりきりになった。
渚(なぎさ)「今日(きょう)はどうでしたか」
朋也(ともや)「いや、別(べつ)になんにもないよ」
渚(なぎさ)「そうですか」
渚(なぎさ)はオッサンとのことを追及(ついきゅう)してこなかった。
多分(たぶん)、俺(おれ)の声(こえ)が、それを拒(こば)んでしまっていたのだろう。
朋也(ともや)「………」
他(ほか)に話題(わだい)もなくて、ふたりは黙(だま)りこむ。
扇風機(せんぷうき)だけが低(ひく)い唸(うな)りをあげている。
静(しず)かな夜(よる)だった。
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん…」
渚(なぎさ)が小(ちい)さな声(こえ)をあげていた。
一瞬(いっしゅん)後(あと)に、それに気(き)づく。
朋也(ともや)「ん、なんだ。どうした」
渚(なぎさ)「えっと…」
渚(なぎさ)「手(て)…」
そう言(い)って、布団(ふとん)の中(なか)から白(しろ)い手(て)を出(だ)した。
朋也(ともや)「あ、ああ」
そばまで寄(よ)っていって、それを握(にぎ)ってやった。
渚(なぎさ)「すみません…」
朋也(ともや)「いや…」
もう一方(いっぽう)の手(て)も添(そ)えて、両手(りょうて)で渚(なぎさ)の手(て)を包(つつ)んでやる。
朋也(ともや)「暑(あつ)くないか」
渚(なぎさ)「大丈夫(だいじょうぶ)です。ずっとそうしていてほしいです」
朋也(ともや)「ああ…ずっとこうしてるよ」
秋生(あきお)「あれは本当(ほんとう)に悲(かな)しい出来事(できごと)だったんだ」
細長(ほそなが)い煙(けむり)を吐(つ)いた後(あと)、オッサンはそう切(き)り出(だ)した。
秋生(あきお)「十年以上(じゅうねんいじょう)も昔(むかし)の話(はなし)だ」
秋生(あきお)「俺(おれ)は当時(とうじ)、劇団(げきだん)の団員(だんいん)で、バイトと稽古(けいこ)漬(づ)けの日々(ひび)だった」
秋生(あきお)「早苗(さなえ)は教師(きょうし)をしていた。近(ちか)くの、私立(しりつ)の中学校(ちゅうがっこう)で教鞭(きょうべん)をとっていた」
秋生(あきお)「お互(たが)いそれが目指(めざ)していた職業(しょくぎょう)だったからな…俺(おれ)たちは夢中(むちゅう)だったんだ」
秋生(あきお)「だから、渚(なぎさ)はいつもひとりだった」
秋生(あきお)「俺(おれ)たちは、日中(にっちゅう)は出(で)ていたから、渚(なぎさ)は夜(よる)以外(いがい)は、いつもひとりで居(い)た」
秋生(あきお)「それで…いつだって、俺(おれ)たちの帰(かえ)りを家(いえ)の門(もん)の前(まえ)に立(た)って、待(ま)ってたんだ」
秋生(あきお)「早苗(さなえ)が先(さき)に帰(かえ)ってくることがほとんどだった。仕事柄(しごとがら)、そんなに遅(おそ)くなることはなかったからな」
秋生(あきお)「そうしたら、渚(なぎさ)が、門(もん)の前(まえ)で待(ま)ってる」
秋生(あきお)「早苗(さなえ)は、その小(ちい)さな渚(なぎさ)の手(て)を引(ひ)いて、家(いえ)の中(なか)に連(つ)れて入(はい)る」
秋生(あきお)「ごめんなさい、って言(い)ってな…」
秋生(あきお)「渚(なぎさ)のやつはううん、て首(くび)を振(ふ)るんだが、いつだって、涙(なみだ)を目(め)の端(はし)に溜(た)めてたらしい」
秋生(あきお)「そんな毎日(まいにち)だったんだ」
秋生(あきお)「けど、ある日(ひ)、渚(なぎさ)が風邪(かぜ)を引(ひ)いて熱(ねつ)を出(だ)しやがった」
秋生(あきお)「寒(さむ)い日(ひ)だった。雪(ゆき)が降(お)り積(つ)もっていた」
秋生(あきお)「誰(だれ)も外(そと)に出(で)たがらないような日(ひ)だった」
秋生(あきお)「そのとき…俺(おれ)は年末(ねんまつ)に大(おお)きな公演(こうえん)を控(ひか)えていた。早苗(さなえ)は、教(おし)え子(ご)どもが受験(じゅけん)を目前(もくぜん)としていた」
秋生(あきお)「お互(たが)い、譲(ゆず)れない時期(じき)だったんだ」
秋生(あきお)「だから、俺(おれ)たちは、渚(なぎさ)を寝(ね)かせたままで家(いえ)を出(で)たんだ」
秋生(あきお)「しかし…」
秋生(あきお)「やっぱり渚(なぎさ)は、その日(ひ)も待(ま)ってたんだ。門(もん)の前(まえ)で」
秋生(あきお)「後(あと)から考(かんが)えると、それは予想(よそう)できることだった」
秋生(あきお)「でもその時(とき)の俺(おれ)たちは、まさかと思(おも)ったんだ」
秋生(あきお)「俺(おれ)たちは気(き)づくべきだったんだよ…」
秋生(あきお)「それは、あいつの精一杯(せいいっぱい)の訴(うった)えだったんだ」
秋生(あきお)「いつだって大人(おとな)しくて、言葉少(ことばずく)ない渚(なぎさ)の…」
秋生(あきお)「ずっとそばに居(い)てほしい、っていう訴(うった)えだったんだ」
秋生(あきお)「だから、その日(ひ)も、同(おな)じことをしていただけなんだ、あいつは…」
秋生(あきお)「自分(じぶん)が熱(ねつ)を出(だ)してることなんて、どうでもよかったんだ…」
秋生(あきお)「俺(おれ)が家(いえ)に帰(かえ)り着(つ)いたとき、渚(なぎさ)は家(いえ)の前(まえ)で倒(たお)れていた」
秋生(あきお)「雪(ゆき)の中(なか)に埋(う)もれるようにして」
秋生(あきお)「残酷(ざんこく)な話(はなし)だ…」
秋生(あきお)「俺(おれ)たちは、自分(じぶん)たちの過(あやま)ちを知(し)るために、一番(いちばん)、大切(たいせつ)なものを傷(きず)つけてしまったんだからな…」
秋生(あきお)「………」
秋生(あきお)「すぐに家(いえ)の中(なか)に運(はこ)び込(こ)んで、医者(いしゃ)を呼(よ)んだ」
秋生(あきお)「駆(か)けつけた医者(いしゃ)は、あらゆる処置(しょち)を施(ほどこ)した」
秋生(あきお)「それでも…熱(ねつ)は下(さ)がらなくて…」
秋生(あきお)「明(あ)け方(がた)には、もう…」
秋生(あきお)「………」
秋生(あきお)「あんな悲(かな)しいことなんて、知(し)らなかった…」
秋生(あきお)「俺(おれ)も早苗(さなえ)も絶望(ぜつぼう)した…」
秋生(あきお)「真(ま)っ暗(くら)な谷(たに)の底(そこ)に突(つ)き落(お)とされたんだ…」
秋生(あきお)「もう這(は)い上(あ)がれないと思(おも)った…」
秋生(あきお)「俺(おれ)は渚(なぎさ)の体(からだ)を抱(かか)えて…」
秋生(あきお)「外(そと)に出(で)た」
秋生(あきお)「俺(おれ)にはもう祈(いの)るしかできなかったんだ」
秋生(あきお)「こんな最後(さいご)は嫌(いや)だ…」
秋生(あきお)「この子(こ)を助(たす)けてくれって…」
秋生(あきお)「闇雲(やみくも)に駆(か)けて…」
秋生(あきお)「俺(おれ)は…ここに辿(たど)り着(つ)いていた」
秋生(あきお)「そして、ここの緑(みどり)が…渚(なぎさ)を包(つつ)み込(こ)んだ気(き)がした」
秋生(あきお)「全部(ぜんぶ)夢(ゆめ)なのかと思(おも)った」
秋生(あきお)「でも、残(のこ)されたものは形(かたち)としてあった」
秋生(あきお)「朝(あさ)の光(ひかり)の中(なか)で…渚(なぎさ)が目(め)を開(ひら)いて、俺(おれ)のことを見(み)ていたんだ」
秋生(あきお)「涙(なみだ)があふれ出(で)たよ」
秋生(あきお)「すべてのものに感謝(かんしゃ)した」
秋生(あきお)「そして、誓(ちか)った。ずっとこいつのそばに居(い)ようって」
秋生(あきお)「それ以来(いらい)…」
秋生(あきお)「ずっと、この場所(ばしょ)を見(み)てきた」
秋生(あきお)「この場所(ばしょ)が、あいつの分身(ぶんしん)のように思(おも)えてならなかったんだ…」
秋生(あきお)「なぁ、小僧(こぞう)」
秋生(あきお)「おまえが今(いま)の話(はなし)をどこまで信(しん)じるかは自由(じゆう)だけどよ…」
秋生(あきお)「でもな、これからはおまえにも、苦(くる)しいことや、悲(かな)しいことが待(ま)ってるかもしれない」
秋生(あきお)「いいか、小僧(こぞう)…」
オッサンが俺(おれ)の顔(かお)を見(み)た。
秋生(あきお)「いや、朋也(ともや)」
その目(め)に力(ちから)がこもった。
秋生(あきお)「俺(おれ)たちは、家族(かぞく)だ」
秋生(あきお)「助(たす)け合(あ)っていくぞ」
朋也(ともや)「………」
朋也(ともや)「あ、ああ…」
俺(おれ)はただ、頷(うなず)くしかできなかった。
俺(おれ)は渚(なぎさ)の手(て)を握(にぎ)ったまま、オッサンの話(はなし)を反(はん)すうしていた。
俺(おれ)は何一(なにひと)つ理解(りかい)していなかった。
オッサンが何(なに)を言(い)いたかったのか。
ただ、ひとつだけ、漠然(ばくぜん)と伝(つた)わったものがある。
それは、俺(おれ)がずっと胸(むね)の痛(いた)みとして感(かん)じていたものと同(おな)じだった。
この町(まち)は変(か)わっていく。
そして、俺(おれ)たちはその大(おお)きな波(なみ)に揉(も)まれ…離(はな)れ、遠(とお)ざかっていく。
圧倒的(あっとうてき)な力(ちから)が、渚(なぎさ)を奪(うば)い、連(つ)れ去(さ)っていく。
いつか…
いつか、この繋(つな)いだ手(て)も離(はな)れていくのだろうか。
そんな日(ひ)を思(おも)いたくない。
そんな辛(つら)すぎる日(ひ)を思(おも)いたくない。
渚(なぎさ)…
ずっといてくれるよな、この俺(おれ)のそばに…。
新(あたら)しく生(う)まれてくる…俺(おれ)たちの子供(こども)と共(とも)に…。
あれからしばらく日(ひ)が経(た)ち…
俺(おれ)は、渚(なぎさ)が眠(ねむ)っている隙(すき)に、また、ここに来(き)ていた。
──そして、ここの緑(みどり)が、渚(なぎさ)を包(つつ)み込(こ)んだ気(き)がした…
だったら、なんだ。
この場所(ばしょ)が渚(なぎさ)の命(いのち)を救(すく)ったというのだろうか。
──これからはおまえにも、苦(くる)しいことや、悲(かな)しいことが待(ま)ってるかもしれない…
それとも、これは…象徴(しょうちょう)なのだろうか。
変(か)わらないものはどこにもないという。
町(まち)に残(のこ)る自然(しぜん)も、大事(だいじ)な人(ひと)も…。
なら、渚(なぎさ)も…
この場所(ばしょ)と共(とも)に…
なくなってしまうと…
そう言(い)いたかったのだろうか。
その日(ひ)は俺(おれ)の仕事(しごと)も休(やす)みで、朝(あさ)から渚(なぎさ)のそばにいた。
俺(おれ)の作(つく)った粥(かゆ)をふたりで食(た)べ、後片(あとかた)づけを終(お)えたところで…
トントン。
ドアをノックする音(おと)。
朋也(ともや)「ん?
はい」
出(で)ると、そこには早苗(さなえ)さんが立(た)っていた。
朋也(ともや)「あれ、どうしたんですか」
早苗(さなえ)「暇(ひま)だから、きちゃいました」
朋也(ともや)「今日(きょう)は俺(おれ)がいますから、早苗(さなえ)さんは家(いえ)にいてくださいよ」
早苗(さなえ)「お邪魔(じゃま)でしたか?」
朋也(ともや)「まさか…そんなことはないっすけど」
早苗(さなえ)「じゃ、お邪魔(じゃま)させてもらいますね」
靴(くつ)を脱(ぬ)いで、揃(そろ)えてから俺(おれ)に向(む)き直(なお)った。
早苗(さなえ)「もう、ご飯(はん)は食(た)べましたか?」
朋也(ともや)「はい、さっきちょうど」
早苗(さなえ)「わたし、食(た)べてないんです。作(つく)って、食(た)べてもいいですか」
朋也(ともや)「え、ええ、もちろん」
こんなところで食(た)べなくても、家(いえ)でオッサンと食(た)べたほうがいいだろうに、と思(おも)った。
なんだか、オッサンが可哀想(かわいそう)だった。
台所(だいどころ)に立(た)った早苗(さなえ)さんが、流(なが)しの戸(と)を開(あ)けて、動(うご)きを止(と)めていた。
早苗(さなえ)「あ…」
早苗(さなえ)「お米(こめ)、もうないです」
朋也(ともや)「え、そうでしたっけ」
早苗(さなえ)「買(か)ってこないとまずいですね」
朋也(ともや)「俺(おれ)、ひとっ走(はし)り行(い)ってきますよ。早苗(さなえ)さんは待(ま)っててください」
早苗(さなえ)「いえ、わたしが行(い)ってきます」
朋也(ともや)「いや、渚(なぎさ)と話(はなし)でもしててくださいよ」
早苗(さなえ)「わたし、外(そと)で食事(しょくじ)もとってきますから、その帰(かえ)りに買(か)ってきます」
朋也(ともや)「でも、米(こめ)を任(まか)せるわけには…」
渚(なぎさ)「おふたりで、行(い)ってきてはどうですか」
渚(なぎさ)が、こっちに顔(かお)を向(む)けてそう言(い)っていた。
朋也(ともや)「え…?」
渚(なぎさ)「お母(かあ)さんがひとりでご飯(はん)食(た)べるのも、寂(さび)しいです」
渚(なぎさ)「一緒(いっしょ)に朋也(ともや)くん、ついていってあげてください。それで、帰(かえ)りにお米(こめ)を買(か)ってきてください」
渚(なぎさ)「お願(ねが)いします」
朋也(ともや)「いや…でも…」
早苗(さなえ)「渚(なぎさ)、ごめんなさい。少(すこ)しだけ、朋也(ともや)さん、借(か)りますね」
渋(しぶ)っている俺(おれ)を手(て)で制(せい)して、早苗(さなえ)さんはそう答(こた)えた。
俺(おれ)は意外(いがい)に思(おも)った。早苗(さなえ)さんが自然(しぜん)に取(と)る行動(こうどう)じゃなかった。
渚(なぎさ)「はい、ぜんぜん大丈夫(だいじょうぶ)です」
渚(なぎさ)はそのことにはまるで気(き)づかないように、俺(おれ)たちを見送(みおく)った。
早苗(さなえ)「すみません、朋也(ともや)さん」
朋也(ともや)「はい?」
早苗(さなえ)「ご飯(はん)なんかに付(つ)き合(あ)わせてしまって…」
朋也(ともや)「いえ、いいんですよ。渚(なぎさ)もああ言(い)ってくれてましたし」
朋也(ともや)「一時間(いちじかん)ぐらいで戻(もど)ってきましょう」
早苗(さなえ)「そうですね」
朋也(ともや)「ここ、渚(なぎさ)が働(はたら)いてた場所(ばしょ)なんですよ」
早苗(さなえ)「はい、聞(き)いています」
朋也(ともや)「店長(てんちょう)も、顔見知(かおみし)りですし…ここでいいですよね」
早苗(さなえ)「はい、構(かま)わないですよ」
早苗(さなえ)「へぇ~」
早苗(さなえ)さんは店内(てんない)を見回(みまわ)して、感嘆(かんたん)する。
早苗(さなえ)「ナウい店(みせ)ですね」
朋也(ともや)「それ死語(しご)っす」
早苗(さなえ)「はは、でも、こんなところで食(た)べるのは初(はじ)めてなので緊張(きんちょう)しちゃいますね」
朋也(ともや)「外食(がいしょく)なんてしないでしょ?」
早苗(さなえ)「そうですね、しないです」
朋也(ともや)「オッサンは?
ひとりで留守番(るすばん)すか」
早苗(さなえ)「はい、店番(みせばん)、押(お)しつけてきちゃいました」
早苗(さなえ)「朋也(ともや)さんとデートするために」
朋也(ともや)「今(いま)、かなり、どきっとしました」
早苗(さなえ)「こんなおばさんでも、どきっとしてくれますか」
朋也(ともや)「早苗(さなえ)さん若(わか)いっすよ、まじで」
早苗(さなえ)「うれしいです」
早苗(さなえ)さんはフルーツジュースを、俺(おれ)はアイスコーヒーを頼(たの)んだ。
朋也(ともや)「昼(ひる)、食(た)べないんですか」
早苗(さなえ)「はい、食(た)べてきてます」
朋也(ともや)「…?」
ウェイトレスが、ジュースとアイスコーヒーを置(お)いていく。
早苗(さなえ)さんが、グラスを手(て)に取(と)り、ストローからオレンジ色(いろ)をしたジュースを吸(す)い込(こ)んだ。
そうして喉(のど)を潤(うるお)してから、言(い)った。
早苗(さなえ)「出産(しゅっさん)…難(むずか)しいそうです」
朋也(ともや)「…え?」
一瞬(いっしゅん)なんのことだかわからなかった。
だが、その言葉(ことば)の重(おも)みに気(き)づくと、もう俺(おれ)は顔(かお)を伏(ふ)せることしかできなかった。
早苗(さなえ)「このままだと、母胎(ぼたい)も危険(きけん)だと…」
早苗(さなえ)「いつも診(み)てくださってる、先生(せんせい)のご意見(いけん)です」
早苗(さなえ)「決断(けつだん)するなら早(はや)いほうがいい、と…」
今(いま)までの早苗(さなえ)さんは、精一杯(せいいっぱい)の空元気(からげんき)だったのだ。
この話(はなし)をするためだけに状況(じょうきょう)を作(つく)ってくれた。
この…辛(つら)い話(はなし)をするために。
朋也(ともや)「早(はや)いほうがいいってのは…その…」
早苗(さなえ)「はい。堕胎(だたい)するなら、ということです」
早苗(さなえ)さんは、言(い)いづらい言葉(ことば)をすべて代(か)わりに言(い)ってくれた。
早苗(さなえ)「もちろん、渚(なぎさ)の熱(あつ)が下(さ)がればいいんです」
早苗(さなえ)「でも、朋也(ともや)さんもご存(ぞん)じのように…渚(なぎさ)の熱(ねつ)は長引(ながび)くんです」
早苗(さなえ)「だから、先生(せんせい)はそういうご意見(いけん)を…」
朋也(ともや)「そうですか…」
早苗(さなえ)「どうか、朋也(ともや)さん」
早苗(さなえ)「渚(なぎさ)とそのことを話(はな)し合(あ)ってみてください」
早苗(さなえ)「少(すこ)し時間(じかん)はかかっても構(かま)いません」
早苗(さなえ)「とても大切(たいせつ)な話(はなし)ですから」
朋也(ともや)「はい…」
朋也(ともや)「早苗(さなえ)さん」
早苗(さなえ)「はい」
朋也(ともや)「いつも…俺(おれ)たちのために、ありがとうございます」
早苗(さなえ)「いえ」
早苗(さなえ)「家族(かぞく)ですからっ」
にっこりと微笑(ほほえ)んでくれる。
それはとても、救(すく)いだった。
渚(なぎさ)「お母(かあ)さんとのお食事(しょくじ)、楽(たの)しかったですか」
朋也(ともや)「あ、ああ…」
渚(なぎさ)「お母(かあ)さん、若(わか)く見(み)えますから、デートみたいです」
朋也(ともや)「かもな…」
渚(なぎさ)「お米(こめ)は、ちゃんと買(か)ってきましたか」
朋也(ともや)「いや…」
渚(なぎさ)「買(か)ってこなかったんですか?」
朋也(ともや)「ああ…忘(わす)れてたよ…」
渚(なぎさ)「そうですか…」
朋也(ともや)「………」
渚(なぎさ)「元気(げんき)…ないみたいです」
朋也(ともや)「………」
渚(なぎさ)「どうしましたか、朋也(ともや)くん」
朋也(ともや)「………」
朋也(ともや)「あのな、渚(なぎさ)」
渚(なぎさ)「はい」
言(い)わなければならなかった。
朋也(ともや)「子供(こども)さ…」
朋也(ともや)「産(う)むの…難(むずか)しいってさ…」
渚(なぎさ)「………」
渚(なぎさ)「わたし、産(う)みたいです」
それは…当然(とうぜん)の返事(へんじ)だった。
朋也(ともや)「渚(なぎさ)、よく考(かんが)えようぜ…」
でも俺(おれ)は…説得(せっとく)しなければならない…。
渚(なぎさ)を守(まも)るために…。
朋也(ともや)「今(いま)の体(からだ)で産(う)めば、子供(こども)だって不幸(ふこう)になるかもしれない…」
朋也(ともや)「それに…おまえも…」
朋也(ともや)「俺(おれ)、そんなの嫌(いや)だからな…」
渚(なぎさ)「………」
渚(なぎさ)「…わたし、がんばりたいです」
渚(なぎさ)「ダメでしょうか」
朋也(ともや)「………」
朋也(ともや)「時間(じかん)はまだあるからさ…よく話(はな)し合(あ)おう…」
朋也(ともや)「今(いま)はまだ決(き)めなくていいから…」
次(つぎ)の日(ひ)も、俺(おれ)たちは話(はな)し合(あ)った。
けど…渚(なぎさ)の決心(けっしん)は変(か)わらなかった。
渚(なぎさ)「わたしの弱(よわ)さのために…」
渚(なぎさ)「ひとの命(いのち)が消(き)えてしまうなんて、わたしには堪(た)えられないです…」
渚(なぎさ)はもう形(かたち)になっている…ふたりで見(み)た命(いのち)…
汐(うしお)を、両手(りょうて)で守(まも)るように押(お)さえた。
渚(なぎさ)「それが自分(じぶん)の子(こ)なら、なおさらです」
渚(なぎさ)「わたしの強(つよ)さで産(う)んであげたいです」
渚(なぎさ)「母親(ははおや)の強(つよ)さで…」
朋也(ともや)「………」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くんと出会(であ)って、わたしは強(つよ)く生(い)きようとがんばってきました」
渚(なぎさ)「こんな…一番大事(いちばんだいじ)なところで、挫(くじ)けたくないです」
渚(なぎさ)「しおちゃんを産(う)んであげたいです」
朋也(ともや)「………」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん…」
渚(なぎさ)「体(からだ)が弱(よわ)いわたしですけど…」
渚(なぎさ)「どうか…」
渚(なぎさ)「強(つよ)く生(い)きさせてください」
朋也(ともや)「………」
朋也(ともや)「おまえはさ…」
朋也(ともや)「十分(じゅうぶん)強(つよ)いよ…」
朋也(ともや)「すごく強(つよ)くなったよ…」
朋也(ともや)「もう、いいじゃないか…」
朋也(ともや)「もう…」
途中(とちゅう)から…涙声(なみだごえ)になってしまう。
朋也(ともや)「俺(おれ)のほうがよっぽど弱(よわ)いよ…」
朋也(ともや)「恐(こわ)いんだよ、俺(おれ)は…」
朋也(ともや)「失(うしな)ってしまうのが…」
朋也(ともや)「おまえを失(うしな)ってしまうのが、恐(こわ)いんだよ…」
渚(なぎさ)「…わたしは、大丈夫(だいじょうぶ)です」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くんが居(い)てくれれば」
渚(なぎさ)「手(て)を握(にぎ)っててくれれば…がんばれます」
渚(なぎさ)「この子(こ)の、母親(ははおや)として…」
渚(なぎさ)「だから…朋也(ともや)くんも、この子(こ)のお父(とう)さんとして、わたしの手(て)を握(にぎ)っててください」
渚(なぎさ)「お願(ねが)いします」
早苗(さなえ)「朋也(ともや)さん…疲(つか)れてますね」
朋也(ともや)「体(からだ)は元気(げんき)ですよ…」
朋也(ともや)「ただ…」
朋也(ともや)「もう…どうしたらいいか、全然(ぜんぜん)わからなくって…」
朋也(ともや)「俺(おれ)が言(い)ってることは、すごく残酷(ざんこく)なことかもしれない…」
朋也(ともや)「それは、あいつを挫(くじ)けさせ、立(た)ち直(なお)れなくするぐらいに…」
朋也(ともや)「そりゃあ、俺(おれ)だって産(う)んでほしい…自分(じぶん)の子供(こども)です…」
朋也(ともや)「ここまで一緒(いっしょ)に見守(みまも)ってきた命(いのち)です…」
朋也(ともや)「名前(なまえ)までつけた…」
朋也(ともや)「でも、俺(おれ)は…」
朋也(ともや)「俺(おれ)は…」
朋也(ともや)「不安(ふあん)で仕方(しかた)がないんですよ…」
朋也(ともや)「不安(ふあん)で…」
朋也(ともや)「俺(おれ)は…」
朋也(ともや)「渚(なぎさ)に…」
朋也(ともや)「渚(なぎさ)に生(い)き続(つづ)けてほしい…」
早苗(さなえ)「朋也(ともや)さん、少(すこ)し休(やす)んでください」
朋也(ともや)「眠(ねむ)れやしないっすよ…」
早苗(さなえ)「それでもいいです。体(からだ)を横(よこ)にするだけでも」
早苗(さなえ)「あの子(こ)も疲(つか)れてると思(おも)います。ですから、今晩(こんばん)はふたり、距離(きょり)を置(お)いてください」
早苗(さなえ)「わたしが朋也(ともや)さんの家(いえ)に泊(と)まります」
早苗(さなえ)「ですから、朋也(ともや)さんは、わたしの家(いえ)で休(やす)んでください」
朋也(ともや)「そんな迷惑(めいわく)かけられないっすよ…」
早苗(さなえ)「これは、一番近(いちばんちか)くで見(み)ている者(もの)としての意見(いけん)ですよ」
早苗(さなえ)「今(いま)は、お互(たが)いが相手(あいて)を疲(つか)れさせています」
早苗(さなえ)「ふたりは、少(すこ)しだけでもいいので距離(きょり)を置(お)くべきです」
早苗(さなえ)「でないと、息(いき)が詰(つ)まってしまいますよ」
朋也(ともや)「………」
早苗(さなえ)さんの言(い)う通(とお)りだと思(おも)った。
早苗(さなえ)「お願(ねが)いします、朋也(ともや)さん」
朋也(ともや)「はい…」
朋也(ともや)「一晩(ひとばん)世話(せわ)になるよ…」
秋生(あきお)「ちっ…嫁(よめ)を寝取(ねと)られたようなシケたツラしてんじゃねぇよ」
朋也(ともや)「それ以上(いじょう)にシケたツラになってると思(おも)うけどな…」
秋生(あきお)「しゃあねぇ奴(やつ)だな…酒(さけ)でも呑(の)むか。酔(よ)ったら、嫌(いや)でも寝(ね)られるだろ」
朋也(ともや)「今(いま)呑(の)んだら、泣(な)くか笑(わら)うか暴(あば)れるか、しそうだ…」
秋生(あきお)「大丈夫(だいじょうぶ)だ」
秋生(あきお)「泣(な)いても笑(わら)っても暴(あば)れても、俺(おれ)が抑(おさ)えつけてやるからよ」
秋生(あきお)「よしっ、上(あ)がれ」
オッサンと同(おな)じペースで呑(の)み続(つづ)ける。
こんなにアルコールを入(い)れたのは初(はじ)めて、というほどの量(りょう)。
床(ゆか)には空(そら)の缶(かん)や瓶(びん)が増(ふ)えていく。
朋也(ともや)「なぁ、オッサン…」
秋生(あきお)「なんだ」
朋也(ともや)「オッサンだったら、どうするんだよ、俺(おれ)の立場(たちば)に立(た)ったら…」
秋生(あきお)「ちっ…知(し)るか。俺(おれ)はその立場(たちば)に立(た)ってねぇ」
朋也(ともや)「例(たと)えじゃないか」
朋也(ともや)「じゃ、早苗(さなえ)さんがもし、そうだったとしたら…」
朋也(ともや)「早苗(さなえ)さんが、体(からだ)が弱(よわ)いのに、子供(こども)を産(う)みたいと言(い)ってきたらだ」
秋生(あきお)「本人(ほんにん)が産(う)みてぇって言(い)うんなら…そうさせるかもな」
朋也(ともや)「どうしてだよっ?
それで早苗(さなえ)さん、死(し)んじゃうかもしれないんだぜ!?」
秋生(あきお)「勝手(かって)に早苗(さなえ)を殺(ころ)すなぁーーっ!!」
朋也(ともや)「例(たと)えだって言(い)ってるだろっ」
秋生(あきお)「ちっ…」
秋生(あきお)「なぁ、朋也(ともや)。俺(おれ)はこう思(おも)うんだ」
秋生(あきお)「結局(けっきょく)、人(ひと)が生(い)きる意味(いみ)は、家族(かぞく)や愛(あい)す人(ひと)の中(なか)にあるんじゃないかってな…」
秋生(あきお)「だから俺(おれ)たちは…」
秋生(あきお)「あの日(ひ)、自分(じぶん)たちの夢(ゆめ)を諦(あきら)めて、それを渚(なぎさ)に託(たく)すことができた…」
秋生(あきお)「ひとりで生(い)きてたって、いいことなんてありゃしねぇよ…」
秋生(あきお)「遠(とお)い星(ほし)で、ひとりで暮(く)らしてみろ」
秋生(あきお)「何(なに)を糧(かて)に生(い)きていける?」
秋生(あきお)「なんにもねぇだろ」
秋生(あきお)「だから、人(ひと)は繋(つな)がってる」
秋生(あきお)「誰(だれ)かと繋(つな)がっていて、初(はじ)めて、生(い)きている、と実感(じっかん)できる」
秋生(あきお)「喜(よろこ)びも生(う)まれる」
秋生(あきお)「だから、それを否定(ひてい)するなんてことはしたくねぇんだよ…俺(おれ)は…」
朋也(ともや)「………」
秋生(あきお)「今(いま)のは俺(おれ)の考(かんが)えだ。気(き)にするな」
朋也(ともや)「………」
朋也(ともや)「もっと、早(はや)く気(き)づいていればよかったんだろうか…」
朋也(ともや)「あんなにも大(おお)きくならないうちに…」
秋生(あきお)「いや…」
秋生(あきお)「おまえなら、わかるだろ」
秋生(あきお)「それは関係(かんけい)ない」
朋也(ともや)「じゃ、俺(おれ)が悪(わる)いんだ…」
秋生(あきお)「それも違(ちが)うな」
秋生(あきお)「これは…」
秋生(あきお)「いつか訪(おとず)れることだったんだよ」
秋生(あきお)「あいつが人並(ひとな)みを求(もと)める以上(いじょう)」
朋也(ともや)「………」
秋生(あきお)「あいつが、求(もと)めたんだ」
秋生(あきお)「自分(じぶん)を責(せ)めるな」
秋生(あきお)「………」
オッサンはくわえたタバコに火(ひ)をつける。
秋生(あきお)「ふぅ…」
煙(けむり)を吐(つ)くだけで、もう何(なに)も言葉(ことば)にしない。
朋也(ともや)「………」
俺(おれ)は最後(さいご)まで黙(だま)ったままで…その煙(けむり)の消(き)えていく先(さき)を見(み)つめていた。
秋生(あきお)「そろそろ、寝(ね)るか…」
時間(じかん)は、午前(ごぜん)3時(じ)を回(まわ)っていた。
消灯(しょうとう)してからもやっぱり俺(おれ)は眠(ねむ)れなくて…
ずっと考(かんが)え事(ごと)をしていた。
オッサンや早苗(さなえ)さんのこと。
ふたりには、それぞれ夢(ゆめ)があった。
オッサンは演劇(えんげき)、早苗(さなえ)さんは教師(きょうし)。
そんな夢(ゆめ)を、ふたりは自(みずか)ら閉(と)ざした。
自分(じぶん)たちの夢(ゆめ)を娘(むすめ)に託(たく)して。
そうして自分(じぶん)たちの娘(むすめ)の幸(しあわ)せを見守(みまも)っていくことにした。
そう…
──結局(けっきょく)、人(ひと)が生(い)きる意味(いみ)は、家族(かぞく)や愛(あい)す人(ひと)の中(なか)にあるんじゃないかってな。
そこに行(い)き着(つ)いたのだ。
俺(おれ)も、同(おな)じだった。
俺(おれ)の生(い)きる理由(りゆう)は、渚(なぎさ)と暮(く)らし、共(とも)に幸(しあわ)せになること。
それを為(な)すために、自分(じぶん)は生(い)きていくんだ。
そして、それは…
自分(じぶん)の中(なか)に命(いのち)を宿(やど)した渚(なぎさ)も同(おな)じだった。
いつだって、人(ひと)の夢(ゆめ)や幸(しあわ)せは、そこにあった。
俺(おれ)は、それを諦(あきら)めさせようとしてる…
俺(おれ)は、それを奪(うば)い去(さ)れるのだろうか…
渚(なぎさ)を失(うしな)ってしまえば、俺(おれ)は絶望(ぜつぼう)する。
それと同(おな)じことを、しようとしてる…
そんなことできない…
俺(おれ)にはできない…
でも、不安(ふあん)なんだ、俺(おれ)は…
あの場所(ばしょ)…
あの自然(しぜん)のように、変(か)わらないものはどこにもなく…
同(おな)じように、消(き)え去(さ)ってしまうんじゃないかって…
遠(とお)くに行(い)ってしまうんじゃないかって…
この不安(ふあん)な思(おも)い…そのままに流(なが)されていくんじゃないかって…
………
…違(ちが)う。
そんなことは関係(かんけい)ない…
そんなものは信(しん)じない…
だって、俺(おれ)と渚(なぎさ)は、今日(きょう)まで乗(の)り越(こ)えてきたんだから…
どんな困難(こんなん)だって、乗(の)り越(こ)えてきたんだ…
人(ひと)と人(ひと)の繋(つな)がりで。
だから…
今回(こんかい)だって、乗(の)り越(こ)えていけるはずだ…
だって、あいつが頑張(がんば)ると言(い)ってるんだから…
あんなにも強(つよ)いあいつが言(い)ってるんだから…
だから、俺(おれ)たちは…
今日(きょう)までと同(おな)じように…
前(まえ)を向(む)いて、歩(ある)いていくべきなんだ…
力(ちから)を合(あ)わせて…
夢(ゆめ)を叶(かな)え続(つづ)けるために。
目(め)が覚(さ)めた。
何時(なんじ)かわからない。
体(からだ)を起(お)こす。
人(ひと)の声(こえ)がしたので、そっちに向(む)かって歩(ある)いてみる。
秋生(あきお)「ありやしたーっ」
今(いま)、オッサンが客(きゃく)を見送(みおく)ったところだった。
秋生(あきお)「もっと買(か)ってけよな…シケた客(きゃく)だぜ…」
秋生(あきお)「ふぅ…」
秋生(あきお)「おわっ」
振(ふ)り向(む)いたオッサンが俺(おれ)を見(み)て驚(おどろ)く。
秋生(あきお)「なんだよ、居(い)たんなら、声(こえ)ぐらいかけろよ」
朋也(ともや)「よぅ」
秋生(あきお)「おはようございますだ」
朋也(ともや)「おはよ」
秋生(あきお)「ああ、おはよ」
秋生(あきお)「よく、寝(ね)てたじゃねぇか」
朋也(ともや)「酒(さけ)のせいかな」
秋生(あきお)「二日酔(ふつかよ)いは」
朋也(ともや)「大丈夫(だいじょうぶ)」
秋生(あきお)「そっか。もういくか?」
朋也(ともや)「ああ…」
そして…
この人(ひと)たちの夢(ゆめ)も…
朋也(ともや)「オッサン…」
秋生(あきお)「あん?」
朋也(ともや)「俺(おれ)を…止(と)めなくていいのか」
秋生(あきお)「………」
秋生(あきお)「ああ…止(と)めねぇよ」
朋也(ともや)「どうして」
秋生(あきお)「一番(いちばん)苦(くる)しんだ奴(やつ)らが答(こた)えを出(だ)せ」
秋生(あきお)「それが一番(いちばん)だ」
秋生(あきお)「後(あと)は、俺(おれ)たち家族(かぞく)が一丸(いちがん)となってサポートするさ」
朋也(ともや)「………」
朋也(ともや)「ああ…」
朋也(ともや)「わかったよ…」
声(こえ)「おはようございまーす」
新(あたら)しい客(きゃく)が顔(かお)を覗(のぞ)かせていた。
秋生(あきお)「ほら、仕事(しごと)の邪魔(じゃま)だ。とっとと出(で)ていけ」
朋也(ともや)「ああ、世話(せわ)になった」
客(きゃく)と入(い)れ代(か)わり、俺(おれ)は店(みせ)を後(あと)にした。
部屋(へや)のドアを開(ひら)いたところで、早苗(さなえ)さんが立(た)って、俺(おれ)をもう一度(いちど)外(そと)に招(まね)いた。
朋也(ともや)「早苗(さなえ)さん…」
早苗(さなえ)「もう一度(いちど)、先生(せんせい)に相談(そうだん)しました」
早苗(さなえ)「今(いま)の小康状態(しょうこうじょうたい)を保(たも)てるのであれば、出産(しゅっさん)も可能(かのう)かもしれないと、そう言(い)ってもらえました」
早苗(さなえ)「ですが、やはり危険(きけん)なことには変(か)わりはないそうです」
早苗(さなえ)「八木(やぎ)さんは…判断(はんだん)はお任(まか)せしますとのことです」
早苗(さなえ)「出産(しゅっさん)するなら、全力(ぜんりょく)を尽(つ)くしてくれるとのことです」
朋也(ともや)「わかりました…ありがとうございます」
部屋(へや)の中(なか)に戻(もど)る。
朋也(ともや)「渚(なぎさ)…起(お)きてるか」
小(ちい)さな声(こえ)で呼(よ)びかける。
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん、ですか?」
渚(なぎさ)の顔(かお)がこっちを向(む)いた。
朋也(ともや)「ああ」
その隣(となり)に座(すわ)り込(こ)む。
そして、自然(しぜん)と差(さ)し出(だ)された手(て)を握(にぎ)る。
朋也(ともや)「なぁ、渚(なぎさ)」
朋也(ともや)「ひとつ訊(き)きたいんだ」
朋也(ともや)「おまえが、強(つよ)く生(い)きること…」
朋也(ともや)「強(つよ)い母(はは)として、新(あたら)しい命(いのち)を生(う)んで、育(そだ)くんでいく、ということ…」
朋也(ともや)「それは、おまえにとっての何(なん)なんだ…?」
朋也(ともや)「それを教(おし)えてくれ…」
渚(なぎさ)「わたしのやるべきことです」
朋也(ともや)「それは…一番(いちばん)か?」
渚(なぎさ)「はい…わたしの一番(いちばん)です」
渚(なぎさ)「今(いま)までずっと弱(よわ)かったわたしが…」
渚(なぎさ)「母(はは)として最初(さいしょ)にやるべきことなんです…」
渚(なぎさ)「ここで負(ま)けたらわたしは…」
渚(なぎさ)「人(ひと)の親(おや)になんてなる資格(しかく)もない…弱(よわ)い子(こ)です…」
渚(なぎさ)「それでは…わたしのお腹(なか)に宿(やど)ってしまったこの子(こ)が…あまりに可哀想(かわいそう)です」
渚(なぎさ)「だから、絶対(ぜったい)に産(う)まないといけないんです…」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くんとの間(あいだ)にできた…この子(こ)を…」
渚(なぎさ)「強(つよ)い母(はは)として」
言(い)って、もう一方(いっぽう)の手(て)をお腹(なか)に置(お)いた。
朋也(ともや)「なぁ、渚(なぎさ)…」
朋也(ともや)「俺(おれ)はおまえと一緒(いっしょ)に生(い)きていくことが、俺(おれ)の生(い)きる理由(りゆう)なんだ」
朋也(ともや)「そのために生(い)きていきたいんだ」
渚(なぎさ)「はい」
朋也(ともや)「そして、おまえは強(つよ)く生(い)きたい…」
朋也(ともや)「強(つよ)い母(はは)として、新(あたら)しい生命(せいめい)を産(う)みたい…」
朋也(ともや)「それがおまえの生(い)きる理由(りゆう)だ」
渚(なぎさ)「はい」
朋也(ともや)「なら、ふたつの夢(ゆめ)を叶(かな)えよう」
渚(なぎさ)「いいんですか…」
朋也(ともや)「ああ」
朋也(ともや)「その代(か)わり…」
強(つよ)く、渚(なぎさ)の手(て)を握(にぎ)り直(なお)す。
朋也(ともや)「絶対(ぜったい)に負(ま)けては駄目(だめ)だ」
朋也(ともや)「絶対(ぜったい)に、叶(かな)えなくちゃならないんだ」
朋也(ともや)「他(ほか)の結果(けっか)はない」
朋也(ともや)「挫折(ざせつ)も、失敗(しっぱい)も、何(なに)もないんだ」
朋也(ともや)「ふたりの夢(ゆめ)を叶(かな)える…それだけだ」
朋也(ともや)「絶対(ぜったい)にだ」
朋也(ともや)「いいか、渚(なぎさ)…」
渚(なぎさ)「………」
渚(なぎさ)の汗(あせ)まみれの顔(かお)。
…笑顔(えがお)を作(つく)っていた。
それは未来(みらい)の母(はは)の顔(かお)だと思(おも)った。
渚(なぎさ)「…はい」
その顔(かお)が、力強(ちからづよ)く頷(うなず)いた。
渚(なぎさ)は頑張(がんば)り続(つづ)ける。
俺(おれ)やオッサンや早苗(さなえ)さんは、それを支(ささ)え続(つづ)ける。
渚(なぎさ)の生(い)きる理由(りゆう)は、我(わ)が子(こ)を強(つよ)く産(う)むことで…
俺(おれ)はその渚(なぎさ)と共(とも)に生(い)きることで…
オッサンや早苗(さなえ)さんは、そんな渚(なぎさ)と俺(おれ)の幸(しあわ)せを願(ねが)ってくれた。
みんなの夢(ゆめ)が繋(つな)がっていた。
家族(かぞく)がひとつとなって、歩(ある)いていた。
誰(だれ)もひとりではなくて、誰(だれ)かが近(ちか)くにいた。
そんな温(ぬく)もりを涙(なみだ)が出(で)るほどに感(かん)じられる…
…そんな日々(ひび)だった。
秋(あき)の訪(おとず)れを肌(はだ)に感(かん)じ始(はじ)める頃(ころ)。
部屋(へや)の一角(いっかく)を、これから生(う)まれてくる子供(こども)のための必要品(ひつようしな)が占拠(せんきょ)し始(はじ)めていた。
頼(たの)まずとも、それらはオッサンと早苗(さなえ)さんが毎日(まいにち)のように増(ふ)やしていくのだ。
すでにおしめが何(なん)ヶ月(げつ)分(ぶん)も積(つ)まれているのには閉口(へいこう)する。
渚(なぎさ)「おかしいです、えへへ…」
いつも渚(なぎさ)はそれを見(み)て、笑(わら)うのだった。
朋也(ともや)「あのふたりは何(なに)か買(か)ってこないと気(ぎ)が済(す)まないらしいんだ」
朋也(ともや)「それでトイレットペーパーが切(き)れていても誰(だれ)も気(き)づかないんだから、マヌケだよな」
朋也(ともや)「今度(こんど)なくなってたら、おしめを履(は)くぞ、俺(おれ)は」
渚(なぎさ)「それ、いいです」
渚(なぎさ)「きっと、可愛(かわい)いです」
朋也(ともや)「そうかよ…」
渚(なぎさ)が膨(ふく)らんだお腹(なか)を撫(な)でる。
俺(おれ)たちの会話(かいわ)の仲間(なかま)に、その子(こ)も入(い)れてあげるように。
そっと、呼(よ)びかけるように、微笑(ほほえ)んでいた。
医師(いし)「堕胎(だたい)するのであれば今(いま)が最後(さいご)の機会(きかい)です」
診察(しんさつ)を終(お)えた医師(いし)はその場(ば)で言(い)った。
彼(かれ)は頑(かたく)ななまでの渚(なぎさ)の意志(いし)を知(し)って、そうしたのだ。
医師(いし)「もし、母胎(ぼたい)の安全(あんぜん)を考(かんが)えるのであれば、そうするべきでしょう」
医師(いし)「これからはさらに多(おお)くの負荷(ふか)がかかります」
医師(いし)「それを乗(の)りきったとしても、分娩(ぶんべん)に要(よう)する体力(たいりょく)が残(のこ)っているかどうかもわかりません」
………。
渚(なぎさ)「そのときは…」
みんなが黙(だま)る中(なか)、渚(なぎさ)が口(くち)を開(ひら)いていた。
渚(なぎさ)「その時(とき)は、お腹(はら)の赤(あか)ちゃんはどうなりますか…」
医師(いし)「分娩(ぶんべん)に関(かん)しては、原則(げんそく)として母胎(ぼたい)を優先(ゆうせん)することになります」
医師(いし)「ですが、岡崎(おかざき)さんの場合(ばあい)は体力(たいりょく)と今(いま)抱(かか)えている疾患(しっかん)の問題(もんだい)もあります」
医師(いし)「何度(なんど)も申(もう)し上(あ)げている通(とお)り、岡崎(おかざき)さんがお子(こ)さんを出産(しゅっさん)されるのは、私(わたし)個人(こじん)としては反対(はんたい)しています」
医師(いし)「なぜなら…」
医師(いし)は皺深(しわふか)い顔(がお)をさらにしかめて、言(い)った。
医師(いし)「母胎(ぼたい)の無事(ぶじ)は私(わたし)には保証(ほしょう)できません…」
医師(いし)「もちろん、それまでに死産(しざん)してしまう可能性(かのうせい)もあります」
医師(いし)「熱(あつ)が下(さ)がらなければ、合併症(がっぺいしょう)を引(ひ)き起(お)こす可能性(かのうせい)もあります」
医師(いし)「あらゆる種類(しゅるい)の危険(きけん)が想定(そうてい)されるのです」
医師(いし)「それでも、産(う)むと、仰(おっしゃ)いますか?」
秋生(あきお)「ちっ…なんとかしてみせろ、てめぇ」
医師(いし)「もちろん、私(わたし)にできることはすべてやってきたつもりですし、これからも続(つづ)けて参(まい)ります」
秋生(あきお)「あ、ああ…わかってるよ」
医師(いし)「どうか、今一度(いまいちど)、ご家族(かぞく)で話(はな)し合(あ)ってみてください」
医師(いし)「それでは今日(きょう)のところは失礼(しつれい)します」
早苗(さなえ)「ありがとうございました」
早苗(さなえ)さんが立(た)ち上(あ)がって、見送(みおく)る。
その早苗(さなえ)さんが戻(もど)ってきてからも、沈黙(ちんもく)は続(つづ)いた。
秋生(あきお)「…あ、そうだ」
秋生(あきお)「飯(めし)はどうした、早苗(さなえ)」
早苗(さなえ)「さっき食(た)べたばかりですよ」
秋生(あきお)「そ、そうだったか…」
渚(なぎさ)「………」
渚(なぎさ)は、じっと、積(つ)み上(あ)げられたおしめを見(み)ていた。
そうして何(なに)を思(おも)っているのだろう…。
朋也(ともや)「………」
俺(おれ)もオッサンも早苗(さなえ)さんも、みんなわかっていた。
渚(なぎさ)はそれでも、産(う)もうとすることを。
だからただ、みな、心(こころ)を落(お)ち着(つ)けようとしているだけだ。
…自分(じぶん)は、温(あたた)かく、そして強(つよ)く、渚(なぎさ)の歩(ある)いていく姿(すがた)を見守(みまも)っていけるだろうか。
そのことを考(かんが)えながら。
やがて、それぞれが決意(けつい)を新(あら)たにしたのだろう。
秋生(あきお)「ただでさえ狭(せま)い部屋(へや)なのに、なんなんだ、このおしめの量(りょう)は」
朋也(ともや)「買(か)ってくるの、いつもあんたなんだけど」
渚(なぎさ)「今度(こんど)、朋也(ともや)くんが履(は)くって言(い)ってました」
早苗(さなえ)「本当(ほんとう)ですか、朋也(ともや)さんっ」
重苦(おもくる)しかった空気(くうき)は立(た)ち消(き)え、いつもの調子(ちょうし)に戻(もど)り始(はじ)める。
今(いま)、俺(おれ)たちにできることとはまさしく、温(あたた)かく、そして強(つよ)く、見守(みまも)っていくことだけだったからだ。
だから、俺(おれ)たちはそうした。
朋也(ともや)「もしかしたら、早苗(さなえ)さんは、俺(おれ)を恨(うら)んでるんじゃないかって…そう思(おも)います」
早苗(さなえ)「え?
どうしてでしょう?」
朋也(ともや)「俺(おれ)が渚(なぎさ)を変(か)えてしまったからです」
早苗(さなえ)「変(か)えた…と言(い)いますと?」
朋也(ともや)「初(はじ)めて会(あ)ったときの渚(なぎさ)は、本当(ほんとう)に弱(よわ)かったんです」
朋也(ともや)「本当(ほんとう)にいつだって泣(な)いてるような奴(やつ)で…」
朋也(ともや)「俺(おれ)がいなかったら、ずっと校門(こうもん)の坂(さか)の下(した)で、立(た)ってて…」
朋也(ともや)「一歩(いっぽ)を踏(ふ)み出(だ)すことすらできなかった奴(やつ)なんです」
朋也(ともや)「それが、俺(おれ)と出会(であ)ってから…強(つよ)くなっていったんです」
朋也(ともや)「だから、俺(おれ)と出会(であ)ってなければ、こんなことにもなっていなかったんだと思(おも)います」
早苗(さなえ)「そんなことはありません、朋也(ともや)さん」
朋也(ともや)「ええ…早苗(さなえ)さんは、優(やさ)しい人(ひと)だから、そう言(い)ってくれるのはわかってました」
早苗(さなえ)「本心(ほんしん)ですよ?」
朋也(ともや)「ええ…ありがとうございます」
俺(おれ)はこうして…許(ゆる)されたかったのだろうか。
ただ、それだけなのだろうか…。
朋也(ともや)「俺(おれ)には母親(ははおや)がいないっすから…」
早苗(さなえ)「そうでしたね」
朋也(ともや)「だから、本当(ほんとう)に早苗(さなえ)さんのこと、母親(ははおや)みたいに思(おも)ってしまいます」
早苗(さなえ)「それは光栄(こうえい)です」
早苗(さなえ)「こんな泣(な)き虫(むし)な母親(ははおや)でもよろしければ、ずっとそう思(おも)っていてください」
朋也(ともや)「ええ」
この冬(ふゆ)も雪(ゆき)は積(つ)もらなかった。
昔(むかし)は雪合戦(ゆきがっせん)ができるほどに降(お)り積(つ)もったというのに…
今(いま)ではそれが信(しん)じられなかった。
みぞれのような雪(ゆき)が地面(じめん)に落(お)ちては、すぐに水(みず)となって色(いろ)をなくしてしまう。
そんな様(さま)をじっと見(み)ていた。
ある日(ひ)の作業現場(さぎょうげんば)でのこと。
朋也(ともや)(ここは…あの場所(ばしょ)の近(ちか)く…)
俺(おれ)はその存在(そんざい)を思(おも)い出(だ)していた。
そう…あの場所(ばしょ)は、大切(たいせつ)な場所(ばしょ)だったはずだ。
朋也(ともや)「俺(おれ)、ちょっと抜(ぬ)けていいですかっ」
芳野(よしの)「どうした」
朋也(ともや)「すみません、すぐ戻(もど)ってきますんでっ」
了解(りょうかい)も得(え)ず、俺(おれ)は駆(か)けだしていた。
朋也(ともや)「あ…」
なんてことだろう…
俺(おれ)は絶句(ぜっく)したまま、声(こえ)が出(で)なかった。
知(し)らなかった…こんなことになっているなんて。
俺(おれ)はその場(ば)に座(すわ)り込(こ)んだ。
声(こえ)「町(まち)は変(か)わり続(つづ)けていく。それを止(と)めることはできやしねぇんだよ」
オッサンがすぐ隣(となり)に立(た)っていた。
秋生(あきお)「何(なに)もかも変(か)わらずにはいられねぇんだ…」
秋生(あきお)「それが、人(ひと)が生(い)きる、ということだからな…」
オッサンはずっと、この場所(ばしょ)をひとり見守(みまも)ってきたのだろう。
俺(おれ)と、この場所(ばしょ)に訪(おとず)れた日(ひ)からも…。
それ以上(いじょう)は言葉(ことば)を交(か)わさず、俺(おれ)たちはじっと冷(つめ)たくそびえ立(た)つ建造物(けんぞうぶつ)を見(み)つめていた。
朋也(ともや)「オッサン…」
秋生(あきお)「なんだ…」
朋也(ともや)「罪(つみ)を犯(おか)してまで、この工事(こうじ)を止(と)めれば…渚(なぎさ)は元気(げんき)でいられるのかな」
秋生(あきお)「馬鹿(ばか)か、てめぇは…」
秋生(あきお)「個人(こじん)の力(ちから)で、止(と)められるもんじゃねぇよ…」
秋生(あきお)「それに…この場所(ばしょ)は大病院(たいびょういん)になるって話(はなし)だ…」
秋生(あきお)「ずっと、この町(まち)になかったものだ」
秋生(あきお)「それでこの先(さき)…どれだけの命(いのち)が助(たす)かるのか…それを考(かんが)えてみろ」
秋生(あきお)「町(まち)が変(か)わっていくのは…人(ひと)が生(い)きるためだ…」
秋生(あきお)「仕方(しかた)がねぇんだよ…」
朋也(ともや)「俺(おれ)…この町(まち)が嫌(きら)いになりそうだよ…」
秋生(あきお)「それはおまえの勝手(かって)だが…」
秋生(あきお)「自暴自棄(じぼうじき)にだけはなるなよ」
秋生(あきお)「もしどうしても、罪(つみ)を犯(おか)したくなったら、まず俺(おれ)に言(い)え」
朋也(ともや)「止(と)めるのかよ…」
秋生(あきお)「止(と)めはしねぇよ」
秋生(あきお)「俺(おれ)が代(か)わりにやってやるだけだ」
その言葉(ことば)で正気(しょうき)に戻(もど)れた気(き)がした。
俺(おれ)は、やっぱりこの人(ひと)も大好(だいす)きだった。
仕事(しごと)を終(お)え家(いえ)に帰(かえ)ってくると、早苗(さなえ)さんと代(か)わって、渚(なぎさ)のそばに座(すわ)る。
そして渚(なぎさ)の手(て)を握(にぎ)る。
渚(なぎさ)はもう一方(いっぽう)の手(て)を、膨(ふく)らんだお腹(なか)に置(お)いた。
それは、もう家族(かぞく)だと思(おも)った。
俺(おれ)たちは、三人(さんにん)で、そして家族(かぞく)なのだと。そんな気(き)がした。
朋也(ともや)「寒(さむ)くないか」
渚(なぎさ)「はい…」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くんのほうが、手(て)、冷(つめ)たいです」
朋也(ともや)「そうか…」
渚(なぎさ)「外(そと)はまだまだ寒(さむ)いですから…」
朋也(ともや)「そうだな…」
朋也(ともや)「そうだ…もうすぐクリスマスだ」
そのことを思(おも)い出(だ)す。
渚(なぎさ)「はい」
朋也(ともや)「同時(どうじ)におまえの誕生日(たんじょうび)だ」
渚(なぎさ)「はい」
朋也(ともや)「今年(ことし)は何(なに)が欲(ほ)しい?
なんでも言(い)えよ。探(さが)して買(か)ってきてやるから」
渚(なぎさ)「また、あれがいいです」
言(い)って、部屋(へや)の隅(すみ)に並(なら)ぶだんごのぬいぐるみを見(み)た。
朋也(ともや)「馬鹿(ばか)、あんなもの、あれ以上(いじょう)あっても仕方(しかた)がないだろ」
渚(なぎさ)「いえ、たくさんにしてあげたいです。一人(ひとり)よりも、二人(ふたり)。二人(ふたり)よりも三人(さんにん)です」
朋也(ともや)「だんごは大家族(だいかぞく)ってか」
渚(なぎさ)「はい、そうです」
朋也(ともや)「じゃあ、一年(いちねん)にひとつ、積(つ)み上(あ)げていくか?」
渚(なぎさ)「そうしてもらえるとうれしいです。見(み)てて、楽(たの)しいです」
朋也(ともや)「でもあれ、プレミアもんなんだぜ。もう何年(なんねん)も前(まえ)に生産(せいさん)を打(う)ち切(き)ってる」
朋也(ともや)「年(とし)を追(お)うごとに、入手困難(にゅうしゅこんなん)になっていくんだぞ」
朋也(ともや)「去年(きょねん)見(み)つけたのだって、偶然(ぐうぜん)だったしな」
渚(なぎさ)「難(むずか)しいでしょうか…」
朋也(ともや)「いや…でも、それぐらいしないとな。おまえの誕生日(たんじょうび)なんだし」
一番大事(いちばんだいじ)な人(ひと)の誕生日(たんじょうび)なんだし。
渚(なぎさ)「すみません…でも、すごくうれしいです」
朋也(ともや)「ああ、任(まか)せておけ」
二週間後(にしゅうかんご)のクリスマスの日(ひ)。
オッサンと早苗(さなえ)さんも呼(よ)んで、2年前(ねんまえ)のように賑(にぎ)やかに渚(なぎさ)を祝(いわ)った。
けど、2年前(ねんまえ)と違(ちが)って、渚(なぎさ)は泣(な)かなかった。
渚(なぎさ)「すごく可愛(かわい)いです」
渚(なぎさ)は俺(おれ)からのプレゼント、だんご大家族(だいかぞく)のぬいぐるみをずっと抱(だ)いていた。
朋也(ともや)「色(いろ)以外(いがい)は何(なに)も変(か)わらないんだけどな」
渚(なぎさ)「この可愛(かわい)さは、飽(あ)きない、ということです」
朋也(ともや)「でも、古(ふる)い奴(やつ)ら、嫉妬(しっと)してるんじゃないか。放(ほう)っておかれて」
渚(なぎさ)「大(おお)きいので、一度(いちど)にたくさんは抱(だ)けないです」
渚(なぎさ)「なので朋也(ともや)くんに抱(だ)いていてほしいです」
朋也(ともや)「え?
俺(おれ)?」
早苗(さなえ)「はい、どうぞっ」
わざわざ早苗(さなえ)さんが二(ふた)つとも、持(も)ってきてくれる。
朋也(ともや)「マジ…?」
渚(なぎさ)「抱(だ)いてあげないと可哀想(かわいそう)です」
朋也(ともや)「わかったよ…でも、二個(にこ)同時(どうじ)にか?」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん、体(からだ)が大(おお)きいから大丈夫(だいじょうぶ)です」
朋也(ともや)「一個(いっこ)ずつじゃ駄目(だめ)か?」
渚(なぎさ)「………」
朋也(ともや)「あ、ああ…わかったよ。抱(だ)くよ」
ふたつのだんごを縦(たて)に並(なら)べて抱(だ)く。
上(うえ)のが転(ころ)げ落(お)ちそうになる。顎(あご)で、押(お)さえつけるしかなかった。
鼻(はな)まで埋(う)もれる。
渚(なぎさ)の…匂(にお)いがした。
いつも渚(なぎさ)が抱(だ)いていたからだろうか…。
朋也(ともや)「これで、いい…?」
くぐもった声(こえ)。聞(き)こえただろうか。
渚(なぎさ)は笑(わら)っていた。
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん、とても可愛(かわい)いです」
渚(なぎさ)「えへへ」
最後(さいご)まで笑顔(えがお)でいた。
年(とし)が明(あ)け、正月(しょうがつ)。
安産(あんざん)の祈願(きがん)を兼(か)ねて、オッサンと早苗(さなえ)さんは、新年(しんねん)参(まい)りに出(で)かけた。
帰(かえ)ってくると、正月(しょうがつ)だというのに、二人(ふたり)とも俺(おれ)たちと一緒(いっしょ)にこの狭(せま)い部屋(へや)で過(す)ごした。
早苗(さなえ)さんが、雑煮(ぞうに)を作(つく)ってくれて、皆(みんな)で食(た)べた。
渚(なぎさ)も、餅(もち)抜(ぬ)きで食(た)べた。
三(さん)が日(にち)最後(さいご)の日(ひ)には、思(おも)いもよらない客(きゃく)が訪(おとず)れた。
春原(すのはら)「よぅ、久(ひさ)しぶり」
朋也(ともや)「誰(だれ)だ、おまえ」
春原(すのはら)「おまえな、去年(きょねん)も同(おな)じやり取(と)りしたぞ」
朋也(ともや)「まさか、春原(すのはら)か」
春原(すのはら)「まさかも何(なに)もない。春原(すのはら)だ」
その後(うし)ろには、仁科(にしな)や杉坂(すぎさか)の姿(すがた)もあった。
渚(なぎさ)「みなさん…今日(きょう)はどうしましたか」
渚(なぎさ)はそう訊(き)きながらも、喜(よろこ)びを隠(かく)せない様子(ようす)だった。
春原(すのはら)「また揃(そろ)って、休(やす)みが取(と)れたからさ、びっくりさせてやろうと思(おも)って」
朋也(ともや)「いや、おまえの頭(あたま)だけでびっくりなんだが…」
俺(おれ)は早苗(さなえ)さんを見(み)る。早苗(さなえ)さんひとり、驚(おどろ)いた様子(ようす)もなく笑顔(えがお)だった。
朋也(ともや)「早苗(さなえ)さん、知(し)ってましたね」
早苗(さなえ)「はいっ」
早苗(さなえ)「どうしても、びっくりさせたいということでしたので」
朋也(ともや)「ったく、してやられたよ」
仁科(にしな)「遅(おそ)くなってしまいましたが、おふたり、ご結婚(けっこん)、おめでとうございます」
春原(すのはら)が提(さ)げていた大(おお)きな包(つつ)みを床(ゆか)に置(お)いた。
杉坂(すぎさか)「同時(どうじ)におめでた、ということでしたので、結婚祝(けっこんいわ)いは、こういったものがいいのではないかと思(おも)いまして」
杉坂(すぎさか)が封(ふう)を解(と)く。
中(なか)から出(で)てきたのは、ベビー用品(ようひん)の数々(かずかず)。
同(おな)じようなものが、すぐ横(よこ)の壁(かべ)に積(つ)まれている。
俺(おれ)はオッサンに顎(あご)で命(めい)じて、それを隠(かく)させる。
秋生(あきお)「お、おうっ…」
秋生(あきお)「って、なんで、俺様(おれさま)がてめぇに顎(あご)で使(つか)われなきゃならねぇんだーっ!」
杉坂(すぎさか)「あ…たくさんありましたか」
朋也(ともや)「ほら、バレたじゃないか」
渚(なぎさ)「いえ、いるものですから、たくさんあっても困(こま)らないです」
渚(なぎさ)「ありがとうございます」
渚(なぎさ)の口(くち)から出(で)たのは、素直(すなお)な感謝(かんしゃ)の言葉(ことば)だった。
早苗(さなえ)「みなさん、余(あま)りもので恐縮(きょうしゅく)ですが、おせち食(た)べていってくださいね」
早苗(さなえ)さんが台所(だいどころ)に立(た)つ。
秋生(あきお)「よしっ、てめぇら二十歳(はたち)になってんだろ。酒(さけ)呑(の)むぞ、おらぁ」
オッサンは一升瓶(いっしょうびん)を持(も)ち出(だ)してきた。
俺(おれ)たちは、酒(さけ)を飲(の)んで、おせちをつついて、楽(たの)しい時間(じかん)を過(す)ごした。
仁科(にしな)「古河(ふるかわ)さんのお父(とう)さんって、若(わか)くて格好(かっこう)いいですね」
秋生(あきお)「かっ、そうだろそうだろ。惚(ほ)れろっ、この女(おんな)どもがっ」
杉坂(すぎさか)「お母(かあ)さんも、若(わか)くて、とても可愛(かわい)い方(かた)ですね」
秋生(あきお)「かっ、そうだろそうだろ。俺(おれ)の女(おんな)だからなっ。見習(みなら)え、この女(おんな)どもがっ」
仁科(にしな)と杉坂(すぎさか)にちやほやされ、オッサンは絶好調(ぜっこうちょう)だった。
渚(なぎさ)のそばには俺(おれ)と春原(すのはら)がいた。
春原(すのはら)「なぁ、岡崎(おかざき)」
春原(すのはら)「つーと、ふたりの名字(みょうじ)なのか。ややこしいな」
渚(なぎさ)「いえ、構(かま)わないです。いつものように呼(よ)んでください」
春原(すのはら)「なら、岡崎(おかざき)のままで」
春原(すのはら)「な、岡崎(おかざき)」
朋也(ともや)「ああ」
春原(すのはら)「父親(ちちおや)になるってのは、どんな気分(きぶん)なんだ?」
朋也(ともや)「なんだ、妙(みょう)なことを訊(き)く奴(やつ)だな」
春原(すのはら)「僕(ぼく)はさ、そんなものになるなんて、まだまだ先(さき)の話(はなし)だと思(おも)ってたんだよ」
春原(すのはら)「でもさ、おまえがそうなるって聞(き)いて、いきなり身近(みぢか)なものに思(おも)えてきたんだ」
春原(すのはら)「おまえらの前(まえ)でこんなこと言(い)うのもなんだけどさ、自分(じぶん)が父親(ちちおや)になっちまうなんて、そりゃ天災(てんさい)のようなものだと思(おも)ってる」
春原(すのはら)「そのぐらい好(この)んでなるようなものじゃないってことだ」
春原(すのはら)「だからさ、どんな気持(きも)ちでそんなものになろうとしてるのか、知(し)りたいんだよ」
渚(なぎさ)の視線(しせん)がじっと俺(おれ)に注(そそ)がれているのを感(かん)じる。
それは、渚(なぎさ)も興味(きょうみ)のあるところだったのだろう。
朋也(ともや)「わかんねぇよ…」
俺(おれ)は答(こた)えた。
朋也(ともや)「実感(じっかん)だって、まだないしよ…」
朋也(ともや)「ただ、好(す)きな人(ひと)ができて…」
朋也(ともや)「そいつのために生(い)きてたら、こうなった」
朋也(ともや)「それだけだよ」
春原(すのはら)「ははっ」
その答(こた)えに春原(すのはら)が笑(わら)った。
春原(すのはら)「結局(けっきょく)、岡崎(おかざき)、おまえも何(なに)も変(か)わっちゃいないな」
朋也(ともや)「そうか?」
春原(すのはら)「ああ。僕(ぼく)はてっきり、渚(なぎさ)ちゃんとおまえが遠(とお)いところに行(い)っちゃったのかと思(おも)ったよ」
春原(すのはら)「でも、案外(あんがい)近(ちか)くにいた。それがわかったよ」
春原(すのはら)「そうだよな。無我夢中(むがむちゅう)になってたら、父親(ちちおや)になってた」
春原(すのはら)「うん、それなら納得(なっとく)いくよ」
どうしてか、春原(すのはら)はほっとした様子(ようす)だった。
春原(すのはら)「たまに集(あつ)まれば、こうしてあの時(とき)のようにさ、馬鹿(ばか)なことやれる仲(なか)でいたいよな」
朋也(ともや)「そうだな…まったくだ」
皆(みんな)が帰(かえ)り、静(しず)かな夜(よる)が訪(おとず)れる。
渚(なぎさ)「しおちゃん…」
渚(なぎさ)「えへへ」
渚(なぎさ)「だんごっ、だんごっ…」
また、歌(うた)い始(はじ)める。
けど、自分(じぶん)で歌(うた)うのは大変(たいへん)なはずだった。
朋也(ともや)「おまえさ、疲(つか)れるだろ。自分(じぶん)で歌(うた)うのはやめておけよ」
ただ、俺(おれ)は熱(あつ)が上(あ)がるのが心配(しんぱい)だった。
それでも渚(なぎさ)は歌(うた)うことをやめなかった。
渚(なぎさ)「もし、この子(こ)のためにできることがあるなら、すべてしておきたいです…」
息(いき)が上(あ)がったままで、そう答(こた)えた。
朋也(ともや)「じゃあさ…俺(おれ)が歌(うた)ってやるから…おまえは黙(だま)って聞(き)いてろよ」
朋也(ともや)「だんごっ、だんごっ…」
俺(おれ)は歌(うた)い始(はじ)める。
それでも、渚(なぎさ)は一緒(いっしょ)に歌(うた)う。
朋也(ともや)「おまえな…怒(おこ)るぞ」
渚(なぎさ)「だって…ひとりより、ふたりのほうが楽(たの)しく歌(うた)えます…」
渚(なぎさ)「わたしたちが楽(たの)しかったほうが、この子(こ)も楽(たの)しいと思(おも)います」
渚(なぎさ)「ね、しおちゃん」
そう言(い)われると、何(なに)も言(い)い返(かえ)せない。
朋也(ともや)「じゃ、小(ちい)さくな」
渚(なぎさ)「はい」
ふたりで歌(うた)い続(つづ)けた。
…こうして、楽(たの)しい時間(じかん)は過(す)ぎ去(さ)った。
1月(がつ)の終(お)わりから熱(あつ)が上(あ)がり始(はじ)めた。
そして渚(なぎさ)は、起(お)きあがることすらできなくなってしまった。
それに反(はん)し、お腹(はら)の中(なか)では、新(あたら)しい命(いのち)が躍動(やくどう)を見(み)せていた。
力強(ちからづよ)く、この世界(せかい)に生(う)まれることを待(ま)ちわびているかのように。
それはまるで…
ゆっくりと…
自(みずか)らの命(いのち)を我(わ)が子(こ)に受(う)け渡(わた)していくような…
そんな…光景(こうけい)だった。
ずっと抱(だ)いていた不安(ふあん)が形(かたち)になろうとしている…。
大(おお)きな時間(じかん)の流(なが)れの中(なか)で、抗(あらが)いようのない悲(かな)しみが押(お)し寄(よ)せてきて…
その中(なか)で、俺(おれ)と渚(なぎさ)は離(はな)ればなれになってしまう…。
二度(にど)と会(あ)えない場所(ばしょ)へ、渚(なぎさ)は行(い)ってしまう。
手(て)を伸(の)ばしても…
繋(つな)ごうとしても、何(なに)も触(ふ)れない…。
触(ふ)れられない。
そんなのは嫌(いや)だ…
絶対(ぜったい)に嫌(いや)だ…
渚(なぎさ)も生(い)きて…
子供(こども)も無事(ぶじ)に生(う)まれて…
そして、その家族(かぞく)を俺(おれ)は守(まも)り続(つづ)けて…
みんなで、幸(しあわ)せになる…
それが俺(おれ)の夢(ゆめ)で…
生(い)きる理由(りゆう)なんだから…。
電話(でんわ)があった。
早苗(さなえ)『早苗(さなえ)です』
元気(げんき)のない声(こえ)。
朋也(ともや)「どうしましたか」
早苗(さなえ)『秋生(あきお)さん、そっちに行(い)ってないですか』
朋也(ともや)「ええ…来(き)てませんけど」
早苗(さなえ)『出(で)かけたまま、昨日(きのう)から帰(かえ)ってなくて…』
朋也(ともや)「どこへ出(で)かけるって…言(い)ってましたか」
早苗(さなえ)『いつものように、午後(ごご)に最後(さいご)のパンを焼(や)いて、それからふらっと出(で)ていって、そのまま…』
朋也(ともや)「わかりました。早苗(さなえ)さんは家(いえ)にいてください。いつ戻(もど)ってくるかわからないですから」
早苗(さなえ)『朋也(ともや)さん、探(さが)しにいくんですか?』
朋也(ともや)「ええ」
早苗(さなえ)『でも、渚(なぎさ)がひとりになります…』
朋也(ともや)「いえ、今(いま)は寝(ね)てますから…少(すこ)しだけ」
朋也(ともや)「それに、あてがあるんです。だから、そこに行(い)って、確(たし)かめるだけなんで…」
早苗(さなえ)『なら、わたしがそこに行(い)きます。教(おし)えてください』
朋也(ともや)「いや…それは、教(おし)えられないんです。すみません…」
オッサンの意志(いし)を裏切(うらぎ)るわけにはいかなかった。
早苗(さなえ)さんには、真(ま)っ直(す)ぐ現実(げんじつ)に生(い)きていてほしいのだと思(おも)う。
朋也(ともや)「すぐですから。大丈夫(だいじょうぶ)です」
早苗(さなえ)『わかりました…お願(ねが)いします、朋也(ともや)さん』
朋也(ともや)「…はいっ」
前(まえ)に来(き)たときにはなかった、大(おお)きな作業機械(さぎょうきかい)が乱立(らんりつ)していた。
そして、ひどく…騒(さわ)がしい。
工事(こうじ)の関係者(かんけいしゃ)たちが、集(あつ)まって、何事(なにごと)かを大声(おおごえ)で話(はな)し合(あ)っていた。
胸騒(むなさわ)ぎがした。
目(め)の前(まえ)にはロープ。
これ以上(いじょう)は、関係者(かんけいしゃ)立入禁止(たちいりきんし)で近寄(ちかよ)れない。
俺(おれ)は耳(みみ)を澄(す)ませてみた。
声(こえ)(立(た)ち退(の)きもなかった、こんなところにだよっ…)
声(こえ)(じゃあ、どういう因縁(いんねん)なんだよ…?)
声(こえ)(おかしいんじゃないか…?)
声(こえ)(だって、ひとりだって言(い)うじゃないか…)
俺(おれ)はそこまで聞(き)いて、確信(かくしん)を得(え)た。
オッサンが、何(なに)かをしでかしたのだ。
俺(おれ)はその姿(すがた)を探(さが)して、闇雲(やみくも)に走(はし)った。
秋生(あきお)「よぅ、朋也(ともや)じゃねぇか」
朋也(ともや)「オッサン…」
朋也(ともや)「あんた…何(なに)やってたんだよっ」
秋生(あきお)「なんでもない。大丈夫(だいじょうぶ)だ。これから帰(かえ)るところだ」
朋也(ともや)「あんた…俺(おれ)が相談(そうだん)するまで、やらないんじゃなかったのかよ…」
秋生(あきお)「そんな約束(やくそく)はしてねぇな」
秋生(あきお)「おまえがやるんだったら、代(か)わりに俺(おれ)がやる、と言(い)っただけだ」
秋生(あきお)「………」
秋生(あきお)「木(き)をさ…伐採(ばっさい)にかかりやがったんだ…」
秋生(あきお)「話(はなし)では、残(のこ)しておくはずだったやつまでもだ…」
秋生(あきお)「俺(おれ)だって、別(べつ)に考(かんが)えてやったわけじゃねぇ」
秋生(あきお)「ただ、体(からだ)が動(うご)いちまったんだな…」
秋生(あきお)「けど、それは現場判断(げんばはんだん)でよ…」
秋生(あきお)「お偉(えら)いさんが出(で)てきて、結局(けっきょく)は残(のこ)してくれることになった…」
秋生(あきお)「病院(びょういん)の隅(すみ)のほうに…ちょっとだけどな…」
秋生(あきお)「それだけの話(はなし)だよ…」
朋也(ともや)「殴(なぐ)っていいか」
秋生(あきお)「あん?」
ばきっ。
返事(へんじ)を待(ま)つ前(まえ)に殴(なぐ)っていた。
秋生(あきお)「いてぇなぁ!」
朋也(ともや)「早苗(さなえ)さんに心配(しんぱい)かけたってことをっ…」
朋也(ともや)「その痛(いた)みで覚(おぼ)えておけよ…」
秋生(あきお)「なんだとぉ…?」
朋也(ともや)「じゃ、俺(おれ)、帰(かえ)るから」
オッサンをその場(ば)に残(のこ)して、俺(おれ)は立(た)ち去(さ)った。
高(たか)い熱(ねつ)が渚(なぎさ)を苦(くる)しめ続(つづ)ける。
もう渚(なぎさ)はぼろぼろに見(み)えた。
これから先(さき)も戦(たたか)うことなどできるのだろうか。
ただ、衰弱(すいじゃく)しきった顔(かお)で眠(ねむ)っている渚(なぎさ)の顔(かお)を見(み)ていると、居(い)たたまれなくなる。
押(お)し寄(よ)せてくる波(なみ)は、そこまで来(き)ていて…
今(いま)、さらっていこうとしてるのではないかと…。
俺(おれ)は握(にぎ)った手(て)に力(ちから)を込(こ)める。
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん…」
声(こえ)がした。
渚(なぎさ)が薄目(うすめ)を開(ひら)いていた。
朋也(ともや)「ん、どうした、渚(なぎさ)…」
渚(なぎさ)「わたし、みんなに迷惑(めいわく)かけてます…」
朋也(ともや)「馬鹿(ばか)、んなことあるかよ…」
朋也(ともや)「誰(だれ)よりも頑張(がんば)ってるのは、おまえだ…みんな、わかってるから…」
渚(なぎさ)「そうでしょうか…」
朋也(ともや)「だからさ…寝(ね)ような。今(いま)は、苦(くる)しくないんだろ…?」
渚(なぎさ)「はい…」
渚(なぎさ)「でも、もう少(すこ)し朋也(ともや)くんと話(はなし)をしてたいです」
朋也(ともや)「ああ…わかった。ちょっとだけだぞ…」
渚(なぎさ)「はい…」
渚(なぎさ)が天井(てんじょう)を見上(みあ)げる。
その向(む)こうにある…これからの未来(みらい)を見(み)つめるように。
渚(なぎさ)「わたしの今(いま)の目標(もくひょう)は、この子(こ)を産(う)むことです…」
朋也(ともや)「ああ…」
渚(なぎさ)「そして…」
渚(なぎさ)「この子(こ)と、朋也(ともや)くんと三人(さんにん)で生(い)きることです」
朋也(ともや)「………」
涙(なみだ)が目(め)に溜(た)まる。
目(め)を閉(と)じれば、一気(いっき)に流(なが)れ出(だ)そうだった。
どうして、そんな未来(みらい)さえ、夢(ゆめ)のように思(おも)えるのだろう…。
そんな、普通(ふつう)の未来(みらい)が…
そんな、ありふれた未来(みらい)が…
もっと、普通(ふつう)だったら…
もっとありふれていたらよかったのに…。
渚(なぎさ)の行(い)く道(みち)は、いつだって困難(こんなん)に満(み)ちていた…。
普通(ふつう)の幸(しあわ)せが…人(ひと)よりずっと遠(とお)く…
…遙(はる)か彼方(かなた)にあった。
生(い)きること…たったそれだけが。
いつのまにか渚(なぎさ)は目(め)を閉(と)じていた。
こんなにやせ細(ほそ)っているのに、穏(おだ)やかな寝顔(ねがお)…。
朋也(ともや)「渚(なぎさ)…ずっとだからな…」
ずっと、手(て)を握(にぎ)っていた。
激(はげ)しい陣痛(じんつう)が始(はじ)まった。
早苗(さなえ)さんが、苦悶(くもん)の表情(ひょうじょう)を浮(う)かべる渚(なぎさ)に、何事(なにごと)か訊(き)いていた。
その答(こた)えを確認(かくにん)して、早苗(さなえ)さんは俺(おれ)に顔(かお)を向(む)ける。
早苗(さなえ)「朋也(ともや)さん、お願(ねが)いします」
朋也(ともや)「わかりました」
それは、助産婦(じょさんぷ)の八木(やぎ)さんを呼(よ)んでほしいという合図(あいず)だった。
俺(おれ)はすぐさま電話連絡(でんわれんらく)し、雨(あめ)の降(ふ)る中(なか)、迎(むか)えに出(で)た。
八木(やぎ)さんを連(つ)れて戻(もど)ってきても、渚(なぎさ)は苦(くる)しんだままだった。
ここからは、そのふたりに任(まか)せるしかなかった。
八木(やぎ)「古河(ふるかわ)さんは、ベビーバスに湯(ゆ)を張(は)ってもらえますか」
オッサンが八木(やぎ)さんにそう命(めい)じられた。
八木(やぎ)「岡崎(おかざき)さんは、こちらにきて、奥(おく)さんを励(はげ)ましてあげてください」
それは望(のぞ)むところだった。
部屋(へや)の奥(おく)に回(まわ)り込(こ)んで、渚(なぎさ)の隣(となり)に膝(ひざ)をつく。
朋也(ともや)「あの…」
忙(いそが)しげに鞄(かばん)の中(なか)から医療器具(いりょうきぐ)を取(と)りだしている八木(やぎ)さんに声(こえ)をかける。
朋也(ともや)「手(て)を握(にぎ)っていても、いいんですよね」
八木(やぎ)「ええ、もちろん。そうしてあげてください」
良(よ)かった。
渚(なぎさ)が一番(いちばん)苦(くる)しんでいる時(とき)に、そうしてあげられることは救(すく)いだった。
俺(おれ)は必死(ひっし)に痛(いた)みを堪(た)えるように閉(と)じられた渚(なぎさ)の手(て)のひらを引(ひ)き寄(よ)せ、力(ちから)ずくで開(ひら)かせる。
そして、その汗(あせ)の滲(にじ)む手(て)のひらに自分(じぶん)の手(て)のひらを押(お)し当(あ)てた。
すると、今度(こんど)は俺(おれ)の手(て)を激(はげ)しく求(もと)めるように強(つよ)く閉(と)じられた。
ふたりの指(よび)が、隙間(すきま)なく絡(から)み合(あ)う。
朋也(ともや)「渚(なぎさ)、俺(おれ)はここにいるからなっ…」
一瞬(いっしゅん)渚(なぎさ)の目(め)が俺(おれ)の顔(かお)を見(み)た。
渚(なぎさ)「………」
声(こえ)にはでなかったけど、強(つよ)く頷(うなず)いた。
朋也(ともや)「頑張(がんば)れ…」
朋也(ともや)「負(ま)けるなよ…こんなところで…」
朋也(ともや)「無事(ぶじ)に生(う)んで…」
朋也(ともや)「始(はじ)めような、新(あたら)しい三人(さんにん)での生活(せいかつ)を…」
八木(やぎ)「それでは始(はじ)めます」
朋也(ともや)「はい」
朋也(ともや)「お願(ねが)いします」
渚(なぎさ)の分娩(ぶんべん)が、始(はじ)まった。
何度(なんど)も渚(なぎさ)は意識(いしき)を失(うしな)った。
そして、また痛(いた)みに目(め)を覚(さ)ます。
その繰(く)り返(かえ)しだった。
それは、目(め)を覆(おお)いたくなるほど、残酷(ざんこく)な仕打(しう)ちで…
まるで、死(し)に至(いた)らしめるための容赦(ようしゃ)のない拷問(ごうもん)のようだった。
頑張(がんば)るも何(なに)もない。
ただ、無抵抗(むていこう)に受(う)け続(つづ)けるだけ。
こんなことを続(つづ)けていたら、渚(なぎさ)が死(し)んでしまう…。
死(し)んでしまうじゃないかっ…。
早(はや)く…
早(はや)く終(お)わってくれっ…!
心(こころ)の中(なか)で叫(さけ)び続(つづ)ける。
長(なが)くて…
終(お)わりの見(み)えない時間(じかん)。
永遠(えいえん)に続(つづ)くと思(おも)われた…
五感(ごかん)が失(うしな)われて、俺(おれ)は暗闇(くらやみ)にいた。
ああ、どうなってしまったんだろう…。
俺(おれ)の心(こころ)が堪(た)えられなくなってしまったのだろうか…。
それとも、もう絶望(ぜつぼう)してしまったのだろうか…。
すべては終(お)わってしまったのだろうか…。
不意(ふい)に視覚(しかく)が戻(もど)った。
目(め)の前(まえ)にあるものは床(ゆか)だった。
………。
…聞(き)こえてくる。
…泣(な)き声(ごえ)が。
…赤(あか)ん坊(ぼう)の、泣(な)き声(ごえ)が。
そうとわかると、俺(おれ)は勢(いきお)いよく顔(かお)をあげた。
そして、現実(げんじつ)を見据(みす)えた。
泣(な)き声(ごえ)のする方向(ほうこう)…赤(あか)ん坊(ぼう)がタオルの上(うえ)に真(ま)っ赤(あか)な体(からだ)を晒(さら)しだしていた。
俺(おれ)は一度(いちど)渚(なぎさ)の手(て)を離(はな)すと、その子(こ)をタオルでくるんで、そっと抱(だ)き上(あ)げる。
そして、また渚(なぎさ)の手(て)を握(にぎ)りに戻(もど)る。
朋也(ともや)「渚(なぎさ)…」
渚(なぎさ)は目(め)を閉(と)じていた。
憔悴(しょうすい)しきった顔(かお)…
朋也(ともや)「渚(なぎさ)…」
呼(よ)びかける。
朋也(ともや)「渚(なぎさ)ぁ…」
目(め)に涙(なみだ)が溜(た)まりだす…
それが零(こぼ)れようとした瞬間(しゅんかん)。
手(て)が強(つよ)く握(にぎ)り直(なお)された。
朋也(ともや)「渚(なぎさ)!」
渚(なぎさ)「…朋也(ともや)くん」
その目(め)が薄(うす)く開(ひら)かれた。
まだ視界(しかい)がぼやけるのか、俺(おれ)の顔(かお)をそれは見(み)ていなかった。
朋也(ともや)「ここだ、渚(なぎさ)…」
顔(かお)を近(ちか)づける。
ようやく、目(め)が合(あ)った。
渚(なぎさ)「わたし…がんばれました…」
朋也(ともや)「ああ。そうだ…やったんだよ、渚(なぎさ)…」
朋也(ともや)「聞(き)こえるだろ、俺(おれ)たちの子供(こども)の泣(な)き声(ごえ)…」
渚(なぎさ)「はい…」
朋也(ともや)「ほら、最初(さいしょ)に抱(だ)いてる俺(おれ)…」
渚(なぎさ)「はい、かわいいです…」
朋也(ともや)「ああ…俺(おれ)たちの子(こ)だぞ。汐(うしお)だ」
渚(なぎさ)「しおちゃん…」
朋也(ともや)「あれがついてないから、女(おんな)の子(こ)じゃないかな…」
朋也(ともや)「そうですよね、早苗(さなえ)さん…」
朋也(ともや)「ほら、やっぱりそうだ…女(おんな)の子(こ)だ…」
朋也(ともや)「元気(げんき)な女(おんな)の子(こ)だぞ…」
渚(なぎさ)「よかったです…」
朋也(ともや)「ああ、よくやった…本当(ほんとう)に…」
渚(なぎさ)「はい…」
渚(なぎさ)「………」
渚(なぎさ)「でも…」
渚(なぎさ)「疲(つか)れてしまいました…」
朋也(ともや)「あ、ああ…」
渚(なぎさ)「だから…」
渚(なぎさ)「少(すこ)しだけ休(やす)ませてください…」
渚(なぎさ)「………」
俺(おれ)は不安(ふあん)になる。
いやに…渚(なぎさ)の顔(かお)が青白(あおじろ)かったから。
朋也(ともや)「………」
周(まわ)りが騒(さわ)がしく、どたどたしている。
なにをやっているのだろうか…。
オッサンの怒声(どせい)や…早苗(さなえ)さんの慌(あわ)てた声(こえ)まで聞(き)こえてくる。
みんな静(しず)かにしてほしい。
俺(おれ)は穏(おだ)やかに渚(なぎさ)と話(はなし)をしたいんだから。
朋也(ともや)「な、渚(なぎさ)…」
朋也(ともや)「待(ま)ってくれよ、渚(なぎさ)…」
朋也(ともや)「もう少(すこ)し話(はなし)をしてよう…」
朋也(ともや)「聞(き)いてくれてるだけで、いいから…」
渚(なぎさ)「はい…」
渚(なぎさ)「………」
朋也(ともや)「ほら、俺(おれ)たちの子(こ)だ…」
朋也(ともや)「おまえと俺(おれ)の子(こ)だ…」
朋也(ともや)「猿(さる)みたいな顔(かお)だよな…」
朋也(ともや)「すんげー小(ちい)さい…」
朋也(ともや)「呼(よ)んでみるからな、俺(おれ)…」
朋也(ともや)「汐(うしお)…」
朋也(ともや)「パパだぞ、汐(うしお)…」
朋也(ともや)「こっちがママだぞ…」
朋也(ともや)「はは…無視(むし)された」
朋也(ともや)「って、わかるわけないよな…」
渚(なぎさ)「………」
渚(なぎさ)はもう喋(しゃべ)ることはなかった。
けど、俺(おれ)の手(て)を握(にぎ)っていた。
離(はな)れてしまわないよう…強(つよ)く、強(つよ)く。
朋也(ともや)「子供(こども)の成長(せいちょう)なんてさ、きっと、あっというまだぞ…」
朋也(ともや)「すぐ大(おお)きくなってさ…幼稚園(ようちえん)に入園(にゅうえん)して…」
朋也(ともや)「俺(おれ)とおまえが付(つ)き添(そ)って入園式(にゅうえんしき)なんてさ…すごく滑稽(こっけい)な姿(すがた)だよな、きっと…」
朋也(ともや)「まだまだ子供(こども)のような俺(おれ)たちが、子供連(こどもづ)れてんだ…」
朋也(ともや)「面白(おもしろ)いよな、きっと…」
渚(なぎさ)も微笑(ほほえ)む。
朋也(ともや)「小学校(しょうがっこう)に入(はい)ってさ、授業(じゅぎょう)参観(さんかん)とか、運動会(うんどうかい)とかさ…家族(かぞく)でやるんだぜ…」
朋也(ともや)「これもすごく見物(けんぶつ)だ…」
朋也(ともや)「なんて、滑稽(こっけい)な姿(すがた)なんだろう…俺(おれ)たちは…」
朋也(ともや)「そんなの、一番(いちばん)に馬鹿(ばか)にするような奴(やつ)だったのにさ…」
こく、と頷(うなず)く。
朋也(ともや)「でもさ、おまえ…」
朋也(ともや)「お腹(はら)の中(なか)にいるこいつに、だんご大家族(だいかぞく)ばっか聴(き)かせてたからさ…」
朋也(ともや)「おまえと同(おな)じ趣味(しゅみ)にならないか、心配(しんぱい)だよ、俺(おれ)は…」
朋也(ともや)「渚(なぎさ)の可愛(かわい)いところだけ似(に)てくれたらいいな…」
朋也(ともや)「少(すこ)しぐらい泣(な)き虫(むし)でもいいからさ…」
朋也(ともや)「頑張(がんば)るときは、頑張(がんば)る」
朋也(ともや)「そういう子(こ)がいいな…」
朋也(ともや)「不器用(ぶきよう)でもいいからさ…」
朋也(ともや)「思(おも)いやりがあって…」
朋也(ともや)「他人(たにん)のためにも一生懸命(いっしょうけんめい)になれる…」
朋也(ともや)「そんなおまえの…ようにさ…」
朋也(ともや)「なってくれたら…」
朋也(ともや)「いいな…」
…視界(しかい)がぼやけていた。
いつの間(ま)にか、目(め)に涙(なみだ)が溜(た)まっていた。
そして、それが流(なが)れるのを止(と)めることができなかった。
なんなんだろう、この不安(ふあん)は。胸(むね)の痛(いた)みは。
俺(おれ)は、渚(なぎさ)と穏(おだ)やかに話(はなし)をしたいだけなのに…。
朋也(ともや)「な、渚(なぎさ)…」
でももう…話(はな)すことがなかった。
朋也(ともや)「………」
渚(なぎさ)の手(て)から力(ちから)が抜(ぬ)けていた。
朋也(ともや)「渚(なぎさ)っ…渚(なぎさ)っ…!」
それを必死(ひっし)で、掴(つか)み直(なお)す。
朋也(ともや)「渚(なぎさ)…」
朋也(ともや)「行(い)くんじゃないぞ、どこにも…」
泣(な)き声(ごえ)で言(い)った。
朋也(ともや)「ずっと、俺(おれ)のそばにいてくれるって…そう言(い)ってくれたよな…」
朋也(ともや)「それが…俺(おれ)の見(み)つけた夢(ゆめ)なんだから…」
朋也(ともや)「生(い)きてたって、いいことなんて何(なに)もない…」
朋也(ともや)「くそ面白(おもしろ)くもない人生(じんせい)だって…」
朋也(ともや)「そう思(おも)ってた奴(やつ)が、やっと見(み)つけた夢(ゆめ)なんだから…」
朋也(ともや)「生(い)きる希望(きぼう)なんだから…」
朋也(ともや)「な、渚(なぎさ)…」
朋也(ともや)「渚(なぎさ)ぁ…」
名(な)を呼(よ)び続(つづ)けた。
…いつまでも、いつまでも。
眩(まぶ)しい光(ひかり)の中(なか)にいた。
今(いま)まで暗(くら)いところにいたから、目(め)が慣(な)れていないだけだ。
すぐ、まぶしさは薄(うす)らぎ、背景(はいけい)が陰影(いんえい)を作(つく)り始(はじ)める。
そこは、あの場所(ばしょ)だった。
校門(こうもん)の坂(さか)の下(した)。
そこに、またあいつはいた。
じっと、高(たか)くにある校門(こうもん)を見上(みあ)げていた。
俺(おれ)は声(こえ)をかけるのをためらった。
どうしてか、わからなかったけど…。
何(なに)を考(かんが)えているのだろう。あいつは、時折(ときおり)うつむいて、ため息(いき)をついていた。
ずいぶん、時間(じかん)が経(た)った。
あいつは…校門(こうもん)に背(せ)を向(む)けるように振(ふ)り返(かえ)った。
俺(おれ)のほうを見(み)た。
そして、歩(ある)き出(だ)す。
見知(みし)らぬ俺(おれ)の脇(わき)を抜(ぬ)けて。
…声(こえ)をかけなければ。
でも…
そうしないほうが良(よ)かったんじゃないのか…。
俺(おれ)なんかと出会(であ)わなかったほうが…
このまま、別々(べつべつ)の道(みち)を歩(ある)いたほうが、良(よ)かったんじゃないのか。
だけど…
俺(おれ)は…
…俺(おれ)はっ…
「…渚(なぎさ)っ!」
その名(な)を叫(さけ)んでいた。
「俺(おれ)は、ここにいるぞっ!」
「………」
渚(なぎさ)がもう一度(いちど)、振(ふ)り返(かえ)る。
俺(おれ)の顔(かお)を見(み)た。
「…よかったです」
「声(こえ)かけてもらえて」
「そうかよ…」
「もしかしたら、朋也(ともや)くん…わたしと出会(であ)わなければよかったとか…」
「そんなこと思(おも)ってるんじゃないかって…」
「すごく不安(ふあん)でした…」
「………」
「でも、わたしは、朋也(ともや)くんと出会(であ)えてよかったです」
「とても、幸(しあわ)せでした」
「そうかよ…」
「だから、どうか…」
「もう、迷(まよ)わないでください」
「これから先(さき)、どんなことが待(ま)っていようとも…」
「わたしと出会(であ)えたこと、後悔(こうかい)しないでください」
「ずっと…いつまでも、強(つよ)く生(い)きてください」
「………」
「ダメ、でしょうか…」
「………」
「いや…」
「わかった…」
「後悔(こうかい)しない…」
「おまえと出会(であ)えたこと、胸(むね)を張(は)って…生(い)き続(つづ)ける」
「強(つよ)く、生(い)き続(つづ)ける」
「そうですか…」
「ありがとうございます」
にっこりと微笑(ほほえ)んだ。
「じゃ、いこうか」
「はい」
遠(とお)い日々(ひび)を後(あと)に…
「朋也(ともや)くんも、だんご大家族(だいかぞく)、好(す)きになってほしいです」
「そうだな、考(かんが)えておくよ」
「はいっ」
俺(おれ)たちは登(のぼ)っていく。長(なが)い、長(なが)い坂道(さかみち)を。