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次(つぎ)の光景(こうけい)は、床(ゆか)だった。
床(ゆか)をじっと見(み)ていた。
なんだっけ。何(なに)かの途中(とちゅう)だった気(き)がする。
『首(くび)』を縦(たて)に動(うご)かす。そうして、視界(しかい)を変(か)える。
彼女(かのじょ)がいた。
ずっと、僕(ぼく)が見(み)ていた少女(しょうじょ)だ。
少女(しょうじょ)が手(て)を差(さ)し出(だ)していた。
僕(ぼく)はそれに向(む)けて自分(じぶん)の『手(て)』を伸(の)ばした。
手(て)が重(かさ)なる。
感触(かんしょく)はなかったけど…それでも、合(あ)わさっていることはわかる。
同時(どうじ)に僕(ぼく)は実感(じっかん)する。
僕(ぼく)は本当(ほんとう)に、この世界(せかい)に生(う)まれてしまったんだ。
僕(ぼく)は存在(そんざい)してしまっている。
彼女(かのじょ)に触(ふ)れられる。
世界(せかい)は悲(かな)しかった。
けど、彼女(かのじょ)は優(やさ)しかった。
彼女(かのじょ)の手(て)に触(ふ)れていると、悲(かな)しさと優(やさ)しさが同時(どうじ)に僕(ぼく)の『胸(むね)』を満(み)たした。
僕(ぼく)は彼女(かのじょ)を求(もと)めて、ここに生(う)まれた。
新(あたら)しい世界(せかい)での暮(く)らしや、得(え)られるはずだった幸(しあわ)せ、あらゆるものを犠牲(ぎせい)にして。
彼女(かのじょ)は僕(ぼく)の手(て)を引(ひ)いて、立(た)ち上(あ)がらせると、また離(はな)れていった。
そして、数歩先(すうほさき)で手(て)を叩(たた)いた。
僕(ぼく)は彼女(かのじょ)に向(む)けて、歩(ある)き始(はじ)める。
そう…僕(ぼく)は歩(ある)く練習(れんしゅう)をしていたのだ。
記憶(きおく)は淀(よど)んでいた。
努力(どりょく)しなければ、思(おも)い出(だ)せない。
彼女(かのじょ)が手(て)を叩(たた)いている。
歩(ある)こう。
けど、足(あし)は思(おも)い通(どお)りに動(うご)いてくれない。
また、前(まえ)のめりに倒(たお)れ込(こ)んだ。
それでも繰(く)り返(かえ)し、彼女(かのじょ)は僕(ぼく)の手(て)を引(ひ)いて立(た)ち上(あ)がらせてくれた。
何度目(なんどめ)の歩行(ほこう)になるのか。
ようやく、彼女(かのじょ)の前(まえ)まで辿(たど)り着(つ)くことができた。
彼女(かのじょ)は彼女(かのじょ)の背丈(せたけ)の半分(はんぶん)しかない僕(ぼく)の体(からだ)を抱(だ)き留(と)めてくれた。
…よくできたね。
温(ぬく)もりだ。
この世界(せかい)でたったひとつの温(ぬく)もりだ。
僕(ぼく)の求(もと)めていた温(ぬく)もりだ。
ガラクタの体(からだ)では、体温(たいおん)は感(かん)じられなかったけど。
彼女(かのじょ)の顔(かお)を見上(みあ)げる。
訊(き)きたいことがたくさんあった。
でも、僕(ぼく)には口(くち)がなかったから、言葉(ことば)を喋(しゃべ)ることができなかった。
僕(ぼく)は『顔(かお)』を窓(まど)に向(む)けた。
いつだって、逆光(ぎゃっこう)が差(さ)し込(こ)んでいた窓(まど)。
外(そと)の世界(せかい)が見(み)たかった。
世界(せかい)の終(お)わりを、この『目(め)』で確(たし)かめたかった。

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４月１８日(金)

………。
朝日(あさひ)が差(さ)すように目(め)に痛(いた)い。
ああ…なんでこんな早(はや)くに起(お)きてしまったんだろう。
まだ、十分(じゅうぶん)始業時間(しぎょうじかん)に間(ま)に合(あ)う。
朋也(ともや)（別(べつ)に遅刻(ちこく)したくて、してるわけじゃないしな…）
起(お)きて、着替(きが)える。
いびきをかく親父(おやじ)の体(からだ)を跨(また)いで、居間(いま)を抜(ぬ)けた。
風景(ふうけい)が違(ちが)う…。
同校(どうこう)の生徒(せいと)がわんさと歩(ある)いている。
朋也(ともや)（ま、これが普通(ふつう)なんだけどさ…）
生徒(せいと)「おはよう」
生徒(せいと)「おはよーっ」
挨拶(あいさつ)が繰(く)り返(かえ)される中(なか)、じっと立(た)ち尽(つ)くしていたが…
ひとりも俺(おれ)に声(こえ)をかける奴(やつ)はいなかった。
ただ、皆(みな)、笑顔(えがお)で俺(おれ)を追(お)い越(こ)していくだけだった。
きっと誰(だれ)にも俺(おれ)の姿(すがた)は見(み)えていないのだ。
だから、このまま踵(きびす)を返(かえ)してどこかへ行(い)ってしまおうと、呼(よ)び止(と)める奴(やつ)もいない。
朋也(ともや)（このまま、ふけちまおう…）
声(こえ)「どこにいくんですかっ？」
ぴん、と服(ふく)の裾(すそ)を引(ひ)っ張(ぱ)られた。
見(み)える奴(やつ)がいたらしい。
するとそれは、仲間(なかま)だ。同(おな)じ、透明(とうめい)の世界(せかい)に住(す)む、住人(じゅうにん)。
古河(ふるかわ)「岡崎(おかざき)さん、学校(がっこう)はこっちです」
朋也(ともや)「そうだな、間違(まちが)えた」
古河(ふるかわ)「間違(まちが)えるわけないです。みんな、こっちに行(い)ってます」
朋也(ともや)「そういうのを見(み)ると、逆(さか)らいたくなるんだ」
古河(ふるかわ)「ダメです。やっと、遅刻(ちこく)しないでいけるのに…一緒(いっしょ)に行(い)きましょう」
この人混(ひとご)みの中(なか)、女(おんな)の子(こ)と並(なら)んで登校(とうこう)する…。
それは想像(そうぞう)しただけでぞっとする状況(じょうきょう)だった。
朋也(ともや)「おまえ先(さき)にいけ」
古河(ふるかわ)「そんなことしないです。岡崎(おかざき)さん、いかないなら、わたしもここで待(ま)ちます」
朋也(ともや)「遅刻(ちこく)だぞ」
古河(ふるかわ)「構(かま)わないです」
朋也(ともや)「………」
じっとしていると…登校(とうこう)する生徒(せいと)の数(かず)が目(め)に見(み)えて減(へ)ってきた。
朋也(ともや)「…時間(じかん)やばいだろ」
古河(ふるかわ)「今(いま)ならなんとか間(ま)に合(あ)います」
朋也(ともや)「そっか」
古河(ふるかわ)「はい」
朋也(ともや)「………」
そもそも、誰(だれ)の目(め)にも見(み)えないんじゃなかったのか。
誰(だれ)かの目(め)を気(き)にするような、そんな見栄(みえ)も立場(たちば)もなかったんじゃないのか。
朋也(ともや)「…急(いそ)ぐぞ」
古河(ふるかわ)「はい」
そして今日(きょう)も坂(さか)を登(のぼ)っていく。
変(か)わりゆく日常(にちじょう)の歯車(はぐるま)を、また回(まわ)すために。
………。
昼(ひる)。いつもの場所(ばしょ)でパンを食(た)べていた。
古河(ふるかわ)「二週間後(にしゅうかんご)…ひとりでも、来(き)てくれるでしょうか」
二週間後(にしゅうかんご)…演劇部(えんげきぶ)の説明会(せつめいかい)の日(ひ)だった。
朋也(ともや)（いや、しかし…ビラがだんご大家族(だいかぞく)だからなぁ…）
即答(そくとう)できず、言葉(ことば)に詰(つ)まる。
古河(ふるかわ)「岡崎(おかざき)さん…？」
朋也(ともや)「ま、大丈夫(だいじょうぶ)だろ…」
朋也(ともや)「おまえが校舎(こうしゃ)に放(はな)っただんご達(たち)が今(いま)、各掲示板(かくけいじばん)で頑張(がんば)ってくれてる。信(しん)じてやれ」
古河(ふるかわ)「ですよね。百人(ひゃくにん)もいるんですからっ」
朋也(ともや)（いや、それがネックだと思(おも)うんだが…）
自信(じしん)たっぷりに言(い)う古河(ふるかわ)に無言(むごん)の突(つ)っ込(こ)み。
しかし、どうしてあんなものが大流行(だいりゅうこう)したのか。今(いま)思(おも)えば不思議(ふしぎ)で仕方(しかた)がない。
それを未(ま)だに好(す)きだというこいつの嗜好(しこう)のほうが、もっと謎(なぞ)だが。
古河(ふるかわ)「そういえば、岡崎(おかざき)さん…」
朋也(ともや)「なに」
古河(ふるかわ)「説明会(せつめいかい)って、何(なに)をすればいいものなんでしょうか」
朋也(ともや)「………」
古河(ふるかわ)「岡崎(おかざき)さん？」
…忘(わす)れていた。
こいつがそういうことを、器用(きよう)にこなせるタイプの人間(にんげん)じゃないことを。
朋也(ともや)「古河(ふるかわ)っ」
古河(ふるかわ)「はい」
朋也(ともや)「今(いま)から練習(れんしゅう)だ」
朋也(ともや)「好(す)きに喋(しゃべ)ってみろ」
俺(おれ)は地(じ)べたに座(すわ)って、黒板(こくばん)の前(まえ)に立(た)つ古河(ふるかわ)にそう指示(しじ)する。
古河(ふるかわ)は、部長(ぶちょう)としての自覚(じかく)がある程度(ていど)はでてきたようで、率先(そっせん)してその場所(ばしょ)に立(た)っていた。
少(すこ)し前(まえ)なら、俺(おれ)にその代(か)わりを頼(たの)み込(こ)んでいたことだろう。
前向(まえむ)きに頑張(がんば)ろうとしている。
その姿勢(しせい)は伝(つた)わってきた。
朋也(ともや)（頑張(がんば)れよ、古河(ふるかわ)）
心(こころ)で応援(おうえん)する。
しかし…
古河(ふるかわ)「え、えっと…ですね…」
あたふたと手(て)を動(うご)かしたり、視線(しせん)を至(いた)るところに這(は)わせたりするだけで、一向(いっこう)に話(はなし)は始(はじ)まらなかった。
そのまま予鈴(よれい)が鳴(な)る。
古河(ふるかわ)「あ…」
古河(ふるかわ)「………」
朋也(ともや)「なぁ、古河(ふるかわ)」
古河(ふるかわ)「はい」
朋也(ともや)「そんなおまえに、どうして演劇(えんげき)ができるんだ…」
これだけ口下手(くちべた)で、これだけプレッシャーに弱(よわ)くて。
こんな矛盾(むじゅん)した存在(そんざい)が部長(ぶちょう)だと知(し)れたら、説明(せつめい)会(え)に訪(おとず)れた連中(れんちゅう)はそそくさと退散(たいさん)を決(き)め込(こ)むだろう。
まだ見(み)ぬ入部希望者(にゅうぶきぼうしゃ)…彼(かれ)らの前(まえ)には、ふたつの壁(かべ)が立(た)ちはだかっているのだ。
ひとつめは、だんご大家族(だいかぞく)。
ふたつめは、口下手(くちべた)な部長(ぶちょう)。
朋也(ともや)「はぁ…」
そんな壁(かべ)、誰(だれ)も乗(の)り越(こ)えてこれない。
朋也(ともや)（ていうか、乗(の)り越(こ)えたくない…）
古河(ふるかわ)「あの…岡崎(おかざき)さん？」
朋也(ともや)「ずばり言(い)おう、古河(ふるかわ)」
古河(ふるかわ)「はい…」
朋也(ともや)「おまえに演説(えんぜつ)の才能(さいのう)はない」
古河(ふるかわ)「え…」
朋也(ともや)「だからな、むちゃくちゃ頑張(がんば)れ」
古河(ふるかわ)「は、はい」
朋也(ともや)「しばらくは、説明会(せつめいかい)の練習(れんしゅう)だな…」
古河(ふるかわ)「わかりました。がんばりますっ」
やる気(き)だけはあるらしく、手(て)をぐっと握(にぎ)ってみせた。
杏(きょう)「あ、朋也(ともや)～」
朋也(ともや)「ん？
よぉ」
藤林杏(ふじばやしきょう)。２年(ねん)の時(とき)のクラスメイトだ。
ウチのクラスの委員長(いいんちょう)の双子(ふたご)の姉(あね)で、俺達(おれたち)に平気(へいき)で話(はな)しかけてくる数(かず)少(すく)ない女子(じょし)…。
性格(せいかく)は…まぁ…悪(わる)いな…。
今(いま)は隣(となり)のクラスだ。
杏(きょう)「どこ行(い)ってたの？」
朋也(ともや)「ちょっとヤボ用(よう)だ」
杏(きょう)「ふーん。ひょっとしてコレ？」
ピンと小指(こゆび)を立(た)ててニヤニヤと笑(わら)う。
朋也(ともや)「んな色(いろ)っぽいもんじゃねぇよ」
杏(きょう)「？
なんか疲(つか)れてる？」
朋也(ともや)「俺(おれ)って意外(いがい)と面倒見(めんどうみ)、良(よ)い方(かた)だったんだな」
杏(きょう)「なに？
それ笑(わら)うトコ？」
朋也(ともや)「…ああ…笑(わら)ってくれ」
杏(きょう)「あははははははははははははは」
朋也(ともや)「笑(わら)うなっ！」
杏(きょう)「なによ。笑(わら)えって言(い)ったり、笑(わら)うなって怒(おこ)ったり面倒(めんどう)ねぇ」
ガラ…。
春原(すのはら)「おや、おかえり」
朋也(ともや)「なんだ、教室(きょうしつ)にいたのか」
春原(すのはら)「ご挨拶(あいさつ)だね。まるで僕(ぼく)が教室(きょうしつ)にいちゃイケナイみたいじゃないか」
朋也(ともや)「いや、いちゃイケナイだろ？
目(め)の毒(どく)だ」
杏(きょう)「無駄(むだ)に二酸化炭素(にさんかたんそ)増(ふ)やすだけでしょ？
酸素(さんそ)吐(つ)く分(ぶん)、雑草(ざっそう)の方(ほう)がマシよ」
春原(すのはら)「あんたら言(い)うことキツ過(す)ぎッス！」
春原(すのはら)「ていうか、藤林杏(ふじばやしきょう)！
なんでいんの！？」
杏(きょう)「なによ。あたしがここにいちゃイケナイっての？」
春原(すのはら)「あ…えっと…そういうわけじゃないけど…えっと…もう予鈴(よれい)も鳴(な)ったし自分(じぶん)のクラスに戻(もど)った方(ほう)がよろしいかと…」
杏(きょう)「本鈴(ほんれい)はまだでしょ。みみっちいこと言(い)ってると、人(ひと)としての器(うつわ)が知(し)れるわよ」
春原(すのはら)「ぼ、僕(ぼく)みみっちいですか？」
杏(きょう)「ミジンコ並(なみ)じゃない？」
春原(すのはら)「プランクトン！！」
朋也(ともや)「…おいミジンコ、あれはなんだ？」
春原(すのはら)「え？
あれって？」
春原(すのはら)「…て返事(へんじ)しちゃったよ！」
朋也(ともや)「いいからさっさと答(こた)えろ。あの一団(いちだん)だよ、誰(だれ)の席(せき)か知(し)んねぇけど…」
春原(すのはら)「あそこは。委員長(いいんちょう)の席(せき)あたりだね」
朋也(ともや)「藤林(ふじばやし)の？
何(なに)か提出(ていしゅつ)する物(もの)でもあったか？」
杏(きょう)「あー、きっとアレね。占(うらな)いよ」
朋也(ともや)「…占(うらな)い？」
杏(きょう)「それにしても…相変(あいか)わらずの人気(にんき)ねぇ」
朋也(ともや)「何(なに)がだ？」
杏(きょう)「椋(りょう)の占(うらな)い」
春原(すのはら)「ひょっとして、あの人(ひと)だかりの中心(ちゅうしん)て委員長(いいんちょう)？」
杏(きょう)「そ」
朋也(ともや)「…そんなにあいつの占(うらな)いって当(あ)たるのか…？」
杏(きょう)「………」
春原(すのはら)「パッとしないように見(み)えても、なにかしら特技(とくぎ)を持(も)ってるものなんだねぇ」
ゴン！
春原(すのはら)「痛(いて)っ！
なにするんスかっ！」
杏(きょう)「妹(いもと)の悪口(わるくち)は許(ゆる)さないわよ」
春原(すのはら)「褒(ほ)めたんだよっ」
ゴン！
春原(すのはら)「痛(いた)いッス！」
杏(きょう)「あんた。現国(げんごく)の成績(せいせき)最悪(さいあく)でしょ」
朋也(ともや)「毎回(まいかい)赤点(あかてん)だ」
春原(すのはら)「なんでおまえが知(し)ってるんだよっ？！」
朋也(ともや)「おまえの部屋(へや)で見(み)た。机(つくえ)の奥(おく)を漁(あさ)ったら大量(たいりょう)だったぞ」
春原(すのはら)「ぼ、僕(ぼく)にプライベートはないんスか？」
朋也(ともや)「はっはっはっ、今更(いまさら)何(なに)言(い)ってんだろなこいつは」
杏(きょう)「あはは、まったくよねぇ」
春原(すのはら)「ってあんたらおかしいよ！」
杏(きょう)「あ、そうだ。ねぇヘタレ」
春原(すのはら)「誰(だれ)がヘタレだっ！」
朋也(ともや)「反応(はんのう)してる時点(じてん)でおまえだろう」
春原(すのはら)「おまえの事(こと)かもしれないだろ」
杏(きょう)「違(ちが)うわよ。あんたのことよ」
春原(すのはら)「…そうですか…」
春原(すのはら)「で…なんでしょう？」
杏(きょう)「あんた試(ため)しに椋(りょう)に占(うらな)ってもらえば？」
春原(すのはら)「え、僕(ぼく)が？」
杏(きょう)「あ、別(べつ)に朋也(ともや)でもいいわよ」
朋也(ともや)「占(うらな)いねぇ…」
自分が占ってもらう
朋也(ともや)「当(あ)たるのか？」
杏(きょう)「それはやってみてからのお楽(たの)しみでしょ」
朋也(ともや)「当(あ)たるも八卦(はっけ)…か」
春原(すのはら)「行(い)くの？」
朋也(ともや)「試(ため)しにな」
春原(すのはら)「じゃあ次(つぎ)、僕(ぼく)も行(い)こうかな」
朋也(ともや)「そうだな、おまえの場合(ばあい)、もしかしたら人生(じんせい)に希望(きぼう)が持(も)てるようになるかもしれないしな」
春原(すのはら)「それって今(いま)どん底(ぞこ)って遠回(とおまわ)しに言(い)ってますか？」
朋也(ともや)「いや、遠回(とおまわ)しのつもりはないけど」
杏(きょう)「っていうか、あんた自分(じぶん)より下(した)があると思(おも)ってんの？」
春原(すのはら)「ひでっ！
あんたら言葉(ことば)の暴力(ぼうりょく)って知(し)ってます？」
朋也(ともや)「ははは、何(なに)言(い)ってんだよコイツは」
杏(きょう)「事実(じじつ)を告(つ)げることは暴力(ぼうりょく)じゃないわよ」
春原(すのはら)「バカにバカって言(い)ってもそれは悪口(わるくち)じゃん！」
朋也(ともや)「おまえ、今(いま)自分(じぶん)でどん底(ぞこ)って認(みと)めたぞ」
春原(すのはら)「ち…ちがっ！
今(いま)のは言葉(ことば)のアヤというか…その…」
杏(きょう)「勉強(べんきょう)ダメ、彼女(かのじょ)いない、遅刻常習者(ちこくじょうしゅうしゃ)、変(へん)な顔(かお)する…」
朋也(ともや)「権力(けんりょく)に弱(よわ)い、弱(よわ)い者(もの)には強(つよ)い、友達(ともだち)いない、ひぃっ！て言(い)う…」
杏(きょう)「………」
朋也(ともや)「………」
春原(すのはら)「な、なんだよ、その哀(あわ)れみに満(み)ちきった目(め)はっ！」
杏(きょう)「いや…なんていうか…ゴメン」
朋也(ともや)「言(い)って良(い)いことと悪(わる)いことってあったよな」
春原(すのはら)「ちくしょう！
絶対(ぜったい)将来(しょうらい)おまえらよりＢＩＧになってやるからなっ！」
朋也(ともや)「あ…」
杏(きょう)「いじめすぎたかしらね？」
朋也(ともや)「そうだ、あいつのいいとこ一(ひと)つあった」
杏(きょう)「なに？」
朋也(ともや)「立(た)ち直(なお)りが早(はや)い」
杏(きょう)「ああ、なるほどね」
朋也(ともや)「さてと、俺(おれ)は占(うらな)いを受(う)けてくるかな」
杏(きょう)「うん、頑張(がんば)って行(い)って来(き)なさい」
………。
朋也(ともや)「うーん…」
杏(きょう)「ん？
おかえり」
杏(きょう)「ってなにその微妙(びみょう)な顔(かお)は？
占(うらな)い変(へん)なの出(で)た？」
朋也(ともや)「いや、なんて言(い)うんだろうな、良(い)いはずなんだけど周(まわ)りの反応(はんのう)が悪(わる)いというか…」
杏(きょう)「………」
朋也(ともや)「…なんだその顔(かお)は？」
杏(きょう)「別(べつ)に。で、なんて？」
朋也(ともや)「『近々(きんきん)恋人(こいびと)ができて幸(しあわ)せ』だそうだ」
杏(きょう)「………」
朋也(ともや)「いや、だからなんでみんな表情(ひょうじょう)を曇(くも)らせるんだ？」
杏(きょう)「ま、占(うらな)いは占(うらな)いだから」
朋也(ともや)「…？」
午後(ごご)の授業(じゅぎょう)の開始(かいし)を告(つ)げるチャイムが鳴(な)り、皆(みな)席(せき)につく。
杏(きょう)もダッシュで、教室(きょうしつ)を出(で)ていった。
………。
声(こえ)「おい、岡崎(おかざき)」
授業(じゅぎょう)が終(お)わるなり呼(よ)ぶ声(こえ)がしたが、担任(たんにん)のものだったので無視(むし)しておく。
担任(たんにん)「聞(き)こえないのか、岡崎(おかざき)っ」
しつこい。
朋也(ともや)「なんすか」
あからさまに怪訝(けげん)に答(こた)えて顔(かお)を上(あ)げる。
担任(たんにん)は目(め)の前(まえ)まできていた。
担任(たんにん)「春原(すのはら)はどこだ？」
朋也(ともや)「春原(すのはら)？」
隣(となり)を見(み)る。
確(たし)かにその姿(すがた)はなかった。
朋也(ともや)「さぁ」
担任(たんにん)「探(さが)して連(つ)れてきてくれないか」
朋也(ともや)「え？
俺(おれ)？」
担任(たんにん)「そう、おまえだ、岡崎(おかざき)」
朋也(ともや)「どうして」
担任(たんにん)「おまえなら見当(けんとう)がつくんじゃないのかと思(おも)ってだよ」
朋也(ともや)「つかねぇ」
担任(たんにん)「そうかぁ…」
担任(たんにん)「なら、おまえを代(か)わりに呼(よ)ぶことになるぞ」
朋也(ともや)「どこへ」
担任(たんにん)「もちろん、職員室(しょくいんしつ)だよ」
朋也(ともや)「どうして」
担任(たんにん)「岡崎(おかざき)、おまえは、自分(じぶん)の遅刻(ちこく)の数(かず)を知(し)っているのか？」
朋也(ともや)「けど、春原(すのはら)ほどひどくない。午前中(ごぜんちゅう)には来(き)てる」
担任(たんにん)「そういうのを五十歩百歩(ごじっぽひゃっぽ)というんだぞ」
担任(たんにん)「とにかく、春原(すのはら)がいないんだったら、順番(じゅんばん)としてはおまえになるんだよ」
朋也(ともや)「はぁ…」
憂鬱(ゆううつ)になる事態(じたい)だった。
けど、今(いま)からの授業(じゅぎょう)をサボれることを考(かんが)えると、素直(すなお)に春原(すのはら)を探(さが)しにいくほうが賢明(けんめい)だ。
朋也(ともや)「わかりました。探(さが)してきますよ」
背(せ)を向(む)けて、歩(ある)き出(だ)す。
担任(たんにん)「おい、岡崎(おかざき)っ、今(いま)からじゃないぞっ、授業(じゅぎょう)が終(お)わってからだぞっ！」
最後(さいご)の言葉(ことば)は聞(き)こえない振(ふ)りをした。
これで、授業(じゅぎょう)をさぼったことを咎(とが)められても、担任(たんにん)のせいにできる。
春原(すのはら)は確(たし)かに、昼休(ひるやす)みはいたはずだ。
けど、五時間目(ごじかんめ)は受(う)けていたかは定(さだ)かではない。俺(おれ)は一時間(いちじかん)ぶっ通(とお)しで眠(ねむ)り続(つづ)けていたからだ。
朋也(ともや)（するとＢＩＧになると言(い)って出(で)ていったきりか…）
朋也(ともや)（どこに行(い)ったかなんて、ぜんぜん読(よ)めねぇ…）
探(さが)す気力(きりょく)が失(う)せてくる。
適当(てきとう)にぶらつくのも、そろそろ飽(あ)きてきた。
春原(すのはら)のいそうな所(ところ)を考(かんが)えてみる。
朋也(ともや)「………」
見当(けんとう)もつかない。
正直(しょうじき)、もう春原(すのはら)はどうでもよかった。
戻(もど)ろう…。
…踵(きびす)を返(かえ)したところで思(おも)い出(だ)す。
旧校舎(きゅうこうしゃ)には絶好(ぜっこう)の寝場所(ねばしょ)があったはず。
それは…一階(いっかい)の資料室(しりょうしつ)。
やっぱり教室に戻る
やっぱり、授業(じゅぎょう)には出(で)ておいたほうがいいだろう。寝(ね)ているだけだとしても。
………。
放課後(ほうかご)になっても春原(すのはら)の奴(やつ)は戻(もど)ってこなかった。
別(べつ)に珍(めずら)しいことでもなかったので、気(き)にしないでおく。
俺(おれ)はひとり、演劇部(えんげきぶ)の部室(ぶしつ)に向(む)かう。
その途中(とちゅう)で、古河(ふるかわ)に追(お)いつかれ、いつの間(ま)にかふたり並(なら)んで廊下(ろうか)を歩(ある)いていた。
古河(ふるかわ)「…えへへ」
古河(ふるかわ)は懸命(けんめい)に、でも楽(たの)しそうに俺(おれ)と歩幅(ほはば)を合(あ)わせていた。
古河(ふるかわ)「これから、練習(れんしゅう)ですね」
朋也(ともや)「演劇(えんげき)のじゃないぞ。説明会(せつめいかい)のだぞ？」
古河(ふるかわ)「わかってます」
古河(ふるかわ)「それでも、なんだか、ひとつのことをするために集(あつ)まるのって、わくわくします」
古河(ふるかわ)「しないですかっ」
朋也(ともや)「いや…よくわかんねぇけど…」
朋也(ともや)「なぁ…」
朋也(ともや)「喋(しゃべ)ることを決(き)めておいたほうがいいんじゃないのか？」
古河(ふるかわ)「そうですね。暗記(あんき)は得意(とくい)ですから、それならできると思(おも)います」
朋也(ともや)「でも、何(なに)を喋(しゃべ)るか、その内容(ないよう)に関(かん)しては俺(おれ)は手伝(てつだ)えないぞ」
朋也(ともや)「俺(おれ)は演劇(えんげき)についてまったく無知(むち)だ。こっちが知(し)りたいぐらいだからな」
古河(ふるかわ)「わたしだって同(おな)じです」
古河(ふるかわ)「演劇(えんげき)をやりたいだけで、詳(くわ)しいことなんて実(じつ)は何(なに)ひとつ知(し)らないです」
演劇部(えんげきぶ)、部長(ぶちょう)の爆弾発言(ばくだんはつげん)。
朋也(ともや)「………」
朋也(ともや)「なぁ、古河(ふるかわ)」
古河(ふるかわ)「はい」
朋也(ともや)「どうして演劇(えんげき)をやりたいんだ」
古河(ふるかわ)「好(す)きだからです」
朋也(ともや)「どんなところがだ」
古河(ふるかわ)「楽(たの)しいと思(おも)いました。みんなで演技(えんぎ)するのって」
古河(ふるかわ)「わたし、小(ちい)さい頃(ごろ)から学芸会(がくげいかい)とか、そういうの、ことごとく欠席(けっせき)しちゃって…」
古河(ふるかわ)「だから、絶対(ぜったい)演劇部(えんげきぶ)に入(はい)ろうって…そう思(おも)ってたんです」
古河(ふるかわ)「三年間(さんねんかん)、演劇(えんげき)がんばろうって…」
古河(ふるかわ)「でも、一(いち)、二(に)年生(ねんせい)の頃(ころ)は、それどころじゃなくて…」
古河(ふるかわ)「三年(さんねん)生(なま)はずっと休(やす)んじゃって…」
朋也(ともや)「わかった。もういい」
つまり…
こいつの演劇(えんげき)への情熱(じょうねつ)というのは、要(かなめ)は集団生活(しゅうだんせいかつ)への憧(あこが)れなのだ。
みんなが力(ちから)を合(あ)わせて、ひとつのことを達成(たっせい)する。
そうして、今(いま)まで叶(かな)わなかった夢(ゆめ)を実現(じつげん)したい。
それだけなのだ。
古河(ふるかわ)「ただ、好(す)きなだけです」
ふぅ、と小(ちい)さく息(いき)をついて、古河(ふるかわ)は胸(むね)を手(て)で抑(おさ)えた。
一気(いっき)に喋(しゃべ)りすぎたのだろう。疲(つか)れたようだった。
こんなにも脆弱(ぜいじゃく)で、儚(はかな)くて…
それでも健気(けなげ)に頑張(がんば)ろうとしている姿(すがた)。
それを見(み)た人間(にんげん)が、彼女(かのじょ)の前(まえ)を素通(すどお)りできるだろうか。
俺(おれ)なら…できない。
朋也(ともや)「…合格(ごうかく)だ」
だから、そう告(つ)げていた。
古河(ふるかわ)「はい？」
朋也(ともや)「今(いま)の演説(えんぜつ)をすればいいだけだ」
朋也(ともや)「短(みじか)ったけどさ…なんていうか、一番(いちばん)おまえの言(い)いたいことが言(い)えてた気(き)がする」
古河(ふるかわ)「それは…なぐさめですか？」
朋也(ともや)「違(ちが)う。本心(ほんしん)だよ」
朋也(ともや)「俺(おれ)は、思(おも)ったことをずばり言(い)うほうだ」
古河(ふるかわ)「ですよね…。たまに、ぐさりと来(き)ます」
朋也(ともや)「ああ。だから、信(しん)じろ。自分(じぶん)の言葉(ことば)を」
朋也(ともや)「ただ、問題(もんだい)は…」
古河(ふるかわ)「はい？」
朋也(ともや)「同(おな)じことが、本番(ほんばん)でも言(い)えるかどうか、だ」
古河(ふるかわ)「そう、ですね」
朋也(ともや)「おまえさ、プレッシャーに弱(よわ)くない？」
古河(ふるかわ)「はい、弱(よわ)いです」
ここで俺(おれ)の頭(あたま)に浮(う)かんだ疑問(ぎもん)は、堂々巡(どうどうめぐ)りになる。
朋也(ともや)「どうしてそんなおまえに、演劇(えんげき)ができる？」
それからも、古河(ふるかわ)は説明会(せつめいかい)の練習(れんしゅう)に励(はげ)んだ。
古河(ふるかわ)「…ひとつのことをみんなでがんばる…」
古河(ふるかわ)「それは素晴(すば)らしいことだと思(おも)います」
古河(ふるかわ)「一緒(いっしょ)に、がんばってみませんかっ」
そう締(し)めくくった。
言葉(ことば)は稚拙(ちせつ)だったけど、懸命(けんめい)な語(かた)り口(くち)は好感(こうかん)が持(も)てた。
朋也(ともや)「質問(しつもん)っ」
俺(おれ)は新入生(しんにゅうせい)を装(よそお)って、挙手(きょしゅ)する。
古河(ふるかわ)「はい、どうぞ」
どんな演劇をやるんですか
朋也(ともや)「どんな演劇(えんげき)をやるんですか？」
演劇(えんげき)といっても、いろいろある（どんなのがあるかは知(し)らないが）。
入部希望者(にゅうぶきぼうしゃ)が一番(いちばん)知(し)りたいところではないだろうか。
古河(ふるかわ)「どんな演劇(えんげき)、ですか…」
少(すこ)し考(かんが)える。
朋也(ともや)「童話(どうわ)のような子供向(こどもむ)けの劇(げき)だとか、ミュージカルっぽい大人向(おとなむ)けのものだとか、いろいろあるんだろう？」
古河(ふるかわ)「あるんですかっ」
朋也(ともや)「帰(かえ)る」
古河(ふるかわ)「ああ、待(ま)ってくださいっ」
朋也(ともや)「じゃ、なんでもいいから、答(こた)えろ」
古河(ふるかわ)「はいっ…ええとですねっ…」
古河(ふるかわ)「それはそれは楽(たの)しい劇(げき)ですっ」
…むちゃくちゃアバウトだった。
朋也(ともや)「笑(わら)えるのか。喜劇(きげき)なのか」
古河(ふるかわ)「いえ、決(けっ)して笑(わら)えるという意味(いみ)では…」
古河(ふるかわ)「でも、笑(わら)えないというわけでもなく…」
朋也(ともや)「泣(な)けるのか」
古河(ふるかわ)「泣(な)けるといいますか、泣(な)けなくもなく、といいますか…」
朋也(ともや)「笑(わら)えるのか、泣(な)けるのか、一体(いったい)どっちなんだ？」
古河(ふるかわ)「ちゅ、中間(ちゅうかん)ぐらいですっ」
古河(ふるかわ)「…えへへっ」
笑顔(えがお)でカバーか…。
朋也(ともや)「ま、いいよ…」
古河(ふるかわ)「え、よかったですかっ」
朋也(ともや)「答(こた)えようとしてたからな」
朋也(ともや)「黙(だま)りこくっちまったら、不安(ふあん)にさせるだろうけどさ」
朋也(ともや)「懸命(けんめい)に答(こた)えようとしてたら、少(すこ)しは熱意(ねつい)が伝(つた)わるだろ？」
古河(ふるかわ)「はい、伝(つた)わればうれしいです」
朋也(ともや)「まぁ、おまえには今(いま)のところ、それしかないからな…」
古河(ふるかわ)「……？」
それからさらに一時間(いちじかん)ぐらい練習(れんしゅう)を続(つづ)ける。
古河(ふるかわ)の声(こえ)が枯(か)れてきたので、そこで切(き)り上(あ)げることにした。
その日(ひ)も、途中(とちゅう)までふたりで帰(かえ)る。
道(みち)の先(さき)に、見慣(みな)れた背格好(せかっこう)の男(おとこ)がいた。
春原(すのはら)だった。
朋也(ともや)（あいつは、今頃(いまごろ)、なにしてんだよ…）
隣(となり)には古河(ふるかわ)。
一番(いちばん)、会(あ)わせたくないふたりだった。
古河としばらく離れて歩く
朋也(ともや)「おまえさ、しばらく離(はな)れて歩(ある)いてくれないか」
古河(ふるかわ)「はい？」
朋也(ともや)「悪(わる)いけど、他人(たにん)の振(ふ)りしてほしいんだ。知(し)り合(あ)いがいる」
古河(ふるかわ)「どの方(かた)ですか。お友達(ともだち)ですか」
古河(ふるかわ)「岡崎(おかざき)さんの知(し)り合(あ)いだったら、挨拶(あいさつ)したいです」
朋也(ともや)「結構(けっこう)だ」
丁重(ていちょう)に断(ことわ)って、その肩(かた)を押(お)す。
古河(ふるかわ)「…？」
頭(あたま)の上(うえ)に疑問符(ぎもんふ)を浮(う)かべたまま、古河(ふるかわ)は距離(きょり)を置(お)いた。
入(い)れ代(か)わりに、春原(すのはら)が俺(おれ)に気(き)づいて、近(ちか)づいてくる。
春原(すのはら)「よぅ」
朋也(ともや)「おまえな…代(か)わりに俺(おれ)がしょっぴかれるところだったんだぞ」
春原(すのはら)「え？
なんのことだか、わかんないんだけど」
朋也(ともや)「こんなことしてると本当(ほんとう)に退学(たいがく)させられるぞ」
春原(すのはら)「そりゃ、別(べつ)に構(かま)わないんだけどね」
朋也(ともや)「………」
ちらりと春原(すのはら)の後(うし)ろを見(み)る。
律儀(りちぎ)に、古河(ふるかわ)は待(ま)っていた。
俺(おれ)は顎(あご)で先(さき)に行(い)ってろ、と指示(しじ)するが、まったく伝(つた)わっていないようで、小首(こくび)を傾(かし)げるばかりだった。
春原(すのはら)「ね、腹減(はらへ)ったよね」
朋也(ともや)「そうだな」
春原(すのはら)「なにかおごってくれない？」
朋也(ともや)「んな金(かね)あるかよ」
春原(すのはら)「おまえね、こういう時(とき)に恩(おん)を返(かえ)しておかなくてどうすんだよ」
春原(すのはら)「僕(ぼく)の部屋(へや)を共同(きょうどう)で使(つか)っておいてさ」
朋也(ともや)「…なにを、おごれっていうんだよ」
辺(あた)りを見回(みまわ)す。なにもなかった。
朋也(ともや)「なにもねぇじゃん」
春原(すのはら)「あ、そこの自販機(じはんき)のでいいや。その、キャラメルジュース、ていう腹(はら)に溜(た)まりそうなジュース」
冗談(じょうだん)だった。こいつがそんな甘(あま)そうなものを欲(ほ)しがるなんてことはありえない。
が…
他人(たにん)の振(ふ)りをして、その話(はなし)を聞(き)いていた古河(ふるかわ)が、その販売機(はんばいき)に寄(よ)っていった。
そして…
ぴっ。がこん！
春原(すのはら)「あん？」
自販機(じはんき)の作動音(さどうおと)に春原(すのはら)が振(ふ)り返(かえ)る。
その先(さき)で、古河(ふるかわ)はジュースの缶(かん)を大事(だいじ)そうに持(も)って立(た)っていた。
古河(ふるかわ)「これ、よかったら、どうぞ」
差(さ)し出(だ)す。
同時(どうじ)に俺(おれ)は顔面(がんめん)を手(て)で覆(おお)った。
春原(すのはら)「はい？」
古河(ふるかわ)「おごりです。わたしの」
春原(すのはら)「誰(だれ)、あんた？」
古河(ふるかわ)「古河渚(ふるかわなぎさ)といいます。岡崎(おかざき)さんにはお世話(せわ)になってます」
春原(すのはら)「そうなの？」
春原(すのはら)はこっちを見(み)た。
朋也(ともや)「ああ、そうだよ…」
手(て)のひらを見(み)たままで、答(こた)えた。
春原(すのはら)「妹(いもうと)、じゃないよな」
朋也(ともや)「ああ。違(ちが)うな」
春原(すのはら)「どういう知(し)り合(あ)い？」
朋也(ともや)「さぁ…」
古河(ふるかわ)「あの演劇部(えんげきぶ)を作(つく)ろうと思(おも)いまして…それで、手伝(てつだ)ってもらってます」
古河(ふるかわ)「でも、岡崎(おかざき)さんは部員(ぶいん)ではないです。わたしだけです」
古河(ふるかわ)「わたし部長(ぶちょう)なんです」
朋也(ともや)（ぐあ…）
洗(あら)いざらい、語(かた)ってくれていた。
春原(すのはら)「マジ…？」
朋也(ともや)「ああ…そうだよ…」
俺(おれ)も開(ひら)き直(なお)るしかなかった。
春原(すのはら)「最近(さいきん)、具合(ぐあい)が悪(わる)いって言(い)ってたのは、これね」
嫌(いや)な含(ふく)み笑(わら)い。
春原(すのはら)「しかも、演劇部(えんげきぶ)ねぇ」
春原(すのはら)「また部活(ぶかつ)なんて忌(い)まわしいものに興味(きょうみ)を持(も)つなんて、驚(おどろ)いたよ」
春原(すのはら)「おまえ、部活(ぶかつ)してる連中(れんちゅう)なんて、吐(は)き気(け)がするほど嫌(きら)いだって思(おも)ってたんだけど」
古河(ふるかわ)「え…？」
古河(ふるかわ)が俺(おれ)の顔(かお)を見(み)た。
俺(おれ)は、春原(すのはら)を殴(なぐ)ってやりたい衝動(しょうどう)に駆(か)られた。
それほど、触(ふ)れられたくないことだった。
春原(すのはら)「それが最初(さいしょ)に、僕(ぼく)らが意気投合(いきとうごう)したところじゃん」
朋也(ともや)「好(す)きなもの食(く)えよっ」
俺(おれ)は財布(さいふ)から千円(せんえん)を抜(ぬ)き出(だ)して、春原(すのはら)の胸(むね)に押(お)しつける。
春原(すのはら)「お、センキュー」
春原(すのはら)「言(い)ってみるもんだねっ」
春原(すのはら)「じゃあね」
満足(まんぞく)げに去(さ)っていく。
朋也(ともや)「はぁ…」
古河(ふるかわ)「岡崎(おかざき)さん、今(いま)、お友達(ともだち)が言(い)っていたことって…」
そういうところを気(き)にしてしまうのが、こいつだった。
朋也(ともや)「中学(ちゅうがく)の頃(ころ)は、バスケ部(ぶ)だったんだ」
朋也(ともや)「レギュラーだったんだけど、三年(さんねん)最後(さいご)の試合(しあい)の直前(ちょくぜん)に親父(おやじ)と大喧嘩(おおげんか)してさ…」
朋也(ともや)「怪我(けが)して、試合(しあい)には出(で)れなくなってさ…」
朋也(ともや)「それっきり、やめちまった」
………。
どうして、こんな身(み)の上(うえ)話(はなし)なんてしてるんだろう。
どれだけ、自分(じぶん)が不幸(ふこう)な奴(やつ)かを古河(ふるかわ)に教(おし)えたかったのだろうか。
また、慰(なぐさ)めてほしかったのだろうか。
古河(ふるかわ)「なら、手助(てだす)けしたいです」
それは予想(よそう)しえた言葉(ことば)だった。
古河(ふるかわ)「また…学校生活(がっこうせいかつ)に希望(きぼう)を持(も)てるように」
古河(ふるかわ)「このわたしのように」
照(て)れたようにして顔(かお)を伏(ふ)せた。
…俺(おれ)のおかげで、だと言(い)いたいのだろうか。
今(いま)だけは、自分(じぶん)の行為(こうい)が自虐的(じぎゃくてき)に思(おも)えた。
その古傷(ふるきず)には触(ふ)れてほしくなかったはずなのに。
顔(かお)の温度(おんど)が上(あ)がっていくのがわかる。
朋也(ともや)「そうか」
朋也(ともや)「そうなるといいな…」
だから空(そら)を見上(みあ)げた。
屋根(やね)の向(む)こうに見(み)える銀色(ぎんいろ)に輝(かがや)く空(そら)。
そうして、風(かぜ)が熱(ねつ)を冷(さ)ましてくれるのを待(ま)った。
…３年前(ねんまえ)。
俺(おれ)はバスケ部(ぶ)のキャプテンとして、順風満帆(じゅんぷうまんぱん)の学生生活(がくせいせいかつ)を送(おく)っていた。
スポーツ推薦(すいせん)により、希望通(きぼうどお)りの高校(こうこう)に進(すす)み、そしてバスケを続(つづ)けるはずだった。
しかし、その道(みち)は唐突(とうとつ)に閉(と)ざされた。
親父(おやじ)との喧嘩(けんか)が原因(げんいん)だった。
発端(ほったん)は、身(み)だしなみがどうとか、靴(くつ)の並(なら)べ方(ほう)がどうとか…そんなくだらないこと。
取(と)っ組(く)み合(あ)うような、喧嘩(けんか)になって…
壁(かべ)に右肩(みぎかた)をぶつけて…
どれだけ痛(いた)みが激(はげ)しくなっても、意地(いじ)を張(は)って、そのままにして部屋(へや)に閉(と)じこもって…
そして医者(いしゃ)に行(い)った時(とき)にはもう手遅(ておく)れで…
肩(かた)より上(うえ)にあがらない腕(うで)になってしまったのだ。

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４月１９日(土)

曇(くも)り空(そら)。
気分(きぶん)が滅入(めい)る。
朋也(ともや)（いや、天候(てんこう)のせいじゃないか…）
小走(こばし)りで誰(だれ)かが近(ちか)づいてくる足音(あしおと)。
古河(ふるかわ)「岡崎(おかざき)さんっ」
古河(ふるかわ)「おはようございます」
そう言(い)って、古河(ふるかわ)は自然(しぜん)に隣(となり)に並(なら)んでいた。
朋也(ともや)「ああ、おはよ…」
それだけを答(こた)えた後(あと)、無言(むごん)になる。
古河(ふるかわ)「岡崎(おかざき)さん、ひとつ提案(ていあん)です」
坂(さか)の下(した)まで来(き)たとき、古河(ふるかわ)が口(くち)を開(ひら)いていた。
朋也(ともや)「なんだよ」
古河(ふるかわ)「今日(きょう)の放課後(ほうかご)は、バスケをしましょう」
朋也(ともや)「誰(だれ)が、んなもんするってんだよ」
古河(ふるかわ)「岡崎(おかざき)さんと、わたしのふたりです」
朋也(ともや)「はぁ？」
古河(ふるかわ)「放課後(ほうかご)、グランドで待(ま)ってます」
古河(ふるかわ)「わたし、バスケットボール持(も)って、待(ま)ってます」
浅(あさ)はかだった。
朋也(ともや)「馬鹿(ばか)か、おまえは」
古河(ふるかわ)「わたし、これでも運動神経(うんどうしんけい)いいんです」
朋也(ともや)「そういう意味(いみ)じゃなくてさ…」
古河(ふるかわ)「下投(したな)げなら、シュートだって打(う)てます」
古河(ふるかわ)「ドリブルも、立(た)ったままならできます」
朋也(ともや)「………」
朋也(ともや)「…それ、運動音痴(うんどうおんち)だぞ」
古河(ふるかわ)「あれ？
そうなんですか？」
朋也(ともや)「そうだよ…」
朋也(ともや)「だから、余計(よけい)なことすんな」
朋也(ともや)「おまえは、演劇部(えんげきぶ)のことだけ考(かんが)えてろ」
古河(ふるかわ)「でも、岡崎(おかざき)さんにも、知(し)ってほしいです」
朋也(ともや)「なにを」
古河(ふるかわ)「一生懸命(いっしょうけんめい)になれることです」
俺(おれ)にもっとも、似合(にあ)わない言葉(ことば)。
何(なに)かに懸命(けんめい)になるなんて、今更(いまさら)考(かんが)えられない。
それで報(むく)われなかったのは誰(だれ)だ？
吐(は)き気(け)がする。
朋也(ともや)「やりたかったら、ひとりでやってくれ」
古河(ふるかわ)「いえ、ふたりがいいです」
朋也(ともや)「俺(おれ)は今日(きょう)、先(さき)に帰(かえ)るからな」
最後(さいご)にそう告(つ)げて、俺(おれ)は自分(じぶん)の教室(きょうしつ)に向(む)かった。
春原(すのはら)の姿(すがた)はない。
本当(ほんとう)に、休(やす)む気(き)なのだろうか…。
夕(ゆう)べ、あれからどうなったかは知(し)らないが、またどこかで、たそがれているのだろうか。
また遅刻(ちこく)だろう。
………。
一時間目(いちじかんめ)が終(お)わると、目(め)を血走(ちばし)らせた春原(すのはら)が現(あらわ)れる。
春原(すのはら)「やぁ、おはようっ」
春原(すのはら)「土曜(どよう)ってさ、なんかわくわくするよね」
朋也(ともや)「するな」
春原(すのはら)「なんたって、三時間(さんじかん)授業(じゅぎょう)受(う)けたら、終(お)わりだもんな」
朋也(ともや)「普通(ふつう)は四時間(よじかん)な」
春原(すのはら)「授業(じゅぎょう)終(お)わったら、どっか遊(あそ)びにいこうぜ」
春原(すのはら)「たまには、他校(たこう)の女生徒(じょせいと)ナンパするとかさっ」
朋也(ともや)「午後(ごご)から雨(あめ)だぞ」
春原(すのはら)「えっ、嘘(うそ)っ！？」
朋也(ともや)「おまえは、目(め)をつぶって歩(ある)いてきたのか」
朋也(ともや)「見(み)ろ。むちゃくちゃ曇(くも)ってるじゃないか」
春原(すのはら)「そんなぁ…楽(たの)しい土曜(どよう)の夜(よる)のサタデイナイトフィーバーが…」
朋也(ともや)「意味(いみ)、かぶりまくってるからな」
授業中(じゅぎょうちゅう)──…。
朋也(ともや)（…なんだありゃ…？）
いつものように授業(じゅぎょう)を、右(みぎ)から左(ひだり)へと聞(き)き流(なが)しながら窓(まど)の外(そと)を眺(なが)めていた。
授業(じゅぎょう)が始(はじ)まってしまえば人通(ひとどお)りなど無(な)くなってしまう校門付近(こうもんふきん)。
そこに存在(そんざい)する見慣(みな)れない──…何(なん)だろう…？
微妙(びみょう)に動(うご)いているから、多分(たぶん)動物(どうぶつ)だと思(おも)うんだが、いまいち該当(がいとう)する物(もの)がない。
猫(ねこ)にしては大(おお)きい…。
犬(いぬ)にしては丸(まる)い…。
タヌキ…だとしたら尻尾(しっぽ)が短(みじか)すぎる。
朋也(ともや)（…体(からだ)の模様(もよう)が独特(どくとく)だな…）
縦縞(たてじま)というか何(なん)というか…。
とにかくその動物(どうぶつ)らしきものは、機嫌(きげん)良(よ)さそうに校門(こうもん)の壁(かべ)に顔(かお)…？
を擦(す)り付(つ)けている。
移動(いどう)するときに、足(あし)がチョコチョコと素早(すばや)く動(うご)くあたりは、かなりプリチーだ。
キーンコーンカーンコーン…。
春原(すのはら)「岡崎(おかざき)、どこ行(い)くんだよ」
朋也(ともや)「ちょっと気(き)になることがあるんだ」
春原(すのはら)「おもしろいこと？」
朋也(ともや)「たぶんつまらないぞ」
春原(すのはら)「僕(ぼく)も行(い)くよ」
朋也(ともや)「邪魔(じゃま)だからついてくるな」
春原(すのはら)「そういうなよ。教室(きょうしつ)にいたって一人(ひとり)じゃ退屈(たいくつ)なんだ」
朋也(ともや)「おまえ…友達(ともだち)いねぇんだなぁ」
春原(すのはら)「あんたに言(い)われたくないよっ！」
朋也(ともや)「っと…確(たし)かこの辺(あた)りだったよな…」
もうどこかに行(い)ってしまったのだろうか。
なんの動物(どうぶつ)だったのか、とても気(き)になる所(ところ)なんだが…。
春原(すのはら)「なにか探(さが)し物(もの)なの？」
朋也(ともや)「そういうわけじゃないんだけど…」
すりすり…すりすり…。
朋也(ともや)「ん…？」
何(なに)かが俺(おれ)のスネのあたりを…。
？？「ぷひぷひ」
朋也(ともや)「………」
すりすり…すりすり…。
春原(すのはら)「おい、岡崎(おかざき)…？
それなに？」
？？「ぷひぷひ」
朋也(ともや)「さ…さぁ？？」
な…なんだこの動物(どうぶつ)は…？
犬(いぬ)でも狸(たぬき)でもない…背中(せなか)に縦縞(たてじま)模様(もよう)の動物(どうぶつ)…。
見(み)た感(かん)じ、まだ子供(こども)のようだが…。
？？「ぷひ」
春原(すのはら)「か…かわいすぎる…」
朋也(ともや)「ああ…犬(いぬ)や猫(ねこ)にはない魅力(みりょく)があるな」
春原(すのはら)「触(さわ)っても平気(へいき)かな？
噛(か)まないかな？」
朋也(ともや)「とりあえず、すり寄(よ)ってきているから敵意(てきい)は無(な)いと思(おも)うぞ」
春原(すのはら)「じゃ、じゃあ触(さわ)ろう、撫(な)でよう、抱(だ)こう」
春原(すのはら)がその小(ちい)さな動物(どうぶつ)に触(さわ)ろうと手(て)を伸(の)ばす。
？？「ぷ…ぷひぷひ」
春原(すのはら)「逃(に)げんなよー…」
可愛(かわい)らしい小動物(しょうどうぶつ)の背中(せなか)に手(て)が触(ふ)れようとしたその時(とき)だった。
声(こえ)「こらぁーーーっ！！」
春原(すのはら)「え？」
朋也(ともや)「ん？」
？？「ぷひ」
聞(き)き覚(おぼ)えのある声(こえ)に振(ふ)り返(かえ)る。
と同時(どうじ)に、何(なに)かが俺(おれ)の目(め)の前(まえ)を通(とお)り過(す)ぎた。
ベジン！！
春原(すのはら)「のほうっ！」
足元(あしもと)を見(み)ると和英辞典(わえいじてん)が転(ころ)がっていた。
ついでに鼻血(はなぢ)を出(だ)している春原(すのはら)も転(ころ)がっている。
春原(すのはら)「『ついで』ってなんだよっ！」
朋也(ともや)「人(ひと)の心(こころ)を読(よ)むなよ」
春原(すのはら)「あーいてて、なんてもんが飛(と)んで来(く)るんだ」
春原(すのはら)「当(あ)たり所(どころ)が悪(わる)かったら死(し)んじゃうぞ」
春原(すのはら)「っていうか一体(いったい)誰(だれ)が…」
朋也(ともや)「あ…」
春原(すのはら)「なんだよ？」
ごげしっ！
身体(しんたい)を起(お)こしたところに蹴(け)り。
声(こえ)をあげる間(ま)もなく、春原(すのはら)は再(ふたた)び大地(だいち)にもんどり打(う)つ。
朋也(ともや)「あぶないぞ」
春原(すのはら)「お…おそいッス…」
ピクピクと手足(てあし)を震(ふる)わせながら非難(ひなん)めいた声(こえ)で言(い)う。
？？「ぷひぷひ」
杏(きょう)「ふぅ。ったく…ウチの仔(こ)になにする気(き)よ」
春原(すのはら)に体重(たいじゅう)の乗(の)った華麗(かれい)な蹴(け)りを喰(く)らわせた当人(とうにん)は、長(なが)い髪(かみ)をバサっと翻(ひるがえ)させながら言(い)った。
朋也(ともや)「…ウチの仔(こ)…？」
杏(きょう)「そ。あたしのペット」
朋也(ともや)「って…この丸(まる)いのがか？」
？？「ぷひ、ぷひ」
杏(きょう)「かーいぃでしょ」
朋也(ともや)「…新種(しんしゅ)の犬(いぬ)とか狸(たぬき)か？」
杏(きょう)「あんたの目(め)、フシ穴(あな)にビー玉(だま)つまってんの？
これのどこが犬(いぬ)や狸(たぬき)に見(み)えんのよ」
朋也(ともや)「じゃあなんなんだよ？」
杏(きょう)「ウリンコよ」
朋也(ともや)「ウンコ？」
杏(きょう)「殺(ころ)すわよ？」
朋也(ともや)「怖(こわ)いから笑顔(えがお)で言(い)わないでくれ」
杏(きょう)「ウ·リ·ン·コ。それともウリボウの方(ほう)が馴染(なじみ)みあるかしら？」
朋也(ともや)「あー…えっとなんだっけかな…なんかの子供(こども)だったよな」
杏(きょう)「イノシシの仔(こ)よ」
？？「ぷひぷひ」
朋也(ともや)「………」
杏(きょう)「なによ？」
朋也(ともや)「ペット…？」
杏(きょう)「そうよ」
朋也(ともや)「………」
？？「ぷひ？」
杏(きょう)「言(い)いたいことがあるならハッキリ言(い)いなさいよっ！」
朋也(ともや)「正気(しょうき)か？」
杏(きょう)「大(おお)マジよ」
杏(きょう)「あ、名前(なまえ)聞(き)きたい？
めっちゃくちゃかわいいわよ」
朋也(ともや)「言(い)ってみろよ」
杏(きょう)「ボタンっていうの。めっちゃプリチーでしょ」
ボタン「ぷっひ」
朋也(ともや)「うまそうな名前(なまえ)だな…」
杏(きょう)「うん？
なんて？」
朋也(ともや)「いや…なんでもないです…」
春原(すのはら)「うぅ…いてて…鼻(はな)ッ面(づら)が焼(や)けるように痛(いた)いぞ」
朋也(ともや)「よぅ、起(お)きたか」
春原(すのはら)「ああ…ところでボタン鍋(なべ)がどうしたって？
味噌(みそ)なら寮(りょう)に戻(もど)らないとないよ」
春原(すのはら)「それとさっき僕(ぼく)蹴(け)られたみたいだけど、靴(くつ)の底(そこ)と一緒(いっしょ)に薄(うす)い水色(みずいろ)のが迫(せま)ってきたんだ」
春原(すのはら)「あれってきっとパン…」
杏(きょう)「わすれろぉーっ！」
ぐげしっ！
春原(すのはら)「つぉぉーーっ！」
杏(きょう)「はぁはぁ…聞(き)こえた？」
朋也(ともや)「聞(き)こえなかった」
そう言(い)うしか選択肢(せんたくし)はない。
朋也(ともや)「で、そのウリボウは何(なに)しに来(き)たんだ？」
杏(きょう)「あたしに会(あ)いに来(き)たんでしょ」
ボタン「ぷひぷひ」
朋也(ともや)「まだ授業(じゅぎょう)があるだろ。どうすんだ」
杏(きょう)「そうなのよねー…」
ボタン「ぷひ、ぷひ」
杏(きょう)「あのね、ボタン。あたしまだ帰(かえ)れないの」
ボタン「ぷひ」
杏(きょう)「だから家(いえ)で大人(おとな)しくしといて」
ボタン「ぷひー…」
杏(きょう)「学校(がっこう)終(お)わったらすぐ帰(かえ)るからさ」
ボタン「ぷひ…」
杏(きょう)「大丈夫(だいじょうぶ)。家(いえ)まではこいつがちゃんと付(つ)いてってくれるから」
朋也(ともや)「って、なんで俺(おれ)を指(さ)さす？」
杏(きょう)「この仔(こ)、散歩(さんぽ)大好(だいす)きだから見張(みは)ってないとどこに行(い)くかわからないのよ」
杏(きょう)「だから監視役(かんしやく)」
朋也(ともや)「あん？」
杏(きょう)「どうせ授業(じゅぎょう)なんて聞(き)いてないでしょ？」
杏(きょう)「だったらちょっとは人(ひと)のためになるような事(こと)した方(ほう)が有意義(ゆういぎ)ってもんよ」
朋也(ともや)「ふざけんな。授業中(じゅぎょうちゅう)は寝(ね)れるんだぞ」
朋也(ともや)「それ以上(いじょう)に有意義(ゆういぎ)なことなんてあるか」
杏(きょう)「つべこべ言(い)わない。行(い)ってくれたら今日(きょう)のお昼(ひる)おごるから」
朋也(ともや)「まかせとけ」
ドン、と胸(むね)を叩(たた)いて快諾(かいだく)する。
朋也(ともや)「って…俺(おれ)、おまえん家(いえ)知(し)らねぇぞ」
杏(きょう)「あー、大丈夫(だいじょうぶ)。ちゃんとボタンが案内(あんない)してくれるわよ」
杏(きょう)「あんたは車(くるま)とか、カラスとか、目(め)つきの悪(わる)いパン屋(や)のおっちゃんに気(き)をつけてくれればいいだけ」
朋也(ともや)「もしこいつに万(まん)が一(いち)のことがあったら？」
杏(きょう)「あはははー、そんなの決(き)まってんじゃない」
杏(きょう)「あんたの寿命(じゅみょう)が著(いちじる)しく短(みじか)くなるだけよ」
物騒(ぶっそう)なことを事(こと)も無(な)げに言(い)わないでほしい…。
朋也(ともや)「昼飯(ひるめし)はなんでもいいんだな？」
杏(きょう)「食堂(しょくどう)にあるものならね」
朋也(ともや)「約束(やくそく)忘(わす)れんなよ」
杏(きょう)「あたしが学校(がっこう)にいるうちに帰(かえ)ってくればね」
朋也(ともや)「よし、いくぞウリボウ！」
ボタン「ぷひ！」
トテテテテテテ～
朋也(ともや)「い、意外(いがい)と速(はや)い？！」
杏(きょう)「ほらほら、おいてかれるわよ」
朋也(ともや)「あ、そこで倒(たお)れてる奴(やつ)の後始末(あとしまつ)は頼(たの)むぞ」
杏(きょう)「５分(ふん)もすれば目(め)ぇ醒(さ)ますわよ」
朋也(ともや)「それもそうだな」
ボタン『ぷひーぷひー』
杏(きょう)「ほら、呼(よ)んでるわよ」
朋也(ともや)「おっと、待(ま)ちやがれ俺(おれ)の昼飯(ひるめし)！」
杏(きょう)「物騒(ぶっそう)なこと言(い)ってんじゃないわよっ！」
朋也(ともや)「似(に)たようなもんだー！」
俺(おれ)は叫(さけ)びながら先(さき)を走(はし)る小動物(しょうどうぶつ)を追(お)った。
朋也(ともや)「…でだ…」
走(はし)ること数分(すうふん)。見事(みごと)にウリボウを見失(みうしな)った。
朋也(ともや)「やっべぇ…よなぁ…」
昼飯(ひるめし)をおごってもらうどころの話(はなし)じゃなくなっていた。
ちっこいくせに足速(あしばや)いんだなぁ…。
多分(たぶん)、家(いえ)までは一人(ひとり)…いや、一匹(いっぴき)でもちゃんと帰(かえ)れるんだろうけど…。
朋也(ともや)「ま、なるようにしかならねぇか」
探(さが)したところで見(み)つかるとは思(おも)えないしな。
とりあえず適当(てきとう)に時間(じかん)を潰(つぶ)して学校(がっこう)に戻(もど)ろう。
四時間目(よじかんめ)が終(お)わり、ＨＲさえ終(お)わり、部活(ぶかつ)のある連中(れんちゅう)しか残(のこ)っていない学校(がっこう)に戻(もど)ってきた。
なるべくなら、杏(きょう)と出会(であ)わないように…。
杏(きょう)「あ」
朋也(ともや)「げ…」
杏(きょう)「おかえりー、ボタンはちゃんと送(おく)り届(とど)けてくれた？」
朋也(ともや)「と、当然(とうぜん)だろ」
杏(きょう)「そ、ありがと。じゃあ約束(やくそく)だし、お昼(ひる)おごったげる」
杏(きょう)「あ、言(い)ったと思(おも)うけど食堂(しょくどう)限定(げんてい)だからね」
朋也(ともや)「い、いや、やっぱりいい」
杏(きょう)「へ？
なんで？」
朋也(ともや)「途中(とちゅう)で腹(はら)減(へ)って買(か)い食(ぐ)いしたから、今(いま)はいい」
杏(きょう)「今(いま)はって…日(ひ)ぃ変(か)わったらおごんないわよ？」
朋也(ともや)「まぁしかたねぇな」
杏(きょう)「なんか…怪(あや)しいわねぇ…？」
朋也(ともや)「と、とにかくいいんだよっ」
杏(きょう)「あ…」
俺(おれ)は杏(きょう)に背(せ)をむけると逃(に)げるように廊下(ろうか)を走(はし)った。
鞄(かばん)を取(と)りに教室(きょうしつ)に戻(もど)ると、春原(すのはら)がひとりで待(ま)っていた。
春原(すのはら)「岡崎(おかざき)、やっと戻(もど)ってきたかよ」
朋也(ともや)「お、復活(ふっかつ)してる。さすがだな」
春原(すのはら)「復活(ふっかつ)も何(なに)もやられてねぇっての」
春原(すのはら)「よ、け、て、る」
朋也(ともや)「そこまで爽(さわ)やかに言(い)われたら、そういうことにしてやりたくもなるな…どうしよう…」
朋也(ともや)「お願(ねが)いしますって言(い)って」
春原(すのはら)「お願(ねが)いします」
朋也(ともや)「わかった。おまえはよけてた。すごかった」
春原(すのはら)「まぁね」
春原(すのはら)「で、これからどうする？
フィーバーしにいく？」
朋也(ともや)「だから、雨降(あめふ)るっての」
担任(たんにん)「おい、春原(すのはら)っ」
担任(たんにん)の呼(よ)び声(ごえ)。
担任(たんにん)「今日(きょう)こそは、職員室(しょくいんしつ)まで連行(れんこう)だっ」
机(つくえ)の間(あいだ)を縫(ぬ)って、近(ちか)づいてくる。
春原(すのはら)「うわ、やべっ」
朋也(ともや)「ここは俺(おれ)に任(まか)せて、おまえは飛(と)び降(お)りて逃(に)げろっ」
春原(すのはら)「おうっ」
春原(すのはら)「って、死(し)ぬよっ！」
朋也(ともや)「じゃ、俺(おれ)が時間(じかん)を稼(かせ)ぐから、その間(かん)におまえは俺(おれ)のメロンパンとジュースをっ！」
春原(すのはら)「おうっ」
春原(すのはら)「って、パシリかよっ！」
担任(たんにん)「捕(つか)まえたぞっ」
担任(たんにん)の手(て)が春原(すのはら)の肩(かた)を掴(つか)んでいた。
春原(すのはら)「ぐあーっ、岡崎(おかざき)とアホアホコントをやってる間(あいだ)にっ！」
担任(たんにん)「おまえら、ほんと、仲(なか)がいいな。なんなら、ふたり一緒(いっしょ)に…」
朋也(ともや)「帰(かえ)ろう…」
すでに俺(おれ)は廊下(ろうか)にいた。
春原(すのはら)の『置(お)き去(ざ)りっすか！』という雄叫(おさけ)びを背(せ)に、その場(ば)から離(はな)れた。
曇(くも)り空(そら)を窓(まど)から見上(みあ)げる。
古河(ふるかわ)は、グランドのどこかでバスケットボールを胸(むね)に抱(かか)えて待(ま)っているのだろうか。
その姿(すがた)は、ここから見(み)えなかった。
だから、じっと、空(そら)を見(み)ていた。
…雨(あめ)が降(ふ)らないようにと。
せめて、それだけを祈(いの)って。
古河(ふるかわ)はいた。
胸(むね)にボールを抱(だ)いて、じっと待(ま)ち続(つづ)けていた。
俺(おれ)がバスケを辞(や)めた理由(りゆう)なんて話(はな)したくなかった。
そしてあいつは、それを聞(き)くまで頑張(がんば)り続(つづ)けるだろう。
それはとても気(き)の重(おも)たくなる事態(じたい)だった。
朋也(ともや)（暗(くら)くなれば帰(かえ)るだろう…）
俺(おれ)は帰宅部(きたくぶ)の連中(れんちゅう)に混(ま)じって、下校(げこう)した。
がちゃり、とドアが開(あ)いた。
春原(すのはら)「ふぅ…」
春原(すのはら)「うわっ、誰(だれ)かいるっ」
朋也(ともや)「おかえり」
春原(すのはら)「おまえね…勝手(かって)に人(ひと)の部屋(へや)に上(あ)がり込(こ)むな…」
春原(すのはら)「びっくりするだろ…」
朋也(ともや)「今度(こんど)は死体(したい)のふりして待(ま)ってるな」
春原(すのはら)「こえぇよっ」
ドアを閉(し)めて、上着(うわぎ)を脱(ぬ)ぐ。
春原(すのはら)「ったく、みっちり絞(しぼ)られたよ…」
春原(すのはら)「ちなみに、次(つぎ)はおまえな」
春原(すのはら)「おまえ、実家(じっか)こっちなんだから、訪問(ほうもん)されるぞ」
朋也(ともや)「マジかよ…」
春原(すのはら)「まだ、進学(しんがく)させる気(き)でいるからね…」
朋也(ともや)「おまえを？
ははは、無理(むり)だって」
春原(すのはら)「おまえもだよっ」
春原(すのはら)「あーあ…やっぱ、降(ふ)ってきたなぁ」
春原(すのはら)が窓(まど)越(ご)しに空(そら)を見上(みあ)げていた。
春原(すのはら)「これじゃ、どこにも行(い)けないじゃん」
春原(すのはら)「昼間(ぴるま)っから、男(おとこ)と部屋(へや)でふたりきりなんてな…」
朋也(ともや)「じゃ、出(で)てけよ」
春原(すのはら)「僕(ぼく)の部屋(へや)でしょっ」
朋也(ともや)「まぁ、それでも、ひとりよりはマシじゃん？」
春原(すのはら)「まぁね…」
朋也(ともや)「ああ、だからふたりで、裸(はだか)で雨(あめ)の中(なか)を走(はし)るやばい人(ひと)ゲームしようぜ」
朋也(ともや)「ジャンケンで負(ま)けた春原(すのはら)が、裸(はだか)で雨(あめ)の中(なか)を走(はし)るやばい人(びと)になるのな」
春原(すのはら)「負(ま)けた春原(すのはら)って…負(ま)けた岡崎(おかざき)はっ！？」
朋也(ともや)「よーし、いくぞっ」
春原(すのはら)「えっ？」
朋也(ともや)「ジャンケンポンッ！」
春原(すのはら)「よっし、勝(か)った！」
朋也(ともや)「くそぅ」
朋也(ともや)「もういっちょ、ジャンケンポンッ！」
春原(すのはら)「よっしゃ、二連勝(にれんしょう)！」
朋也(ともや)「早(はや)く負(ま)けて走(はし)れ、ジャンケンポンッ！」
春原(すのはら)「どうだ、三連勝(さんれんしょう)！」
春原(すのはら)「って、僕(ぼく)が走(はし)るまでジャンケンを続(つづ)けるだけのゲームなんすかねぇ！」
朋也(ともや)「そうだ」
春原(すのはら)「それって、絶対(ぜったい)イジメっすよねぇ！」
ふたり、床(ゆか)に寝転(ねころ)がって、延々(えんえん)と雑誌(ざっし)を読(よ)み続(つづ)ける。
雨足(あまあし)が強(つよ)まってきた。音(おと)でわかる。
春原(すのはら)「こりゃ、外(そと)の部活(ぶかつ)は全部(ぜんぶ)休(やす)みだね…」
春原(すのはら)「ラグビー部(ぶ)、戻(もど)ってくるかも…」
春原(すのはら)「頼(たの)むから、大人(おとな)しくしててくれよ」
朋也(ともや)「………」
朋也(ともや)（まさか…こんな雨(あめ)の中(なか)で、待(ま)ってないよな…）
朋也(ともや)（こんな雨(あめ)の中(なか)にいたら、大変(たいへん)だもんな…）
朋也(ともや)（………）
様子を見に行く
朋也(ともや)「行(い)ってくる」
俺(おれ)は立(た)ち上(あ)がる。
春原(すのはら)「え？
裸(はだか)で雨(あめ)の中(なか)走(はし)ってくんの？」
朋也(ともや)「ああ、そんなところだ」
裸(はだか)じゃないけどな。
寮(りょう)の傘(かさ)を借(か)りて、雨(あめ)の中(なか)をひた走(ばし)る。
………。
朋也(ともや)「はぁ…はぁ…」
朋也(ともや)「古河(ふるかわ)…」
古河(ふるかわ)はボールを胸(むね)に抱(だ)いてじっと、待(ま)っていた。
傘(かさ)もささずに濡(ぬ)れたままで……
朋也(ともや)「馬鹿(ばか)か、おまえはっ」
駆(か)け寄(よ)る。
古河(ふるかわ)「あ、岡崎(おかざき)さん…」
古河(ふるかわ)「良(よ)かったです…来(き)てくれました」
朋也(ともや)「おまえ、どれだけ待(ま)ってたんだよ…ずぶ濡(ぬ)れじゃないか…」
古河(ふるかわ)「借(か)り物(もの)だったのに…ちゃんと拭(ぬぐ)いて返(かえ)さないとダメですね」
胸(むね)に抱(だ)いたボールに目(め)を落(お)とす。
朋也(ともや)「ボールは風邪引(かぜひ)かねぇだろ。自分(じぶん)の体(からだ)のほうを心配(しんぱい)しろ」
朋也(ともや)「ほら、この傘(かさ)、貸(か)してやるから、とっとと帰(かえ)れ」
傘(かさ)を差(さ)し出(だ)す。
大粒(おおつぶ)の雨(あめ)が、頭(あたま)に降(ふ)ってきた。
古河(ふるかわ)「いえ、バスケしましょう」
朋也(ともや)「こんな濡(ぬ)れたコートでどうやってするんだよ…」
古河(ふるかわ)「無理(むり)でしょうか…」
朋也(ともや)「無理(むり)だ。大人(おとな)しく帰(かえ)れ」
古河(ふるかわ)「ならシュートだけ、見(み)せてください」
古河(ふるかわ)「わたし、見(み)たいです」
古河(ふるかわ)「バスケ部(ぶ)だった人(ひと)のシュートって、間近(まぢか)で見(み)たことないんです」
古河(ふるかわ)「わたしなんかと違(ちが)って、下投(したな)げじゃないんですよね」
古河(ふるかわ)「こう、かっこよく構(かま)えて打(う)つんですよね」
古河(ふるかわ)「だから見(み)たいです」
古河(ふるかわ)「お願(ねが)いします」
ボールを俺(おれ)の胸(むね)に押(お)し当(あ)てる。
朋也(ともや)「………」
やっぱり見(み)せるしかないんだろうか…。
傘(かさ)を地面(じめん)に投(な)げ捨(す)て、俺(おれ)はそれを受(う)け取(と)る。
何年(なんねん)ぶりに触(さわ)るボールだろうか…。
ゆっくりと振(ふ)り返(かえ)り、雨(あめ)に濡(ぬ)れるバスケットゴールと対峙(たいじ)する。
そう…見(み)せてやればいいんだ。
そうすれば、こいつも納得(なっとく)してくれる。
朋也(ともや)「………」
ボールを肩(かた)の上(うえ)に持(も)ち上(あ)げようとする。
しかし、それは途中(とちゅう)で零(こぼ)れ落(お)ちた。
濡(ぬ)れた地面(じめん)に落(お)ちて、泥(どろ)を跳(は)ねさせた。
拾(ひろ)いあげ、もう一度(いちど)肩(かた)の上(うえ)に担(かつ)ごうとする。
それでも、力無(ちからな)く腕(うで)は下(さ)がり、ボールを地面(じめん)に叩(たた)きつける。
古河(ふるかわ)「………」
古河(ふるかわ)は唖然(あぜん)としている。何(なに)もわかっていない様子(ようす)だ。
朋也(ともや)「あのさ、古河(ふるかわ)」
古河(ふるかわ)「は、はい」
朋也(ともや)「俺(おれ)さ、無理(むり)なんだ」
古河(ふるかわ)「はい…？」
朋也(ともや)「見(み)ての通(とお)り、シュート打(う)てないんだ」
朋也(ともや)「肩(かた)が上(あ)がらないんだよ」
朋也(ともや)「怪我(けが)して、それからずっと…」
古河(ふるかわ)「………」
何(なに)を考(かんが)えているのだろう…。
ただ、地面(じめん)に落(お)ちたボールを見据(みす)えていた。
自分(じぶん)の思(おも)い上(あ)がった優(やさ)しさを後悔(こうかい)しているのだろうか。
──わたしなんかと違(ちが)って、下投(したな)げじゃないんですよね。
──こう、かっこよく構(かま)えて打(う)つんですよね。
肩(かた)の上(あ)がらない俺(おれ)に対(たい)して放(はな)った言葉(ことば)、それがぐるぐると頭(あたま)を駆(か)けめぐっているのだろうか。
古河(ふるかわ)「すみません…知(し)らなかったです」
古河(ふるかわ)「わたし、やっぱり馬鹿(ばか)です…」
古河(ふるかわ)「ごめんなさい…」
その場(ば)を去(さ)ろうと振(ふ)り返(かえ)る寸前(すんぜん)、泣(な)いているのがわかった。
震(ふる)える頬(ほお)が見(み)て取(と)れた。
古河(ふるかわ)は泥(どろ)まみれのボールを抱(かか)えると、そのまま走(はし)っていった。
朋也(ともや)「はぁ…」
これで、家(いえ)に帰(かえ)ってくれると思(おも)うが…
朋也(ともや)（あいつ、落(お)ち込(こ)むだろうな…）
事実(じじつ)を辛辣(しんらつ)に突(つ)きつけすぎた。
次(つぎ)会(あ)ったとき、どんな言葉(ことば)をかければいいだろうか。
春原(すのはら)「うお、おまえ、マジでびしょ濡(ぬ)れじゃん」
朋也(ともや)「ああ…走(はし)ってきたからな…」
朋也(ともや)「ふぅ…」
ぽた…ぽた…ぽた…
春原(すのはら)「濡(ぬ)れたまま入(はい)ってくるなっ」
春原(すのはら)「ほら、タオルっ」
朋也(ともや)「サンキュ…クサッ」
春原(すのはら)「嘘(うそ)つけっ、ちゃんと洗(あら)ってあるってのっ」
朋也(ともや)「ああ…ちょっと偏見(へんけん)入(はい)ってたな…」
春原(すのはら)「ドライヤー使(つか)うんなら、風呂場(ふろば)な」
朋也(ともや)「ああ…」
そして、夕方(ゆうがた)になると…
俺(おれ)は、夕飯(ゆうはん)を買(か)い求(もと)めるために、また雨(あめ)の中(なか)にいた。
今度(こんど)はちゃんと傘(かさ)をさして。
朋也(ともや)（パンか…）
朋也(ともや)（夕飯(ゆうはん)にはできないな…）
ただ…
ちゃんと帰(かえ)ってきているか…それを知(し)りたかっただけだ。
ここからではわからなかった。
朋也(ともや)（夕飯(ゆうはん)は、また別(べつ)に買(か)おう…）
中(なか)に入(はい)る。
秋生（あきお）「お、ビッグバン山本(やまもと)じゃねぇか」
すでに名前(なまえ)ではなく、芸名(げいめい)になっていた。
朋也(ともや)「岡崎(おかざき)だっ」
秋生（あきお）「おぅ、そうだったな。そんなウジ虫(むし)のような名前(なまえ)だったな」
秋生（あきお）「で、どうした、客(きゃく)か。今日(きょう)は客(きゃく)なんだな」
秋生（あきお）「早苗(さなえ)のパンを買(か)っていくんだな。売(う)れ残(のこ)りすべてを買(か)っていくんだな」
秋生（あきお）「おら、金(かね)出(だ)せ。たっぷり持(も)ってんだろう？
最近(さいきん)の親(おや)は甘(あま)いからな。ほら、ジャンプしてみろ」
まるで小学生(しょうがくせい)をカツアゲする不良(ふりょう)だった。
朋也(ともや)「客(きゃく)じゃねぇよ。古河(ふるかわ)の奴(やつ)は帰(かえ)ってるか」
秋生（あきお）「古河(ふるかわ)は俺(おれ)だ。秋生様(あきおさま)と呼(よ)べ」
朋也(ともや)「違(ちが)う。あんたの娘(むすめ)のことだよ」
秋生（あきお）「なんだ、渚(なぎさ)か。渚(なぎさ)に何(なに)か用(よう)か。すんじゃねぇぞ、てめ。切(き)っちまうぞ」
朋也(ともや)「その渚(なぎさ)は帰(かえ)ってるのか、いないのか」
秋生（あきお）「ふん、それは教(おし)えられねぇなぁ」
秋生（あきお）「どうだ、パンを買(か)うか。買(か)うなら教(おし)えてやろう」
早苗(さなえ)「あら、グランドクロス岡崎(おかざき)さん」
…惜(お)しい。岡崎(おかざき)は合(あ)ってる。
朋也(ともや)「岡崎(おかざき)っす」
早苗(さなえ)「あ、ごめんなさい。岡崎(おかざき)さん」
朋也(ともや)「渚(なぎさ)は帰(かえ)ってるんすか」
早苗(さなえ)「いいえ、今日(きょう)はまだです」
秋生（あきお）「くわっ、早苗(さなえ)、簡単(かんたん)に口(くち)を割(わ)るんじゃねぇよ」
早苗(さなえ)「どうしてですか？」
秋生（あきお）「えっと、いやっ…それはだなぁ…」
朋也(ともや)「このオッサン、その情報(じょうほう)と引(ひ)き替(か)えに、あんたのパンを買(か)わせようとしてくれたぞ」
朋也(ともや)「そうでもしないと売(う)れないそうだ」
秋生（あきお）「げっ…」
早苗(さなえ)「本当(ほんとう)ですか、秋生(あきお)さん」
秋生（あきお）「ち、違(ちが)うぞ、早苗(さなえ)っ」
早苗(さなえ)「わたしのパンは…わたしのパンはっ…」
涙(なみだ)ぐみ始(はじ)める。
早苗(さなえ)「古河(ふるかわ)パンのお荷物(にもつ)だったんですねーっ…！」
だっ！と走(はし)り去(さ)っていった。
秋生（あきお）「早苗(さなえ)っ…！」
秋生（あきお）「く、くそっ…」
古河父(ふるかわちち)は、売(う)れ残(のこ)りのパンをいくつも口(くち)に詰(つ)め込(こ)むと…
秋生（あきお）「俺(おれ)は大好(だいす)きだーーーっ！」
叫(さけ)びながら、その後(あと)を追(お)っていった。
朋也(ともや)「………」
俺(おれ)はぼぉ～っと、アホのようにその光景(こうけい)を見(み)ていた。
朋也(ともや)「っと…こうしてる場合(ばあい)じゃなかった」
古河(ふるかわ)が帰(かえ)っていない。それはゆゆしき事態(じたい)だった。
俺(おれ)は再(ふたた)び表(おもて)に出(で)る。
声(こえ)「あ…」
後(うし)ろから声(こえ)がした。
早苗(さなえ)「待(ま)ってください、岡崎(おかざき)さん」
朋也(ともや)「はい、なんでしょ」
早苗(さなえ)「待(ま)ってください、宇宙(うちゅう)と書(か)いて岡崎(おかざき)さん」
朋也(ともや)「いや、普通(ふつう)に岡崎(おかざき)と書(か)いて岡崎(おかざき)っす」
早苗(さなえ)「あの子(こ)、学校(がっこう)にもいないんですか」
朋也(ともや)「帰(かえ)る姿(すがた)は見(み)たんだけど…そこからどこに行(い)ったのかはわからない」
早苗(さなえ)「遅(おそ)すぎますか」
朋也(ともや)「そんな気(き)がしますね…」
早苗(さなえ)「だったら、わたしも探(さが)しにいきます」
朋也(ともや)「店(みせ)はいいんすか？」
早苗(さなえ)「秋生(あきお)さんが居(い)ますから」
あの店番(みせばん)なら居(い)ないほうがマシなような気(き)がするが…。
朋也(ともや)「じゃ、俺(おれ)は学校(がっこう)までの道(みち)を探(さが)してみますから、ええと…」
早苗(さなえ)「早苗(さなえ)です」
朋也(ともや)「ああ…じゃ、早苗(さなえ)さんは心当(こころあ)たりのある場所(ばしょ)を探(さが)してみてください」
早苗(さなえ)「わかりました」
早苗(さなえ)さんも、傘(かさ)をさして雨(あめ)の中(なか)に飛(と)び出(だ)した。
その背(せ)を見送(みおく)ってから、俺(おれ)も来(き)た道(みち)を引(ひ)き返(かえ)し始(はじ)める。
小(ちい)さな傘(かさ)が、道(みち)の端(はし)をふらふらと彷徨(さまよ)っていた。
同(おな)じように道(みち)の端(はし)まで寄(よ)っていくと、それが小学生(しょうがくせい)ぐらいの子供(こども)であることがわかる。
探(さが)し物(もの)だろうか。
その脇(わき)を通(とお)り過(す)ぎて、俺(おれ)は学校(がっこう)を目指(めざ)した。
………。
閑散(かんさん)としきっていた。
部室(ぶしつ)や中庭(なかにわ)と、探(さが)してまわったが…古河(ふるかわ)の姿(すがた)はなかった。
とぼとぼと俺(おれ)は歩(ある)いていく。
もう探(さが)すあてがなかったから、後(あと)は早苗(さなえ)さん頼(たの)みだった。
また同(おな)じ場所(ばしょ)に小(ちい)さな傘(かさ)があった。
足(あし)を止(と)めて、それをしばらく眺(なが)めている。
不意(ふい)に耳元(みみもと)できゅうんと動物(どうぶつ)の鳴(な)き声(ごえ)がした。
驚(おどろ)いて横(よこ)を見(み)ると、塀(へい)の上(うえ)に子犬(こいぬ)がいた。
降(お)りられないのか、ずぶぬれになって震(ふる)えていた。
俺(おれ)は手(て)を伸(の)ばし、それを抱(だ)き上(あ)げた。
首輪(くびわ)がついている。なるほど、と理解(りかい)する。
子供(こども)のそばまで寄(よ)っていくと、その子犬(こいぬ)を差(さ)し出(だ)した。
朋也(ともや)「おまえが探(さが)してるの、これか」
子供(こども)が顔(かお)を上(あ)げる。すぐその表情(ひょうじょう)が笑(え)みで崩(くず)れた。
子供(こども)「よかった！
どこにいたの？」
朋也(ともや)「あそこ」
おざなりに指(さ)さして、俺(おれ)は退散(たいさん)を決(き)め込(こ)む。
子供(こども)「あ、待(ま)って」
子供(こども)が俺(おれ)を呼(よ)び止(と)めた。礼(れい)だろうか。聞(き)くのも面倒(めんどう)だ。無視(むし)を決(き)め込(こ)もう。
子供(こども)「お姉(ねえ)ちゃん、しらない？」
しかし、その言葉(ことば)で俺(おれ)は振(ふ)り返(かえ)っていた。
朋也(ともや)「誰(だれ)のことだ」
子供(こども)「お姉(ねえ)ちゃん。こいつ探(さが)すの、てつだってくれてるの」
朋也(ともや)「それは、おまえの姉貴(あねき)か？」
子供(こども)「ううん、しらないひと。でも、いっしょに探(さが)してくれるって」
朋也(ともや)「制服(せいふく)着(き)てたか」
子供(こども)「うーん…たぶん」
朋也(ともや)「どっちに行(い)った？」
子供(こども)「うーん…わからない」
子供(こども)「でも、見(み)つけたらね、ここに戻(もど)ってくるって」
朋也(ともや)「そっか…」
子供(こども)「どうしよう…」
子供(こども)は子犬(こいぬ)の濡(ぬ)れた頭(あたま)を撫(な)でながら、不安(ふあん)げな声(こえ)をあげた。
朋也(ともや)「おまえ、帰(かえ)れ」
子供(こども)「え？」
朋也(ともや)「もう遅(おそ)いし、親(おや)も心配(しんぱい)してるだろ」
朋也(ともや)「これ以上(いじょう)濡(ぬ)れてると風邪引(かぜひ)くぞ。その犬(いぬ)もな」
子供(こども)「うーん…でも…」
朋也(ともや)「礼(れい)は俺(おれ)から言(い)っておいてやる。だから、帰(かえ)れ」
子供(こども)「本当(ほんとう)に？」
朋也(ともや)「ああ」
子供(こども)「ありがとうって。ぜったいに、いってよね」
朋也(ともや)「ああ、任(まか)せろ」
子供(こども)「じゃあね」
朋也(ともや)「ああ、足元(あしもと)に気(き)をつけろよ」
子供(こども)はぱたぱたと走(はし)っていった。
無邪気(むじゃき)なものだった。
朋也(ともや)「さて、と…」
いつ諦(あきら)めて、戻(もど)ってくるだろうか。
後(あと)は待(ま)つしかなかった。
………。
……。
…。
どれだけ時間(じかん)が経(た)っただろうか。
濡(ぬ)れた手(て)が、かじかんで痛(いた)みだす頃(ころ)。
ぱたぱたと雨(あめ)の中(なか)を傘(かさ)もささず、走(はし)ってくる人影(ひとかげ)。
古河(ふるかわ)「やっと見(み)つかりました。元気(げんき)です」
古河(ふるかわ)「わっ…冷(つめ)たい」
胸(むね)に生(い)き物(もの)を抱(かか)えて古河(ふるかわ)は戻(もど)ってきた。
古河(ふるかわ)「この子(こ)で合(あ)ってますかっ」
その手(て)には…
朋也(ともや)「それ…」
朋也(ともや)「間違(まちが)ってるからさ…」
古河(ふるかわ)「え…？」
古河(ふるかわ)「あ、岡崎(おかざき)さんっ」
待(ま)っていたのが子供(こども)でなく、俺(おれ)だと、ようやく気(き)づいたようだ。
古河(ふるかわ)「ここに小(ちい)さな子供(こども)、いなかったですか」
朋也(ともや)「居(い)たよ。もう遅(おそ)かったから先(さき)に帰(かえ)らせた」
古河(ふるかわ)「じゃ、これ届(とど)けないと。心配(しんぱい)してます」
朋也(ともや)「犬(いぬ)は見(み)つかったよ。安心(あんしん)して帰(かえ)った」
古河(ふるかわ)「え？
じゃあ、この子(こ)はなんなんですか？」
朋也(ともや)「そりゃ、こっちが聞(き)きたいね」
古河(ふるかわ)「でも、この子(こ)、ガードレールの下(した)で震(ふる)えてたんです」
朋也(ともや)「いや、だからそれ犬(いぬ)じゃないから…」
古河(ふるかわ)「………」
古河(ふるかわ)「そ、そうですか…」
前屈(まえかが)みになる。強(つよ)くウリボウを抱(だ)きしめた。
古河(ふるかわ)「…本当(ほんとう)に馬鹿(ばか)です、わたしって」
ごほっ、と咳(せき)をした。
朋也(ともや)「大丈夫(だいじょうぶ)か、おまえ」
古河(ふるかわ)「はい…大丈夫(だいじょうぶ)、です…」
そのまましゃがみ込(こ)む。
朋也(ともや)「………」
朋也(ともや)「ほんと、馬鹿(ばか)だよ、おまえは…」
朋也(ともや)「帰(かえ)るぞ」
その肩(かた)を抱(だ)き上(あ)げた。
朋也(ともや)「おーい、誰(だれ)かーっ」
………。
古河(ふるかわ)の家(いえ)は無人(むじん)だった。
朋也(ともや)（店番(みせばん)すら放(ほう)りだして、あの父親(ちちおや)はなにしてんだ…）
とりあえず、寝(ね)かせられるようにと中(なか)に上(あ)がる。
朋也(ともや)（つーか、このまま寝(ね)かせたら、風邪引(かぜひ)くよな…）
全身(ぜんしん)、ずぶ濡(ぬ)れ。下着(したぎ)まで水(みず)は染(し)みこんでいることだろう。
しかし俺(おれ)が着替(きが)えさせるわけにもいかなかった。
早苗(さなえ)「戻(もど)りました」
そこへ早苗(さなえ)さんの声(こえ)。助(たす)かった。
早苗(さなえ)「岡崎(おかざき)さんっ」
朋也(ともや)「居(い)ましたよ。びしょ濡(ぬ)れですから、着替(きが)えさせてやってください」
早苗(さなえ)「はい、わかりました」
後(あと)は任(まか)せて、俺(おれ)は退散(たいさん)することにする。
これ以上(いじょう)、長居(ながい)するのは無粋(ぶすい)だった。
廊下(ろうか)から土間(どま)に降(お)りる。
秋生（あきお）「らっしゃい。って、なんだ、てめぇか」
古河父(ふるかわちち)が居(い)た。
秋生（あきお）「つっか、廊下(ろうか)から降(お)りてきて、客(きゃく)も何(なに)もねぇな…アホか、俺(おれ)は」
秋生（あきお）「とっとと帰(かえ)れ。今日(きょう)はもうやる気(き)がしねぇから閉(し)める」
そう悪態(あくたい)をつく古河父(ふるかわちち)の前髪(まえがみ)からは、ぽたぽたと大粒(おおつぶ)の水滴(すいてき)が落(お)ち続(つづ)けていた。
くわえ煙草(たばこ)の火(ひ)も消(き)えていた。
秋生（あきお）「かーーーっ！
今日(きょう)もクソ残(のこ)っちまったなぁっ」
秋生（あきお）「持(も)って帰(かえ)るか、小僧(こぞう)」
朋也(ともや)「いらねぇよ、オッサン」
小僧(こぞう)と言(い)われたお返(かえ)しに、オッサンを強調(きょうちょう)してやる。
秋生（あきお）「かっ、愛想(あいそ)のねぇ奴(やつ)だな。おぅ、帰(かえ)れ帰(かえ)れ！」
朋也(ともや)「ああ」
入(い)り口(ぐち)に立(た)てかけておいた傘(かさ)を持(も)って、軒先(のきさき)に出(で)る。
秋生（あきお）「おい、小僧(こぞう)」
また意味不明(いみふめい)な捨(す)て台詞(ぜりふ)を言(い)うのだろう。俺(おれ)は無視(むし)した。
秋生（あきお）「………」
最後(さいご)、雨(あめ)の音(おと)に混(ま)じって、礼(れい)の言葉(ことば)が聞(き)こえた気(き)がした。
………。
そして俺(おれ)は…
ボタン「ぷひ…」
朋也(ともや)（こいつを届(とど)けにいかなくてはならないのか…）
それを掴(つか)みあげた。

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僕(ぼく)は風(かぜ)が吹(ふ)く大地(だいち)にいた。
風(かぜ)は隔(へだ)てられるものなく、世界(せかい)の果(は)てから吹(ふ)いてくるような気(き)がした。
こんな体(からだ)でも、その力(ちから)を感(かん)じることができた。
大地(だいち)には、風(かぜ)に煽(あお)られるようにして無数(むすう)の光(ひかり)が舞(ま)っていた。
その中(なか)に、少女(しょうじょ)は立(た)っていた。
今(いま)、また風(かぜ)に煽(あお)られ、いくつもの光(ひかり)が大地(だいち)を飛(と)び立(た)つ。
それを見上(みあ)げる少女(しょうじょ)。
これが、僕(ぼく)の生(う)まれた世界(せかい)。
それは…なんて、幻想的(げんそうてき)なんだろう。そう思(おも)った。
木(き)や草(くさ)、転(ころ)がる石(いし)はごく自然(しぜん)に受(う)け入(い)れられた。
それは、あるべきものだと思(おも)った。
けど、あの光(ひかり)はなんなんだろう。
こんな光景(こうけい)を僕(ぼく)は、ずっと知(し)らなかったはずだ。
また風(かぜ)が吹(ふ)いて、ひとつの光(ひかり)が僕(ぼく)の脇(わき)を抜(ぬ)けていった。
僕(ぼく)はそれを追(お)いかけた。
すぐ目(め)の前(まえ)に浮(う)かんでいる。
手(て)を伸(の)ばしてみた。
光(ひかり)はガラクタで出来(でき)た指(ゆび)を通(とお)り抜(ぬ)けていった。
触(ふ)れることすらも、その進路(しんろ)に少(すこ)しの変化(へんか)を与(あた)えることもできなかった。
僕(ぼく)が呆然(ぼうぜん)と立(た)ちつくしていると、彼女(かのじょ)が隣(とな)までやってきたのが影(かげ)でわかった。
僕(ぼく)は光(ひかり)のひとつを指(さ)さした。
…なに？と、彼女(かのじょ)が訊(き)いた。
僕(ぼく)は答(こた)えることができない。
…その光(ひかり)が不思議(ふしぎ)？
こくん、と頷(うなず)いた。
…空(そら)は？
ううん、と首(くび)を振(ふ)った。
…地面(じめん)は？
ううん。
…この光(ひかり)だけ？
こくん。
…それは、どうしてかな。
彼女(かのじょ)は顎(あご)に手(て)を当(あ)てて考(かんが)えた。
僕(ぼく)も同(おな)じようにしようとしたが、肘(ひじ)の関節(かんせつ)がそこまで曲(ま)がってくれなかった。
だから、不自然(ふしぜん)に腕(うで)を折(お)った格好(かっこう)のまま待(ま)った。
ずっとここに住(す)む彼女(かのじょ)にとっては、光(ひかり)も僕(ぼく)が知(し)る水(みず)や木(き)なんかと同(おな)じ。
自然(しぜん)の一部(いちぶ)なのだ。
でも、それだけは触(ふ)れることができない。
つまりそれは…影(かげ)なんだと思(おも)った。
でも影(かげ)には、本体(ほんたい)がある。
なら、それはどこにあるんだろう。
どこにも、見(み)あたらなかった。
…つまり、と彼女(かのじょ)は口(くち)を開(ひら)いた。
…不思議(ふしぎ)と思(おも)うということは、不思議(ふしぎ)じゃない景色(けしき)を知(し)っている。
かもしれない。僕(ぼく)は頷(うなず)いた。
僕(ぼく)は記憶(きおく)の奥底(おうそこ)を探(さぐ)ってみる。
いつか、遠(とお)い昔(むかし)…
あるいは、遠(とお)い未来(みらい)…
僕(ぼく)は違(ちが)う世界(せかい)にいた。
その感覚(かんかく)だけは覚(おぼ)えてる。
思(おも)い出(だ)せば、胸(むね)のずっと奥深(おくぶか)くが温(あたた)かくなる。
…そこは、どんな場所(ばしょ)だった？
僕(ぼく)は首(くび)を振(ふ)る。
…ここより、もっと素敵(すてき)な場所(ばしょ)だった？
きっと。
…いろんなものがあって、毎日(まいにち)が楽(たの)しかった？
たぶん。
…こんなにも…寂(さび)しくなかった？
………。
ずっと、ひとりで過(す)ごしてきた少女(しょうじょ)。
僕(ぼく)はここが、何(なに)もなくて、楽(たの)しくなくて、寂(さび)しい場所(ばしょ)だと知(し)っていたから…
だから、生(う)まれてきたんだろう。
…そうだよね。
…ここは寂(さび)しい世界(せかい)だよね。
…ねぇ、きみは…
…こんな世界(せかい)に生(う)まれることを望(のぞ)んだ？
僕(ぼく)は何(なに)も答(こた)えず…ただ、彼女(かのじょ)の手(て)を握(にぎ)った。
それが…答(こた)えだった。

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４月２０日(日)

容態(ようだい)だけでも知(し)りたかった。
午後(ごご)になると、俺(おれ)は古河(ふるかわ)パンを訪(おとず)れていた。
秋生（あきお）「いらっしゃい！」
秋生（あきお）「…って、またてめぇかよ、小僧(こぞう)っ」
朋也(ともや)「悪(わる)かったな、オッサン」
秋生（あきお）「何度(なんど)俺(おれ)に勘違(かんちが)いさせるんだ。客(きゃく)らしいツラして入(はい)ってくるんじゃねぇよ」
秋生（あきお）「客(きゃく)じゃないなら、もっとそれらしく振(ふ)る舞(ま)え」
朋也(ともや)「どんなふうにだよ…」
秋生（あきお）「そうだな…」
秋生（あきお）「犬(いぬ)のように四(よっ)つん這(ば)いになって入(はい)ってこい。だったら、異様(いよう)すぎて客(きゃく)だと思(おも)わない」
朋也(ともや)「だろうな…」
秋生（あきお）「で、なんの用(よう)だ」
古河の具合は？
朋也(ともや)「古河(ふるかわ)の…渚(なぎさ)の具合(ぐあい)は。熱(ねつ)とかあるのか」
秋生（あきお）「ちっ、一日(いちにち)ぐらい我慢(がまん)できねぇのか。寝(ね)てるから、そっとしておいてやれ」
秋生（あきお）「ちなみにうわごとでおまえの名前(なまえ)なんて言(い)ってねぇぞ。自惚(うぬぼ)れるな」
秋生（あきお）「言(い)うとしたら、こうだ」
秋生（あきお）「ああん、お父(とう)さん、大好(だいす)き！
チョーカッコイイ！」
秋生（あきお）「チョー美人(びじん)なお母(かあ)さんと、チョーお似合(にあ)い！…ムニャムニャ」
秋生（あきお）「ってなもんだ。いやぁ、マイッタ、マイッタ、と」
熱(あつ)があるのは、この人(ひと)のほうだった。
朋也(ともや)「あのさ、俺(おれ)、真剣(しんけん)に訊(き)いてるんだけど」
秋生（あきお）「かっ…」
煙草(たばこ)の煙(けむり)を深(ふか)く吸(す)い込(こ)んで、吐(は)いた。
秋生（あきお）「微熱(びねつ)だ。大(たい)したことはねぇ。早苗(さなえ)がついてるから、安心(あんしん)しろ」
朋也(ともや)「そっか…」
オッサンの言葉通(ことばどお)り、俺(おれ)は安心(あんしん)した。
朋也(ともや)「じゃあ、明日(あした)は学校(がっこう)に来(こ)れるよな」
秋生（あきお）「ふん、渚(なぎさ)を学校(がっこう)に行(い)かせてほしいか。渚(なぎさ)と学校(がっこう)でチチクリ合(あ)いたいか」
秋生（あきお）「だったら売(う)れ残(のこ)りの早苗(さなえ)のパンを…」
朋也(ともや)「早苗(さなえ)さーーーーーーんっ！」
俺(おれ)はここぞとばかりに店内(てんない)に向(む)けて叫(さけ)んだ。
秋生（あきお）「ぐわっ」
秋生（あきお）「俺(おれ)は早苗(さなえ)のパンが大好(だいす)きだーーーーーーっ！！」
オッサンも、同(おな)じように後(うし)ろを向(む)いて叫(さけ)ぶ。
秋生（あきお）「はぁ、はぁ…おまえ、死(し)んでみたいか」
秋生（あきお）「おまえのせいで、俺(おれ)だけ夕飯(ゆうはん)は早苗(さなえ)のパンだったんだぞ」
朋也(ともや)「なんだか嫌(いや)そうな言(い)い方(かた)だな…早苗(さなえ)さーーーーーーんっ！」
秋生（あきお）「ば、馬鹿(ばか)っ」
秋生（あきお）「やっほーーーーーーーぅっ！
今日(きょう)の晩飯(ばんめし)も早苗(さなえ)のパンだぜーーーーーーっ！」
秋生（あきお）「ふぅ…」
秋生（あきお）「…あ」
秋生（あきお）「って、何(なに)言(い)ってんだ、俺(おれ)はあああぁぁっ！」
朋也(ともや)「宣言(せんげん)したんだから、そうしないとな。早苗(さなえ)さん、また泣(な)くぞ」
もう用(よう)はない。俺(おれ)は踵(きびす)を返(かえ)す。
秋生（あきお）「おい、小僧(こぞう)」
朋也(ともや)「あん？」
秋生（あきお）「タダでくれてやるから、持(も)って帰(かえ)らねぇ？」
朋也(ともや)「いらないよ」
冷(つめ)たく言(い)い放(はな)って、その場(ば)を後(あと)にした。
朋也(ともや)（さて、これからどうするか…）
考(かんが)えるまでもなく、ただで時間(じかん)を潰(つぶ)す方法(ほうほう)なんて、春原(すのはら)の部屋(へや)で過(す)ごす以外(いがい)になかった。
寮(りょう)へ向(む)かう途中(とちゅう)の道(みち)。
声(こえ)「おい、そこのあんたっ」
………。
声(こえ)「あんただよっ」
俺(おれ)か…？
振(ふ)り返(かえ)ると、ひとりの若(わか)い男(おとこ)が俺(おれ)のことを手招(てまね)きしていた。
男(おとこ)「頼(たの)む、ちょっときてくれっ」
ついていく
その先(さき)には一台(いちだい)の乗用車(じょうようしゃ)と、脇(わき)に作業着(さぎょうぎ)姿(すがた)のヘルメットをかぶった男(おとこ)。
奥(おく)には軽(けい)トラも止(と)まっている。
事故(じこ)だろうか。
男(おとこ)「こっちだ。ここを見(み)てくれ」
若(わか)い男(おとこ)は、車(くるま)のボンネットを指(さ)さした。
顔(かお)を近(ちか)づけて見(み)てみると、中央(ちゅうおう)に丸(まる)い窪(くぼ)みが出来(でき)ていた。
朋也(ともや)「それで？」
男(おとこ)「それで、その場(ば)で見上(みあ)げたら、この作業員(さぎょういん)のにいちゃんが居(い)たってわけだ」
見上(みあ)げた先(さき)には、梯子(はしご)が立(た)てかけられた街灯(がいとう)が一本(いっぽん)。
それを修理(しゅうり)するような仕事(しごと)なのだろうか。
作業員(さぎょういん)「何度(なんど)も言(い)っているが…」
作業員(さぎょういん)「工具(こうぐ)を落(お)とすようなヘマはしない」
作業員(さぎょういん)「もししていたとしてもだ。それを隠(かく)すような真似(まね)などしない」
男(おとこ)「自分(じぶん)で気(き)づかないミスだってあるでしょ」
男(おとこ)「ね、あんたも、そう思(おも)うだろ？」
男(おとこ)が俺(おれ)を振(ふ)り返(かえ)る。
男(おとこ)「この人(ひと)は、俺(おれ)の車(くるま)の真上(まうえ)で作業(さぎょう)してた」
男(おとこ)「落(お)としていないと言(い)い張(は)っているが、何(なに)かを落(お)としたから、こうしてボンネットがへこんでる」
男(おとこ)「どっちが常識的(じょうしきてき)か、言(い)ってやってくれよ」
朋也(ともや)「さぁね…」
男(おとこ)「さぁねって…あんたも、常識(じょうしき)のない人間(にんげん)なのかい…参(まい)ったな…」
正直(しょうじき)、どっちでもよかった。
こんなことに巻(ま)き込(こ)まれるなら、ついてこなければよかった。
男(おとこ)「じゃ、あんたの会社(かいしゃ)に電話(でんわ)させてよ。事情説明(じじょうせつめい)するから」
もう、俺(おれ)は用(よう)なしのようだった。
もう少し様子を見ている
作業員(さぎょういん)「修理代(しゅうりだう)を払(はら)えというのなら、払(はら)ってもいい」
作業員(さぎょういん)「けどな…いつかは振(ふ)り返(かえ)って、もう一度(いちど)よく考(かんが)えてみてほしい」
作業員(さぎょういん)「あの時(とき)の電気工(でんきこう)が言(い)っていたことは、偽(いつわ)りだったのかどうかを…」
作業員(さぎょういん)「それを、あなたがもっとも、気(き)の許(ゆる)せる場所(ばしょ)で」
作業員(さぎょういん)「そう、あなたが愛(あい)する人(ひと)のそばでだっ」
男(おとこ)「え…？
何(なに)言(い)ってんの、あんた…」
作業員(さぎょういん)「人(ひと)の日常(にちじょう)とは、傷(きず)つけ合(あ)いの繰(く)り返(かえ)しだ」
作業員(さぎょういん)「他人(たにん)を疑(うたが)うことも無理(むり)はない」
作業員(さぎょういん)「けど、何(なに)もかも信(しん)じられなくなったら…そんな悲(かな)しいことはない」
作業員(さぎょういん)「誰(だれ)の言(い)うことも信(しん)じられなくなるなんて…それは、他人(たにん)の愛(あい)を感(かん)じられなくなることと同(おな)じだ」
作業員(さぎょういん)「ひとりきりになることと同(おな)じだ」
作業員(さぎょういん)「なぁ…俺(おれ)たちは、たったひとりで、一体(いったい)何(なに)ができる？」
作業着(さぎょうぎ)の男(おとこ)が、車(くるま)の持(も)ち主(ぬし)ににじり寄(よ)る。
作業員(さぎょういん)「人(ひと)は、ひとりきりで、どこまで歩(ある)いてゆける？」
作業員(さぎょういん)「あんたは…ひとりきりで辛(つら)い思(おも)いをしてはいないか？」
作業員(さぎょういん)「卑屈(ひくつ)に生(い)きていないかっ？」
作業員(さぎょういん)「素直(すなお)に笑(わら)えているか！？」
男(おとこ)「……は、はは…たぶん…」
乾(かわ)いた笑(わら)いで答(こた)える男(おとこ)。
作業員(さぎょういん)「ふっ…そうか…」
作業員(さぎょういん)「なら、あんたは、愛(あい)されているな」
作業員(さぎょういん)「じゃあ…」
作業員(さぎょういん)「その愛(あい)が消(き)えてしまわないよう、強(つよ)く生(い)き続(つづ)けてくれ」
男(おとこ)「あ、ああ…」
なんて、寒(さむ)いセリフを堂々(どうどう)と言(い)ってのける人(ひと)なのだろう…。
ヘルメットを被(かぶ)ったままで…。
作業員(さぎょういん)「今日(きょう)も愛(あい)を照(て)らし続(つづ)けるよう…俺(おれ)は働(はたら)こう」
梯子(はしご)を登(のぼ)っていこうとする。
男(おとこ)「って、待(ま)てっ、電話番号(でんわばんごう)っ」
作業員(さぎょういん)「む、そうだったな。事務所(じむしょ)の電話番号(でんわばんごう)だったな…」
男(おとこ)「ああ、そうだよっ…」
作業員(さぎょういん)「名刺(めいし)でいいか」
男(おとこ)「ああ」
朋也(ともや)「あのさ」
俺(おれ)はボンネットの上(うえ)に手(て)をかざして、窪(くぼ)みを覗(のぞ)き込(こ)んでいた。
朋也(ともや)「猫(ねこ)みたいなんだけど」
男(おとこ)「………」
作業員(さぎょういん)「…なにが」
作業員(さぎょういん)のほうが反応(はんのう)した。
朋也(ともや)「このへこんでるのさ。この角度(かくど)で見(み)ると、足跡(あしあと)が見(み)える」
朋也(ともや)「この塀(へい)の上(うえ)から飛(と)び降(お)りたんじゃねぇ？」
男(おとこ)「………」
顔(かお)を見合(みあ)わせるふたり。
先(さき)に作業員(さぎょういん)が俺(おれ)のそばまで寄(よ)ってきて、同(おな)じように覗(のぞ)き込(こ)んだ。
作業員(さぎょういん)「…本当(ほんとう)だ」
男(おとこ)「えぇっ…」
後(あと)からきた若(わか)い男(おとこ)も並(なら)んで、目(め)を細(ほそ)める。
男(おとこ)「…あ、本当(ほんとう)…」
作業員(さぎょういん)が男(おとこ)の肩(かた)をぽんと柔(やわ)らかく叩(たた)く。
作業員(さぎょういん)「まぁ、こういうこともあるさ」
男(おとこ)「はは…濡(ぬ)れ衣(ぎぬ)きせちゃって、悪(わる)かったね…」
若(わか)い男(おとこ)は運転席(うんてんせき)に乗(の)り込(こ)むと、逃(に)げるように、車(くるま)を走(はし)らせていった。
朋也(ともや)「………」
作業員(さぎょういん)「ふぅ…」
作業員(さぎょういん)は深(ふか)く息(いき)をついて、腕時計(うでどけい)を見(み)た。
作業員(さぎょういん)「ん…こいつは、まずいな…」
作業員(さぎょういん)「あんた、暇(ひま)か」
俺(おれ)を見(み)て、訊(き)いた。
朋也(ともや)「え？
まぁ…」
作業員(さぎょういん)「よし、手伝(てつだ)ってくれ」
朋也(ともや)「何(なに)を？」
作業員(さぎょういん)「もう一本(いっぽん)、街灯(がいとう)を向(む)こうに押(お)っ立(た)てる」
朋也(ともや)「はぁ？
なんで俺(おれ)が？」
作業員(さぎょういん)「時間(じかん)がないんだ。それにそれだけ若(わか)いんだ。力(ちから)も有(あ)り余(あま)っているだろう？」
作業員(さぎょういん)「ちゃんと、金(かね)も払(はら)う。小遣(こづか)い稼(かせ)ぎにはいいだろう」
手伝う
朋也(ともや)「ただじゃないんなら…ま、いいけど」
手伝(てつだ)うことにした。
朋也(ともや)「でも、修理(しゅうり)していたんじゃなく、設置(せっち)していたんだな」
作業員(さぎょういん)「ああ」
ずっと通(かよ)い慣(な)れた田舎道(いなかみち)だ。
その姿(すがた)が変(か)わっていく。そのことに少(すこ)し抵抗(ていこう)を覚(おぼ)えた。
朋也(ともや)「そもそも街灯(がいとう)なんているのか…？」
そう言(い)うと作業員(さぎょういん)は、不思議(ふしぎ)そうな顔(かお)をした。
作業員(さぎょういん)「あったほうが安全(あんぜん)だろう」
作業員(さぎょういん)「この辺(あた)りは、日(ひ)が暮(く)れれば真(ま)っ暗(くら)になる」
朋也(ともや)「そうだろうけどさ」
作業員(さぎょういん)「町(まち)は人(ひと)が住(す)む場所(ばしょ)だからな、人(ひと)にとっていい姿(すがた)に変(か)わっていくべきだ」
朋也(ともや)「横暴(おうぼう)じゃねぇ？」
作業員(さぎょういん)「またおかしなことを言(い)う」
作業員(さぎょういん)「道(みち)自体(じたい)、人(ひと)のためのものじゃないか」
朋也(ともや)「そうだけどさ…なんとなく」
作業員(さぎょういん)「じゃ、手伝(てつだ)うのやめるか？」
朋也(ともや)「いや、やるよ」
そもそも俺(おれ)は、そんなことを気(き)にするような人間(にんげん)でもなかったはずだ。
作業員(さぎょういん)「よし。じゃ、早速(さっそく)始(はじ)めよう」
………。
……。
…。
作業員(さぎょういん)「お疲(つか)れ。助(たす)かったよ」
…腕(うで)が上(あ)がらない。
ずっと街灯(がいとう)を支(ささ)えていたせいだ。
それどころか梯子(はしご)の上(うえ)に乗(の)っているだけで、不安定(ふあんてい)な体勢(たいせい)が体力(たいりょく)を削(けず)る。
腿(もも)はパンパンに張(は)り、ふくらはぎも痛(いた)みすらある。
俺(おれ)は地面(じめん)にへたり込(こ)み、息(いき)を整(ととの)えるのが精一杯(せいいっぱい)だった。
体力(たいりょく)には自信(じしん)があったけど、風体(ふうてい)を気(き)にする余裕(よゆう)すらない。
朋也(ともや)「そもそも、二人(ふたり)でやる作業(さぎょう)なのか、これがっ」
俺(おれ)は息(いき)も絶(た)え絶(だ)えにそう吐(は)き捨(す)てた。
作業員(さぎょういん)「働(はたら)くのは初(はじ)めてか。なら、無理(むり)もない」
作業員(さぎょういん)「どんな仕事(しごと)だって、これくらい普通(ふつう)だ」
俺(おれ)よりもよっぽど辛(つら)い作業(さぎょう)をやっていたはずなのに、男(おとこ)は涼(すず)しげな顔(かお)で言(い)った。
それにより、俺(おれ)は思(おも)い知(し)らされた。
いかに自分(じぶん)が、ぬくぬくと暮(く)らしてきたかを。
小(ちい)さな悩(なや)みとか、そういうことをうじうじ考(かんが)えていることが馬鹿(ばか)らしくなるほどにしんどい。
社会(しゃかい)に出(で)る、ということは、そんな日々(ひび)に身(み)を投(とう)じる、ということなのだ。
想像(そうぞう)はしていたけど…想像(そうぞう)以上(いじょう)だった。
目(め)の前(まえ)の男(おとこ)だって、俺(おれ)とさほど変(か)わらない歳(とし)の若(わか)い男(おとこ)だ。
その男(おとこ)にいとも簡単(かんたん)に、『これくらい普通(ふつう)だ』などと言(い)われれば、ショックもでかかった。
作業員(さぎょういん)「どうした、落(お)ち込(こ)んだような顔(がお)して」
朋也(ともや)「い、いや…」
作業員(さぎょういん)「でも、結構(けっこう)使(つか)えたよ、あんた」
気(き)にするなとの気(き)づかいか、俺(おれ)の肩(かた)をぽん、と叩(たた)いた。
作業員(さぎょういん)「初(はじ)めての奴(やつ)と組(く)むと、もっと手間取(てまど)る。体力(たいりょく)あるほうだ」
朋也(ともや)「そうっすか…」
なんの救(すく)いにもならない。
作業員(さぎょういん)「ふぅ…後(あと)、今日(きょう)は二件(にけん)か…」
男(おとこ)は音(おと)を立(た)てて、首(くび)を回(まわ)した。
信(しん)じられない。今(いま)のような作業(さぎょう)を後(あと)、二回(にかい)こなすというのだ、この男(おとこ)は。
しかも、午前中(ごぜんちゅう)だって、同(おな)じことをしてきたのかもしれない。
作業員(さぎょういん)「後(あと)で、もう一回(いっかい)戻(もど)ってくる。手当(てあて)はそのときに渡(わた)す」
朋也(ともや)「はぁ…」
作業員(さぎょういん)「お待(ま)たせ」
朋也(ともや)「いえ、一度(いちど)戻(もど)ってましたから」
作業員(さぎょういん)「ほら、バイト代(だい)。悪(わる)いな、半分(はんぶん)しか出(で)なかった」
作業員(さぎょういん)「一日(いちにち)働(はたら)いてないのに、丸々(まるまる)出(だ)せるかって言(い)われてな」
男(おとこ)は灰色(はいいろ)の封筒(ふうとう)を差(さ)し出(だ)した。
下(した)の方(ほう)に、何(なに)やら会社名(かいしゃめい)が書(か)いてあった。
俺(おれ)はまだ痛(いた)みが残(のこ)る腕(うで)で、封筒(ふうとう)を開(あ)けた。ひのふのみの…
朋也(ともや)「これ、間違(まちが)いじゃないんすか？」
作業員(さぎょういん)「ん？
そんなことないと思(おも)うが」
俺(おれ)は男(おとこ)に封筒(ふうとう)を渡(わた)し、見(み)てもらった。
作業員(さぎょういん)「違(ちが)わない。そんなに少(すく)なかったか？」
いや、逆(ぎゃく)だ。どう考(かんが)えても多(おお)い、と思(おも)った。
話(はなし)では、これでも半分(はんぶん)の額(がく)だと言(い)う。
もし満額(まんがく)もらっていたのなら。
この額(がく)ならば、自分(じぶん)の力(ちから)だけで食(く)っていける…。
けど、それは甘(あま)い考(かんが)えなんだろう。
俺(おれ)のような、冷(さ)めやすい性格(せいかく)の人間(にんげん)に、勤(つと)まるような仕事(しごと)じゃなかった。
きっとすぐに嫌気(いやき)が差(さ)して、投(な)げ出(だ)してしまうに違(ちが)いなかった。
じゃあ、俺(おれ)は、どんな場所(ばしょ)に収(おさ)まれるというんだろう…。
俺(おれ)はかぶりを振(ふ)る。
そんなことを今(いま)から、考(かんが)えていたくなかった。
きっと、なるようになる。
今(いま)は、今(いま)を楽(たの)しんでおこう…。
作業員(さぎょういん)「そういや、自己紹介(じこしょうかい)もまだだったな」
作業員(さぎょういん)「名刺(めいし)、渡(わた)しておくよ」
作業員(さぎょういん)「芳野(よしの)だ」
朋也(ともや)「岡崎(おかざき)っす」
名刺(めいし)を受(う)け取(と)る。そこには電設会社(でんせつかいしゃ)の名前(なまえ)と、芳野祐介(よしのゆうすけ)という文字(もじ)が記(しる)されていた。
作業員(さぎょういん)「じゃあ、急(いそ)ぐんでな」
作業員(さぎょういん)は荷物(にもつ)を持(も)つと、向(む)かいに止(と)めてあった軽(けい)トラへと歩(ある)いていく。
中(なか)に乗(の)り込(こ)み、最後(さいご)にこちらを見(み)て片手(かたて)を上(あ)げると、低(ひく)いエンジン音(おと)と共(とも)に去(さ)っていった。
朋也(ともや)「………」
手(て)に持(も)った名刺(めいし)にもう一度(いちど)視線(しせん)を落(お)とす。
朋也(ともや)（…よしのゆうすけ）
朋也(ともや)（どこかで見(み)たことのある名前(なまえ)だな…）
どこだったっけか。
うまく思(おも)い出(だ)せない。
朋也(ともや)（春原(すのはら)にでも訊(き)いてみるか…）
朋也(ともや)「どっかで聞(き)いたことあるんだよ、その人(ひと)の名前(なまえ)」
腰(こし)を落(お)ち着(つ)けると、早速(さっそく)俺(おれ)は、作業員(さぎょういん)の話(はなし)をしていた。
春原(すのはら)「そりゃあ、狭(せま)い町(まち)だからな、出会(であ)っていても不思議(ふしぎ)じゃないだろ」
朋也(ともや)「いや、顔(かお)に覚(おぼ)えがあるんじゃなくて、名前(なまえ)に覚(おぼ)えがあったんだよな…」
春原(すのはら)「へぇ、なんて名前(なまえ)なの」
朋也(ともや)「ええと…忘(わす)れた」
春原(すのはら)「思(おも)い出(だ)せよ。ほら、名刺(めいし)とかもらってないのかよ？」
朋也(ともや)「もらってるよ」
春原(すのはら)「出(だ)してくれ」
朋也(ともや)「おまえが出(だ)してくれよ」
春原(すのはら)「どこから」
朋也(ともや)「俺(おれ)のズボンのポケットから」
春原(すのはら)「超不精者(ちょうぶしょうもの)っすね！」
朋也(ともや)「わかったよ…」
俺(おれ)はサイフを腰(こし)から取(と)り出(だ)すと、札(さつ)と一緒(いっしょ)に入(い)れてあった名刺(めいし)を引(ひ)き抜(ぬ)く。
朋也(ともや)「ああ…これだな。芳野(よしの)…祐介(ゆうすけ)」
春原(すのはら)「芳野(よしの)…祐介(ゆうすけ)？」
朋也(ともや)「ああ、ほら」
俺(おれ)の手(て)から乱暴(らんぼう)に名刺(めいし)を奪(うば)い取(と)ると、それを春原(すのはら)は食(く)い入(い)るように見(み)た。
春原(すのはら)「どんな顔(かお)してたっ」
朋也(ともや)「え？
どんな顔(かお)っつっても…目(め)つきが悪(わる)いぐらいしか…まぁ、男前(おとこまえ)ではあったな…」
春原(すのはら)「他(ほか)には」
朋也(ともや)「後(あと)…とても、寒(さむ)いセリフを堂々(どうどう)と言(い)っていたな」
朋也(ともや)「卑屈(ひくつ)に生(い)きていないか、とか、素直(すなお)に笑(わら)えているか」
春原(すのはら)「ぐはー」
春原(すのはら)「それ、伝説(でんせつ)のＭＣ。本物(ほんもの)だよ…」
春原(すのはら)「なんだよ、今(いま)は、こんな町(まち)で電気工(でんきこう)なんてしてんのか…」
朋也(ともや)「今(いま)はって、昔(むかし)はなんだったんだよ」
春原(すのはら)「この人(ひと)、プロのミュージシャンで、ＣＤとか出(だ)してたんだぞ」
朋也(ともや)「マジ…？」
春原(すのはら)「ああ。カリスマ的(てき)な人気(にんき)っていうの？
テレビも出(で)ないのに、かなり売(う)れてたんだぜ？」
春原(すのはら)「おまえも、ラジオとかで耳(みみ)にしてたんじゃないの？」
朋也(ともや)「そうかもな…」
春原(すのはら)「たぶん、探(さが)せばテープあるよ。聴(き)いてみるか？」
朋也(ともや)「ああ…」
春原(すのはら)がダンボールの底(そこ)から、一本(いっぽん)のカセットテープを掘(ほ)り当(あ)てる。
春原(すのはら)「妹(いもうと)が好(す)きだったんだよ」
朋也(ともや)「妹(いもうと)っ！？」
春原(すのはら)「ああ、妹(いもうと)だよ。いるって、言(い)ってなかったっけ？」
朋也(ともや)「訊(き)いてねぇよ…詳(くわ)しく教(おし)えろよな、こらぁ」
春原(すのはら)「待(ま)て、話題(わだい)が変(か)わってないか？」
朋也(ともや)「ああ…そうだったな」
そもそも春原(すのはら)の妹(いもうと)だ。妖怪(ようかい)みたいな奴(やつ)に違(ちが)いない。
そう考(かんが)えると、すぐ興味(きょうみ)は失(う)せた。
春原(すのはら)「ほら、これで聴(き)いてくれ」
朋也(ともや)「ああ」
ポータブルのテープレコーダーにカセットをセットし、イヤホンを耳(みみ)に押(お)し込(こ)んで、再生(さいせい)ボタンを押(お)す。
朋也(ともや)「………」
妖怪(ようかい)じみた春原(すのはら)の妹(いもうと)が好(す)きだというわりには、普通(ふつう)のロックだった。
いや、普通(ふつう)じゃない。なかなか良(よ)かった。
いや、なかなかどころではない。かなり良(よ)かった。
歌詞(かし)まで聴(き)いていると、激(はげ)しい音(おと)なのに、涙(なみだ)が出(で)てきそうになる。
なんなんだろう…。
これを共感(きょうかん)、というのだろうか。
俺(おれ)はイヤホンを外(はず)した。
春原(すのはら)「なかなかいいだろ？」
朋也(ともや)「そうか…これを聴(き)いて人間(にんげん)に憧(あこが)れを抱(だ)くようになったんだな…」
春原(すのはら)「誰(だれ)が？」
朋也(ともや)「おまえの妹(いもうと)」
春原(すのはら)「最初(さいしょ)から人間(にんげん)だよっ！」
朋也(ともや)「わりぃ、想像(そうぞう)が飛躍(ひやく)して、おまえの妹(いもうと)、妖怪(ようかい)になってたよ」
春原(すのはら)「飛躍(ひやく)しすぎだ…」
春原(すのはら)「で、音楽(おんがく)のほうはどうだったんだよ」
朋也(ともや)「ああ、よかったよ」
春原(すのはら)「な、イカスだろ？」
春原(すのはら)「妹(いもうと)が好(す)きだったんだけどさ、僕(ぼく)も聴(き)いてるうちに悪(わる)くないなぁって思(おも)うようになってさ…」
春原(すのはら)「ま、ボンバヘッにはかなわないけどね」
春原(すのはら)「これ、妹(いもうと)が僕(ぼく)のために作(つく)ってくれたベストなんだぜ？」
キュルキュル…
朋也(ともや)「んっ？
テープがヘンな音(おと)を立(た)てているぞ？」
朋也(ともや)「あ、絡(から)まって、回(まわ)ってら」
春原(すのはら)「え？」
朋也(ともや)「取(と)りだしてみよう」
春原(すのはら)「やめてくれぇーーーーーっ！！」
レコーダーの蓋(ふた)を開(あ)け、テープを掴(つか)んで引(ひ)っぱりあげる。
しゅるしゅるしゅるーーーーーーっ！
海藻(かいそう)をぶちまけたように、辺(あた)り一面(いちめん)にテープが舞(ま)う。
春原(すのはら)「うおおぉぉぉぉーーーっ！
妹(いもうと)が作(つく)ってくれたベストがあぁぁぁーーーーっ！」
春原(すのはら)「なんてことしてくれるんだよおぉぉーーっ！」
朋也(ともや)「まぁ、落(お)ち着(つ)け。本人(ほんにん)がこの町(まち)にいるじゃないか」
春原(すのはら)「だから、なんなんだよっ」
朋也(ともや)「気休(きやす)めにならないか？」
春原(すのはら)「ならねぇよっ！」
春原(すのはら)「くそぅーっ、おまえの宝物(たからもの)も壊(こわ)してやるーっ！」
春原(すのはら)「なんのベストだぁ！
エロベストかぁーっ！
最初(さいしょ)のインタビューのところだけ集(あつ)めて編集(へんしゅう)してあるエロベストかぁーっ！」
朋也(ともや)「まぁまぁ、落(お)ち着(つ)け。そんな無意味(むいみ)な部分(ぶぶん)だけ編集(へんしゅう)しないから」
朋也(ともや)「ほら、本人(ほんにん)がこの町(まち)に居(い)るんだからさ、ＣＤ借(か)りれるじゃん。それ借(か)りて、同(おな)じベスト作(つく)ればいいだろ？」
春原(すのはら)「本人(ほんにん)に、ＣＤ借(か)りるのか…？」
朋也(ともや)「ああ。持(も)ってるはずだろ？」
春原(すのはら)「そりゃ、持(も)ってないわけないだろうけど…」
春原(すのはら)「でも、本人(ほんにん)に借(か)りるってすごい発想(はっそう)だな…それ盲点(もうてん)だよ…」
朋也(ともや)「ああ、でも、本人(ほんにん)が居(い)るんだよなぁ…もっといいようにできそうだな」
春原(すのはら)「サインとかもらってやったら、妹(いもうと)の奴(やつ)、喜(よろこ)ぶだろうなぁ」
朋也(ともや)「うん、そうだろ。そうしとけ」
春原(すのはら)「…あからさまに茶(ちゃ)を濁(にご)しにかかってんね」
朋也(ともや)「んなことねぇって。おまえの妹(も)の喜(よろこ)ぶ声(こえ)を俺(おれ)も聞(き)きたいんだよ」
朋也(ともや)「ケケェーーーーーッ！てな」
春原(すのはら)「んな喜(よろこ)びかたしねぇよ！」
朋也(ともや)「ほら、今(いま)から会(あ)いにいこうぜ。まだ近(ちか)くにいるかも」
春原(すのはら)「ったく…頼(たの)むぞ、本当(ほんとう)に」
立(た)ち上(あ)がり、すぐさま行動(こうどう)に移(うつ)す。
春原(すのはら)「思(おも)い出(だ)したんだけどさ…」
寮(りょう)を出(で)たところで、春原(すのはら)が足(あし)を止(と)めていた。
朋也(ともや)「ん？
なにを」
春原(すのはら)「今(いま)、音楽(おんがく)のことを本人(ほんにん)に切(き)り出(だ)すのはまずいかも…」
朋也(ともや)「どうして」
春原(すのはら)「今(いま)はもう、見(み)ての通(とお)り、音楽活動(おんがくかつどう)はしてないんだけどさ…」
春原(すのはら)「最後(さいご)は、かなり荒(すさ)んだ状況(じょうきょう)だったって聞(き)いたことある」
春原(すのはら)「そん時(とき)のことを知(し)ってるファンだったら、絶対(ぜったい)に声(こえ)はかけられないようなさ…」
朋也(ともや)「でも、俺(おれ)たち、ファンじゃないじゃん」
春原(すのはら)「おまえ、恐(こわ)いモノ知(し)らずだね…」
朋也(ともや)「つまり、どんな対応(たいおう)されようが、知(し)ったこっちゃない、ということだ」
春原(すのはら)「おまえはそうかもしれないが、僕(ぼく)は結構(けっこう)気(き)にするよ…」
朋也(ともや)「どうして」
春原(すのはら)「サイン、もらってやらなくちゃいけないからな…」
朋也(ともや)「おまえ、シスコンだったのな」
春原(すのはら)「違(ちが)うよっ、恩(おん)を売(う)っておきたいんだよっ」
春原(すのはら)「後々(あとあと)、便利(べんり)じゃん？」
朋也(ともや)「そういうことにしておいてやろう」
春原(すのはら)「だから、な。こっちから切(き)り出(だ)すのはやめよう」
朋也(ともや)「じゃ、どうすんだよ」
春原(すのはら)「うまく様子(ようす)を探(さぐ)ってみようぜ」
朋也(ともや)「どうやって」
春原(すのはら)「そうだな…僕(ぼく)たち、バンドやってるんですって言(い)って、反応(はんのう)を見(み)てみるとか」
春原(すのはら)「話(はなし)に乗(の)ってきたらさ、好(す)きなアーティストに芳野祐介(よしのゆうすけ)の名(な)を挙(あ)げてみる」
春原(すのはら)「わだかまりがなかったらさ、正体(しょうたい)明(あ)かしてくれるよ」
春原(すのはら)「実(じつ)は俺(おれ)…その芳野祐介(よしのゆうすけ)なんだよ、ってさ」
春原(すのはら)「そしたら、サインもらえるよ、きっと」
朋也(ともや)「そうだな…そううまくいけばいいな」
春原(すのはら)「おまえも、ちゃんと協力(きょうりょく)しろよ」
春原(すのはら)「そもそも、おまえが僕(ぼく)のテープをパーにしてくれたところから話(はなし)は始(はじ)まってんだからさ」
朋也(ともや)「どうすりゃいいんだよ」
春原(すのはら)「話(はなし)を合(あ)わせて、おまえも一緒(いっしょ)にバンドやっていることにしてくれればいいよ」
朋也(ともや)「担当(たんとう)は、トライアングルってことでいいか」
春原(すのはら)「いまいちバンドっぽくないね」
朋也(ともや)「じゃ、次(つぎ)の小節(しょうせつ)の歌詞(かし)を教(おし)える役(えき)」
春原(すのはら)「即興(そっきょう)の合唱(がっしょう)じゃないんだから、そんな奴(やつ)バンドにはいないでしょ…」
朋也(ともや)「じゃあ、なにがいいんだよ」
春原(すのはら)「ドラム」
朋也(ともや)「できねぇって」
春原(すのはら)「できなくても、嘘(うそ)でいいんだよ。かまかけるだけだからさ」
朋也(ともや)「向(む)こうは元(もと)プロだぞ？
突(つ)っ込(こ)まれたらバレるじゃないか…」
春原(すのはら)「別(べつ)にこっちは素人(しろうと)なんだからいいんだよ」
春原(すのはら)「何(なに)質問(しつもん)されても、ドラムってモグラ叩(たた)きに似(に)てますよね、って答(こた)えておけよ」
朋也(ともや)「本当(ほんとう)にそれでいいんだな…」
春原(すのはら)「ああ。そして、僕(ぼく)はギター」
朋也(ともや)「あの人(ひと)もギター弾(ひ)いてたんだろ？
同(おな)じ楽器(がっき)にするとやばくねぇ？」
春原(すのはら)「逆(ぎゃく)だ。同(おな)じ楽器(がっき)にしておかないと、話(はなし)が盛(も)り上(あ)がらないだろ」
朋也(ともや)「弾(ひ)けない奴(やつ)が、話(はなし)、合(あ)わせられるのかよ…」
春原(すのはら)「どうとでもなるさ。まぁ、見(み)てろって」
やる気(き)を取(と)り戻(もど)し、歩(ある)き始(はじ)める。
朋也(ともや)「さっきは、ここで会(あ)ったんだよ」
春原(すのはら)「いないね…」
朋也(ともや)「軽(けい)トラで走(はし)り去(さ)ったからな」
春原(すのはら)「じゃ、いるわけないよね」
朋也(ともや)「だな…」
朋也(ともや)「いないなぁ」
春原(すのはら)「車(くるま)に追(お)いつくって、無謀(むぼう)じゃない？」
朋也(ともや)「でも、まだ仕事(しごと)があるって言(い)ってたから、町(まち)のどこかにはいるって」
春原(すのはら)「町(まち)のどこかって…んな適当(てきとう)な…」
春原(すのはら)「ウォーリーより難易度(なんいど)高(たか)いっての」
さらに歩(ある)き回(まわ)る。
駅前(えきまえ)まで出(で)てくるのも、もう三度目(さんどめ)だ。
春原(すのはら)「やっぱ、いないね…」
朋也(ともや)「いや…」
今(いま)まではなかった軽(けい)トラが停(と)めてある。
その向(む)こう側(がわ)に、人(ひと)の動(うご)く気配(けはい)。
朋也(ともや)「いた」
春原(すのはら)「えっ…どこどこ？」
朋也(ともや)「いくぞっ」
俺(おれ)たちはその軽(けい)トラに近(ちか)づいていった。
春原(すのはら)「あ、あの作業服(さぎょうふく)の人(ひと)？」
朋也(ともや)「ああ」
春原(すのはら)「やべ、緊張(きんちょう)してきた…漏(も)れそ」
朋也(ともや)「ちっす」
荷台(にだい)に荷物(にもつ)を乗(の)せ終(お)えた作業員(さぎょういん)に声(こえ)をかける。
芳野(よしの)「…ん？」
芳野(よしの)「おぅ、さっきはサンキュな」
俺(おれ)の顔(かお)を見(み)て、そう返(かえ)してくれた。
春原(すのはら)「どうも」
俺(おれ)の背後(はいご)から春原(すのはら)が顔(かお)を出(だ)す。
芳野(よしの)「ん？
誰(だれ)だ？」
春原(すのはら)「僕(ぼく)、岡崎(おかざき)くんの友達(ともだち)で、春原(すのはら)っていいます」
芳野(よしの)「なんだ。あんたも手伝(てつだ)ってくれんのか」
春原(すのはら)「いや、僕(ぼく)は今(いま)、腰(こし)を痛(いた)めてて…イツツ」
芳野(よしの)「そうなのか…そりゃお大事(だいじ)に」
春原(すのはら)「でも、現場(げんば)の仕事(しごと)って興味(きょうみ)あるなって思(おも)って」
芳野(よしの)「ふぅん…」
春原(すのはら)「それで、いろいろと話(はなし)を聞(き)きたいんですけど、いいですか」
芳野(よしの)「まぁ、仕事(しごと)もキリがついたところだし。暗(くら)くなるまでな」
春原(すのはら)「うっす」
うまく取(と)り入(い)ることに成功(せいこう)していた。
春原(すのはら)「僕(ぼく)ら進学校(しんがくこう)に通(かよ)ってるんすけど、勉強(べんきょう)サボッてて、すでに進学(しんがく)諦(あきら)めてる組(くみ)なんすよ」
ベンチに並(なら)んで腰(こし)かけて、話(はなし)を始(はじ)めていた。
芳野(よしの)「ふぅん」
春原(すのはら)「だから、高卒(こうそつ)でも就(つ)ける仕事(しごと)を探(さが)してて…」
芳野(よしの)「まぁ、ウチの仕事(しごと)なら、そりゃ学歴(がくれき)なんて問(と)わないが…」
芳野(よしの)「でも、まだ一年(いちねん)あるんだろ。進学(しんがく)諦(あきら)めるには早(はや)すぎやしないか」
その質問(しつもん)に春原(すのはら)は来(き)た、とばかりに身(み)を乗(の)り出(だ)した。
春原(すのはら)「…今(いま)は、勉強(べんきょう)じゃなく、音楽(おんがく)をやってたいんすよ」
芳野(よしの)「音楽(おんがく)？」
春原(すのはら)「僕(ぼく)たち、バンドやってるんす」
果(は)たして、どんな顔(かお)をするだろうか…。
『最後(さいご)は、かなり荒(すさ)んだ状況(じょうきょう)だったって聞(き)いたことある』
本当(ほんとう)に、そうなら…
芳野(よしの)「へぇ…バンドか…」
………。
芳野(よしの)「そいつは、いいなっ」
むちゃくちゃ好印象(こういんしょう)だった！
芳野(よしの)「楽器(がっき)は何(なに)やってんだ」
春原(すのはら)「僕(ぼく)、ギターっす。こいつはドラム」
芳野(よしの)「へぇ、あんたドラムやってたのか。なかなか難(むずか)しいだろ」
朋也(ともや)「ドラムってモグラ叩(たた)きに似(に)てますよね」
芳野(よしの)「………」
むちゃくちゃ怪訝(かいが)な顔(かお)をされているが…。
芳野(よしの)「まぁ、叩(たた)くという行為(こうい)は同(おな)じだけど…似(に)てるかね…」
芳野(よしの)「で、あんたはギターか」
春原(すのはら)「うっす。ギターッス」
芳野(よしの)「指(ゆび)、見(み)せてみろ」
春原(すのはら)「指(ゆび)っすか…」
春原(すのはら)の手(て)を一方的(いっぽうてき)に掴(つか)むと、その先(さき)を自分(じぶん)の指(よび)で揉(も)んだ。
芳野(よしの)「………」
芳野(よしの)「…本当(ほんとう)に弾(ひ)いてるのか？」
春原(すのはら)「え…」
…見(み)ろ、バレてるじゃないか。
春原(すのはら)「むちゃくちゃ弾(ひ)きまくってるすよっ。毎日(まいにち)練習(れんしゅう)漬(つ)けっす」
芳野(よしの)「そうか…」
芳野(よしの)「どんな練習(れんしゅう)だ」
春原(すのはら)「えっと…こう、ガガガッと…」
右手(みぎて)を上下(じょうげ)にストロークさせた。
芳野(よしの)「まだ、コードだけか」
春原(すのはら)「コ、コード？
コードというと？」
芳野(よしの)「和音(わおん)だよ、和音(わおん)」
春原(すのはら)「わ、和音(わおん)っすか…和音(わおん)は難(むずか)しいっすねっ」
芳野(よしの)「今(いま)の持(も)ち方(かた)だと、パワーコードか」
芳野(よしの)「ま、最低(さいてい)それぐらいはできないと、何(なに)もできないもんな」
春原(すのはら)「そうっすね。パワードスーツぐらいっすね…ははっ」
単語(たんご)、変(か)わってないか。
春原(すのはら)「あのっ」
芳野(よしの)「なに」
春原(すのはら)「芳野(よしの)さんはギターに詳(くわ)しいっすね。もしかして弾(ひ)けるんすか」
核心(かくしん)に近(ちか)づいていく。
芳野(よしの)「そうだな、多少(たしょう)は」
春原(すのはら)「じゃ、見(み)せてくださいよっ、是非(ぜひ)聴(き)きたいなぁ！」
芳野(よしの)「おまえな…」
芳野(よしの)「人(ひと)に頼(たの)む前(まえ)に、自分(じぶん)の聴(き)かせろよ」
春原(すのはら)「えっ！？」
芳野(よしの)「明日(あした)ギター持(も)ってこい。聴(き)いてやるから」
芳野(よしの)「アドバイスぐらいは、してやれると思(おも)うぞ」
春原(すのはら)「………」
固(かた)まったままで、芳野祐介(よしのゆうすけ)の乗(の)った軽(けい)トラを見送(みおく)る春原(すのはら)。
朋也(ともや)「最悪(さいあく)の展開(てんかい)だな、おい」
朋也(ともや)「そもそも、おまえギター持(も)ってないじゃん」
春原(すのはら)「はは…なんとかするさ…」

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